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またね、と彼女は言った
初めて大気圏外に出たソヴィエトの青年将校は、眼下に見えた地球を青みがかっていたと表現した。
今、彼と同じ視点を持つことができれば、きっとこう表現するだろう。
――地球は、赤黒かった。
*
人類と深海棲艦との全面戦争は終局を迎えようとしていた。人類の敗北という形で。
既に人類は制海権をうしなって久しく、地球の海はその八割を赤く浸食されていた。
最大の反攻作戦として人類の総力を結集したレイテ湾突入作戦に失敗し、人類は深海棲艦に立ち向かう唯一の戦力であった艦娘の大半を喪失、もはや逆転の余地はなくなった。
深海棲艦との講和が望めない絶滅戦争である以上、人類の目的は生存圏の奪還から種の存続へと切り替わっていった。生き残った一握りの人類は最後の砦であった日本列島に集められ、
*
「提督、どうぞ」
「ああ、すまない、榛名」
精悍な顔に傷痕を残した司令官がマグをとった。ありがたそうに白湯をすする。榛名と呼ばれた、長い髪と明るいブラウンの瞳を持った艦娘は静かに微笑んだ。
彼らは今、艦娘艦隊唯一の移動拠点にして最後の拠点であるイージス巡洋艦<シャイロー>に乗り込んでいる。戦争中、どさくさ紛れに合衆国海軍から拝借した艦だが、既に合衆国はこの世になく、返すこともできなくなっていた。もっとも、この艦も弾薬は使い果たしており、残された燃料も十分とは言えない。深海空要塞の爆撃によって鎮守府が完全に破壊された今、司令官と艦娘たちに残されたただ一つの居場所が、このイージス巡洋艦だった。
ただ、
「明日で、終わりか」
マグを机の上に置き、司令官はそう呟いた。榛名は「はい」とだけ答える。
人類に残された二機の宇宙往還機によって、地球外への脱出を選んだ人々の移送は数週間にわたって続けられていた。衛星軌道上には、人類が最後の力を振り絞って建造した移民船が浮かんでいる。
そして、明日、宇宙へ上がる最後の人々とともに往還機の推進剤が尽きる。それで終わりだった。大深度地下空間に逃れた人々は、深海に見つからないよう既に大坑道をすべて爆破してしまっていたし、これで地上にはごく限られた人間だけが残ることになる。
司令官も、地上に残ることになった人間の一人だった。それは地上を離れる人類を護るためだ。たった一つだけ残された艦娘艦隊。それを指揮できるのは彼一人だったからだ。
一部の艦娘たちは猛反対した。鹿島や駆逐艦たちは号泣しながら懇願してきた。
お願いです、提督さん。宇宙へ逃げてください。
だが、司令官は困ったように笑い、首を左右に振った。それはできなかった。司令官として、艦娘艦隊と命運をともにしようと決めていたからだ。
地上と海から離れたくないという感情もあった。うしなってしまった艦娘たちへの罪悪感もあった。
――逃れる理由など、何もなかった。
「少し、外の空気を吸ってくる」
「お供します」
司令官は榛名を伴って士官次室を出た。
*
壊滅した横須賀鎮守府を引き払い、<シャイロー>はどうにか原型をとどめている横浜港に接舷している。少し離れたところには天空へ向けて巨大なカーヴを描く電磁カタパルトが見え、そのそばには真っ白い鶴が翼を伏せたような姿の往還機が二機、その翼を休めていた。主翼に4423とステンシルされた機体がエンデヴァー4、1820とステンシルされた機体がチャレンジャー2と呼ばれている。
榛名とともに岸壁に降り立った司令官は焼き尽くされた街並みを見て、深いため息をついた。
「提督?」
「自分が情けなく感じるな。結局、人も街も護りきれなかった。君たちが命をかけて戦ってくれたのに」
人の住めなくなった街。無理矢理に造られた電磁カタパルト。推進剤の尽きようとしている往還機。そして、航行するのがやっとのイージス巡洋艦。司令官の目に映るすべてが彼を責め立てているように感じられた。
