時空管理局へようこそ(満面の笑み)   作:紅乃 晴@小説アカ

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法務部の頼れるオブザーバー

 

 

次元世界に数多と存在する並行世界。

 

そこには、それぞれに独自の文化があり、歴史があり、そして当然、言語がある。

 

時空管理局がその監視と管理を担う以上、異世界の文化理解は避けて通れない。むしろそれは、政治的交渉や法的解釈を正しく行うための“地ならし”でもある。

 

政治的文書の調査、法制度の解釈、文化的衝突による齟齬の仲裁。

 

法務部は常に理性と客観性を武器に、混乱の火種を未然に摘む最後の砦として機能してきた。

 

──ただ一つ、法務部が潔く白旗を上げる案件がある。

 

それは――「意味が、読めない」。

 

今回持ち込まれたのは、新たに発見された遺跡に記された憲章と見なされるものであった。

 

本来なら考古学分野、あるいは歴史研究科の領域だ。

 

しかし、現地の調査団はそこに記されていたのが「既に解読された古代文字」だと判断していた。

 

となれば、あとは法解釈と運用の範疇。自然と、その案件は法務部へと流れてきた。

 

そこからが地獄の始まりである。

 

調査を開始して間もなく、翻訳班の誰かがぽつりと呟いた。

 

「……これ、古代文字じゃないですね?」

 

執務室の空気が、ピタリと凍りついた。誰もが同じ違和感を覚えながらも、それを言葉にするのを避けていた。だがその一言で、全員がそれを認めざるを得なくなる。

 

比較対象は多い。

 

無限書庫と直結した資料網を用いれば、既知の次元圏における古文書のほぼすべてにアクセスできる。それにもかかわらず、どの文字とも一致しない。

 

「どこの世界の文字でもない……?」

 

規則性はある。

 

文としての構成も整っており、明らかに“読むために設計された文”である。

 

にもかかわらず、まったく意味が掴めない。

 

それこそが、法務部にとっての“最大級の爆弾”であった。

 

これは単なる解読困難な言語ではない。

 

もしこの文書が、その世界において法的に有効な憲章であるならば、それを解読できないことは──その世界の法体系そのものが不明である、ということになる。

 

つまり、どんな政治的判断も、どんな裁定も、その憲章と矛盾する可能性を常に孕んでしまう。

 

それは政治運営の上では致命的だった。

 

法務部はただちに翻訳班を総動員し、昼夜の区別なく調査に没頭した。

 

ユーノ・スクライア司書長の協力のもと、無限書庫に蓄積された全測定次元の言語体系を照合。

 

古文書班も加勢し、文字の配列解析、バイナリ変換、古代ベルカ式のアナグラム、さらには忘れ去られた反転構文まで、可能性のある限りを試した。

 

新人職員は資料の山に顔を突っ込んだまま動かなくなり、才女と称されるエースですら、頭を抱えてデスクの下で体育座りをしていた。

 

「……これ、もしかして……ただの……落書きなんじゃ……?」

 

誰かが漏らしたその言葉が、最後の希望を静かに打ち砕いた。

 

数十時間に及ぶ総力戦の末に導き出されたのは「読めない」という、最も単純で、最も絶望的な結論だった。

 

報告を受けた法務部主任は、しばらく無言で報告書を眺めていた。そこに並ぶのは整った筆致の文字。しかし、その意味は永遠に謎のまま。

 

主任はやがて、何の感情も宿らぬ表情で、そっと顔を覆った。

 

この世でもっとも恐ろしいのは、意味の分からぬ文章そのものではない。

 

それが、憲章として過去に履行されていたという、覆しようのない事実なのだ。

 

分厚くなる一方の解釈書類。

 

要約、補足、推測、誤読、再要約……。

 

主任は静かに報告書を閉じると、購入したばかりの安物メガネを外し、ぼそりと漏らした。

 

「だめだぁ……にっちもさっちも、押すも引くも、読むも書くもできん……」

 

「期限、明日ですよ主任。……ねぇ、もう全員で土下座しに行きます?条約破棄だけは勘弁してくださいって」

 

「それは最終兵器だ。使うときは俺の辞職届とセットになる。……今は、その一歩手前だ」

 

椅子から立ち上がった主任は、執務室のホワイトボードに外出予定を記入していく。

 

「どちらへ?」

 

「St.ヒルデ魔法学園……こうなったら仕方がない。伝手を使う」

 

「伝手?どこの誰に?」

 

「St.ヒルデに所属する、歴史と文字に精通した人物だ。昔、少しだけ縁があってな……」

 

その口調には、希望というより、背水の決意が滲んでいた。

 

 

 

 

 

St.ヒルデ魔法学園

 

若き魔導師の卵たち、あるいは魔力素質を持たない者にも広く門を開いた、次元世界有数の教育機関。

 

それがSt.ヒルデ魔法学園である。

 

その中でも特に独特な雰囲気を漂わせているのが、北棟に位置する多目的ホール。魔導理論や実技とは異なり、派手な発光や魔力反応とは無縁な、歴史文化学の講義がここで行われていた。

 

長机に並ぶ学生たちの表情はさまざまだ。

 

前列では眼鏡の少女が真剣にノートを取り、隣では魔法陣を模したタブレットに講義内容を書き込む男子生徒。

 

中列には腕を組んで話を聞く者もいれば、明らかに退屈そうに頬杖をつく者もいる。

 

後列に至っては小声でおしゃべりを始めた者もいたが、ふとある一言で空気が引き締まった。

 

「──歴史を軽んじる者は、歴史に報復される」

 

教壇に立つのは、30代後半と思われる落ち着いた風貌の男性。

 

くたびれたスーツと深い知識を湛えた眼差しが、彼の年月と経験を物語っていた。

 

彼の名はトール・キャナダイン。

 

元・時空管理局執務補佐官。現在はSt.ヒルデ魔法学園に招聘され、歴史研究科の講義を受け持つ教授であった。

 

「……これは私の持論です。便利なものを使えることは重要ですが、使ってよいかを判断できることは、もっと重要です」

 

大型のホログラムスクリーンに映し出される年表には、次元世界における重大事件の記録──次元震、植民戦争、古代ベルカの興亡などがずらりと並んでいた。

 

「この中に、皆さんの使っている術式の原型がいくつかあります。たとえばこの年、ベルカ戦争で転位術が戦術に初めて組み込まれたとされている。それはなぜか?」

 

彼は指先で画面を軽く示し、間を置いた。

 

「……答えられる人?」

 

数人の学生が目を伏せる。だが前列の少女が手を上げると、教授は軽く頷いた。

 

「戦線の膠着を打破するために、拠点を瞬間的に占拠する術として開発されたと記録されています」

 

「正解。……では、なぜその術式は後に禁術指定を受けたのか?」

 

空気が張り詰める。別の男子学生がそっと手を挙げる。

 

「敵味方の区別がつかず、拠点制圧中に民間人への被害が多発したため……でしょうか」

 

「そのとおり。術そのものが悪ではありません。しかし、それを使う環境と判断次第で、術は加害の形を取る。それを理解しなければ、我々はまた同じ過ちを繰り返します」

 

静かに、しかしはっきりとした口調で語るその姿に、さきほどまで退屈そうだった生徒たちも、少しずつ身を乗り出していた。

 

「歴史を学ぶとは、過ちを学ぶことです。なぜ? どうして?その疑問を持つこと。それこそが、我々歴史文化学の真の目的だと、私は考えています」

 

講義の終盤、彼はそう結んだ。

 

そしてチャイムが鳴る。

 

空気が一気に緩み、学生たちはざわめきながら退出準備を始める。キャナダインは自らの荷物、資料のファイル、古びた手帳を静かに片づけながら、もう一度教室を見渡した。

 

「今週のレポートは、先ほど触れたベルカ転位術をテーマに。教科書の記述だけでなく、自分の考察を忘れずに。来週の小テストは第三章から第五章が範囲です。……忘れずにな」

 

「はーい」

「うわ、また小テストかよ……」

「歴史文学難しい……」

 

生徒たちの反応はさまざまだが、いずれも一定の緊張と、どこか敬意をにじませているようだった。

 

そして、教室がある程度空いたところで、ひとつの声が講壇脇からかかった。

 

「お久しぶりです。キャナダイン先輩」

 

ふと声の主を見た教授は、わずかに驚き、そして優しく目を細めて微笑んだ。

 

「……やあ。どうだったかな? 我ながら、今日は少しは寄り添った講義をしたつもりなんだが」

 

「ああ、随分と丁寧でしたよ。……なにせ、現役時代の貴方の説明じゃ、理解できたのは三割程度でしたから」

 

「あの頃は、私も若かったからね。回りくどい話し方をすれば、賢く見えると思っていたんだ」

 

教授は冗談めかして笑い、後輩だった男の姿をもう一度見やる。

 

法務部主任。

 

今ではひとつの部局を預かる立場となった彼が、こんな場所まで自ら足を運んできた理由など、一目で察せる。

 

「……お前さんが私を訪ねてくる時ってのは、たいてい厄介事を抱えてる時だろう?」

 

「ご明察です」

 

苦笑混じりに返す主任に、教授は荷物を小脇に抱えながら言った。

 

「ならば、控室で話そう。こんな場所では、学生たちの疑問に正面から答えられなくなる」

 

「助かります。……本当に、困ってるんですよ」

 