「そんなこと……」
「あの戦いで日本を看取らせて、生まれ変わったら地球を看取らせて……すまないと思っている」
榛名は口をつぐんだ。彼女は、そっと左手を右手で覆ったようだった。
深海戦争がまだ膠着状態を保てていた二年前、司令官は秘書艦だった榛名と一つの約束を交わした。
戦争が終わったら、結婚しよう。
そのときに渡せた「指輪」は統合司令本部から支給された艦娘リミッター解除機構でしかなかった。だが、戦争さえ終われば、司令官は何の役にも立たない指輪を榛名に渡すつもりだった。
もっとも、それ以降、戦況は人類にとって悪化の一途をたどり、約束はついに果たされることはなかった。
「そんなこと、ありません」
三分ほどの後、榛名は口を開いた。左手から離した右手で、そっと司令官の手を握る。
「きっと、金剛お姉様も比叡お姉様も、霧島も、そんなこと思っていません」
太平洋の底で眠る姉妹たちを思い出しているのだろう。司令官の手を握る榛名の手に、少しだけ力が込められた。
彼女たちだけではない。多国籍軍として多くの艦娘を預かった司令官。彼は、その大半を深海棲艦との戦いでうしなっている。彼女たち一人一人の死に様を忘れたことはなかった。
「提督、榛名はまだあの約束を憶えています。きっと、提督は約束を守ってくれると信じています」
「榛名……」
「榛名は、まだ未来をあきらめていません」
司令官の手を握ったまま、榛名は力強くそう言った。本当に芯の強い娘だな。司令官はそっと微笑んだ。
「……あら?」
榛名が手を離した。少し離れた場所を見つめている。司令官もそこを見る。人影があった。子供のようだった。この岸壁は立入禁止になっているが、特にゲートで詰めている歩哨がいるわけでもない。子供が迷い込んできても不思議はなかった。
榛名は早足でその人影に近づいていった。司令官も後を追う。
「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」
そこにいたのは、小さな女の子だった。両手で熊のぬいぐるみを抱えている。榛名はしゃがみ込んで女の子と視線の高さを合わせた。
女の子は最初、何かを言いたそうにしていたが、うまくことばにできないようだった。榛名は視線の高さを合わせたまま、女の子に微笑みかける。
「……うん」
女の子は頷いた。榛名は「そうなのね」と女の子の手を取り、司令官を振り返った。彼女の表情から察した司令官は軍帽を目深に被り直した。
「構わない。送り届けてあげよう」
「提督、ありがとうございます」
榛名は女の子を抱き上げて歩き出した。司令官もその後を歩く。
恐らく、この子は往還機で宇宙へあがる避難民の一人だろう。司令官はそう思った。そして、それは間違っていなかった。女の子は両親とともに横浜へ集められたのだという。そんなことをたどたどしく榛名に話していた。
岸壁から急ごしらえの宇宙港へは、歩いて一五分ほどだった。司令官と榛名の視界に映る往還機と電磁カタパルトが、その大きさを徐々に増していく。
「あたし、あれ乗るの」
女の子は駐機している往還機を指さした。チャレンジャー2。あと一回、宇宙へ駆け上がるだけの推進剤しか積まれていない純白の往還機。
「そうなの、いいなぁ」
榛名はそっと往還機を見た。その顔には、どこか寂しさを感じさせる微笑が浮かんでいる。
「お姉ちゃんたちは乗らないの?」
「うん。お姉ちゃんたちは大事なお仕事があるから、一緒には行けないの」
「ん……じゃあこれ、お姉ちゃんにあげる!」
女の子はずっと大事そうに抱えていたぬいぐるみを榛名へ差し出した。榛名は驚いた顔をして再びしゃがみ込む。
「どうしたの?」
「あのね、お父さんが言ってたの。荷物はみんな置いていきなさいって。このクマさんも連れて行っちゃダメだって。だから、お仕事がんばってるお姉ちゃんにあげる」
往還機の打ち上げには重量の軽減が求められる。避難民の荷物は確かに置いていかねばならないだろうが、ぬいぐるみの一つくらいは許されるのではないか。司令官はそう思った。
だが、榛名は女の子の厚意をむげに断ることはしなかった。ぬいぐるみを受け取り、そっと女の子を抱きしめる。
「じゃあ、お姉ちゃんが預かっておくね。必ず返してあげるからね」
「いいよぉ、お姉ちゃんにあげるから」
「大丈夫。必ず返してあげるから」
やがて、女の子を探していたらしい若い夫婦が榛名と司令官に気付いた。女の子を軽く叱りながら、榛名と司令官に何度も頭を下げる。
「バイバイ、お姉ちゃん」
「またね」
両親に手を引かれた女の子へ、榛名はそう呼びかけた。渡されたぬいぐるみを強く抱きしめながら、もう一度、彼女は呟いた。
「またね」
*
空は美しいスカイ・ブルーで満たされていた。人類が、もう二度と目にすることはないかもしれない青。
その青を一秒だけ見上げ、司令官は視線を前に戻した。<シャイロー>の甲板上、生き残った艦娘たちが整然と並んでいる。
「敬礼!」
最後の艦娘艦隊、その旗艦を務める長門が号令した。艦娘たちの整った挙手礼に答礼し、司令官は腕を下げる。
「今となっては、言うべきことは何もない。これが最後の打ち上げだ。往還機を護り抜いてほしい。以上だ」
再び挙手礼をとる艦娘たち。彼女たちは素早く<シャイロー>の右舷から飛び降り、海面を滑るように配置についていった。それを一人で見送り、司令官は右舷の向こう、電磁カタパルトの射出地点にタキシングしていく往還機を見やった。エンデヴァー4だった。
司令官は<シャイロー>のブリッジへ上がった。彼以外、誰もいない。今、この艦は彼を除いて無人だった。以前までは艦娘と残されたわずかな人員で動かしていたが、司令官は人間をすべてこの艦から下ろし、順次往還機で避難させていた。これからの俺と艦娘艦隊に、無理に付き合う必要はない。そう言って。
軍帽を脱ぎ、コンソールの上に置かれていたインカムを被る。少しだけ聞こえるノイズ。
「各艦、状況を報告せよ」
艦娘たちから報告が次々と寄せられる。今、彼女たちは電磁カタパルトを囲むように
「提督」
榛名の声だった。
「どうした」
「……必ず、護ります」
「頼む」
ことばのやりとりは、それだけで十分だった。榛名の、艦娘艦隊の覚悟を感じ取った。
やがて、大気を引き裂く爆音と、電磁カタパルトの急激な加速音が周囲に響き渡った。
「エンデヴァー4、リフトオフ。加速値上昇中。空力限界高度まで、三五秒」
加速中の往還機から通信が入る。青い空に吸い込まれるように消えていった白い鳥に、司令官と艦娘たちは小さく敬礼を捧げた。
次で最後だ。チャレンジャー2は発射位置へタキシングしていく。電磁カタパルトの充電には若干の時間が必要だった。静寂。次にその静けさを破るのは、往還機が宇宙へ向かって翔け上がっていく音のはずだった。
「……っ! 全艦に通達、敵艦隊視認! 二時の方向、距離二〇〇〇〇、ヲ級確認、二つ!」
「レーダーに感、敵艦載機接近中!」
偵察機を発艦させていた葛城と、FuMoレーダーを稼働させていたプリンツ・オイゲンからの報告。緊張の度合いが増した。艦載機が発艦しているということは、艦隊同士の接触よりも早く航空攻撃が始まることを意味していた。上空には葛城、隼鷹、龍鳳、そして鳳翔の艦戦隊が空中待機しているが、相手はヲ級が二隻。数で圧されたらこちらが不利だ。
そして、それは現実のものとなった。電磁カタパルト目指して殺到する漆黒の深海艦載機(恐らく艦爆隊)。艦娘艦隊は隊形を第三警戒航行序列に組み替え、猛烈な対空射撃をもってそれらを邀撃した。
「伊58、伊400、伊47、やれるか!?」
その一言で潜水艦隊に司令官の意思は伝わった。急速潜行して一定の方向を目指す三人の潜水艦。それを認めて、司令官は視線を電磁カタパルトへ戻した。
「チャレンジャー2、シャトル接続完了。カタパルト、最終蓄電開始」
往還機からの通信にじれったさのようなものを感じながら、司令官は艦娘たちへ次々と指令を下した。
*
ヲ級艦載機群による攻撃は熾烈さを増した。深海の艦攻隊までが電磁カタパルトへ向けて魚雷を投下してくる。
「ふんっ、効かんな!」
長門、伊勢、日向が自ら盾となって魚雷から電磁カタパルトを護る。
「再懸架なんてさせませんっ!」
魚雷を切り離し、母艦へ戻ろうとした深海の艦攻隊を雪風たちが叩き落とす。その隙に深海の艦爆隊が電磁カタパルトへ向かって急降下してきた。葛城の艦戦隊がそれに追いすがり、機銃を容赦なく撃ち込む。
「チャレンジャー2、メインスラスター点火。推力上昇中。臨界まであと一二〇秒」
あと二分、あと二分だけ護れればいい。榛名は全身の兵装を空に向けていた。生まれ変わる前の、あの夏の日のように。
そのとき、遠くから爆発音が聞こえた。
「えっ!?」
主砲に三式弾を再装填しながら、榛名は爆発音のした方へ視線を向けた。巨大な水柱が二つ。敵のヲ級がいた方向だ。
「やってくれたか」
司令官の声。そこから何が起きたのかを榛名は理解した。先ほど司令官の指示によって潜行した三人の潜水艦。彼女たちがヲ級を仕留めたのだ。司令塔たる母艦を撃沈された深海の艦載機は途端に動きから鋭さをうしなった。統制もとれていない。
「今だ、撃て!」
長門が三式弾を空に向かって放つ。一〇機以上の艦載機が瞬時に四散した。榛名もそれに続いて三式弾を撃った。粉微塵に砕け散る漆黒の艦戦隊。
「チャレンジャー2、臨界まであと一〇秒」
――だが、その中の一機が、加速前の往還機に気付いた。電磁カタパルト以外の獲物へ向かって、速度を上げる深海の艦戦。隼鷹の艦戦隊が阻止しようとしたが、両者の間には距離がありすぎた。
「ダメだ、間に合わない!」
隼鷹の悲痛な叫び。機銃程度なら往還機の耐熱皮膜で防げるかもしれないが、体当たりでもされたらひとたまりもない。
「あの子が乗っているのに……!」
榛名はうめいた。昨日出会った女の子がチャレンジャー2に乗っている。
「榛名、お前の主砲しか届かない、撃て!」
司令官の叫びが聞こえた。
「でも提督、三式弾だと往還機まで……」
「徹甲弾だ、当てろ!」
それしかなかった。命中する可能性は限りなくゼロに近い。だが、榛名は全主砲に徹甲弾を装填した。当てる。当てるしかない。あの女の子にぬいぐるみを返すと誓った。またね、と言った。
「届いて!!」
全主砲斉発。八発の九一式徹甲弾は超音速で大気を叩き割りながら飛翔した。
「お願い――」
そのすべては深海艦戦に命中しなかった。だが、砲弾がまとう
「カタパルト作動。チャレンジャー2、射出」
カーヴを駆け上り、電磁気力と運動エネルギー、そして榛名たちの想いを受け取った往還機がスラスターから青白い炎を吐き、空へ向かって飛び立っていった。
*
太陽が沈もうとしている。
濃いオレンジ色の夕陽が、もう動く必要のない<シャイロー>を染め上げる。彼女の甲板上で、太陽の姿に目を細めていた司令官はそっと軍帽を脱いだ。
「行っちゃいましたね」
司令官の傍らに立つ榛名が、かすかに見え始めた星々を見上げてそう呟いた。
「行ってしまったな」
地上に残された、数少ない人間の一人となった司令官は、榛名と視線を合わせて天を仰いだ。いくつもの小さな星の輝き、その中に、あの女の子が乗り込んだ移民船があるのだろうか。
「これからどうしようか、榛名」
護るべきものをなくしてしまった司令官のことばに、榛名は微笑んだ。静かに、優しく。
「生き抜きましょう、提督。言ったでしょう? 榛名は、まだ未来をあきらめてはいません」
「……そうだな。その通りだ。一緒に生きてくれるか、榛名」
「はい、榛名は大丈夫です!」
地球は回り、また明日がやってくる。どこまで生きられるかはわからない。だが、自らの手を握る榛名の手から伝わる体温に、不思議と安堵感を覚えた。
生きよう。この娘と一緒に。司令官はもう一度空を見上げた。
いくつもの星が、瞬いていた。