二人は、多目的ホール奥の控室へと姿を消していった。

 

 

 

 

控室の奥、窓の外に見える学園の庭園は午後の陽を受けて穏やかに光っていた。

 

しかし、その穏やかさとは裏腹に、室内の空気は次第に緊張を帯びていく。

 

法務部主任が差し出した端末には、解読不能な文字列がびっしりと並んでいた。

 

キャナダイン教授はそれをじっと見つめ、一言つぶやく。

 

「……憲章の解読か。お前さんの持ってくる困りごとは毎回厄介だが、こいつは特に厄介な相手だな」

 

「キャナダイン先輩、文字に見覚えがあるのですか?」

 

問いに答えず、教授はゆっくりと立ち上がると、控室の壁際に並ぶ書架へと向かう。

 

鍵のかかった小さな木箱をひとつ取り出すと、その中から防湿処理が施された数冊の資料と、丁寧に巻かれた羊皮紙を取り出した。

 

「こいつは──特別な時にしか出さない。あまり大っぴらに扱うものでもないからな」

 

教授は慎重に一冊の薄い冊子を開いた。表紙には魔法学会の古い刻印、そして“第二次アーカイブ調査・未整理資料”のラベルが貼られている。

 

ページをめくると、そこには主任が持ってきた憲章に酷似した、いや、まさに同一系列としか思えない文字列が並んでいた。

 

「……ダーク文字というものを覚えているか?」

 

「ええ、古代ベルカ以前の文化圏で使用された文字ですが……まさか、それが?」

 

「そのまさかだな」

 

トールは、自身の記録と主任の端末とを交互に見比べながら、慎重に、時に目を細め、時に唸り声を漏らしながら読み進めた。

 

「ダーク文字とは、古代ベルカ以前──我々が歴史として記録を残すよりも前の時代に存在した文明が遺した、断片的な文献の総称だ。短命な文明が多く、文字や記録の様式に一貫性がまるでない」

 

教授が指差したのは、羊皮紙の一枚だった。墨で書かれた古代の図表のようなものがあり、そこには複数の異なる記号体系が重ねられるように記録されている。

 

「見ての通り、このページだけで三種の異なる文体系が混在している。左上の記号列──ここが、君の憲章の文字に非常によく似ている」

 

主任も端末の表示を拡大し、教授の指示に従って照合を進める。図表の記号と、憲章に現れる幾つかの文節が確かに一致していることに気づき、思わず息を呑む。

 

「一致している……いや、それどころか、文章構造も近いように思えます」

 

「だろうな。ただし、注意しておけ。一致しているのは表面だけで、文法構造は別の文明のそれに近いかもしれない。意味は文脈でしか見えない。ダーク文字というのは、そういう厄介な代物なんだ」

 

教授は言いながら、別の巻物を広げる。

 

それは外縁調査隊が数年前に持ち帰ったもので、かすれたインクが時代の重みを物語っていた。

 

「この巻物の年代測定では、少なくとも約十億五千万年前という結果が出た。ざっくりとした測定ではあるが、それでも気の遠くなる数字だ」

 

主任はその数字を聞き、言葉を失う。

 

「十億年……?」

 

「そうだ。この文献群の存在自体が、我々が文明と呼ぶものの歴史を根底から揺るがす可能性を持っている。古代ベルカなど、むしろ比較的新しい文明にすぎない。問題は、これだけ古いものが、どうして、どのように現代まで残っているかだ」

 

主任は、手元の憲章に視線を戻す。その文字列が、たった一枚の文書ではなく、過去の“世界”とつながる糸口であるという事実が、次第に重くのしかかってきた。

 

「これが……この文書が、歴史そのものを変える鍵だとしたら?」

 

「可能性はある。だが、真実は常に単純ではない。この“鍵”が何を開けるのか……それを知るには、もう少し深く潜らねばならんな」

 

教授の目は、文字の奥に潜む深淵を見据えていた。それは知識への探求ではなく、もはや歴史という名の迷宮への旅そのものだった。

 

 

 

 

調査は数時間におよんだ。

 

控室の窓の外では、すでに夕陽が学園の庭に長い影を落としていた。

 

教授の卓上には複数の資料が開かれ、羊皮紙、魔導式の簡易投影機、そして法務部から提供された高精細スキャンデータが並べられている。

 

ページをめくる音、紙の擦れる音。時折、教授の低い独り言が室内に響いた。

 

そして、ついに教授が手を止め、静かに背凭れに体を預けた。

 

「……ふむ。どうやら、お前さんの心配していたような憲章ではなかったようだ」

 

主任が顔を上げる。

 

「え?」

 

「この文書は……厳密には、古代ベルカ以前の都市国家の一つで使用されていた交易港における貨物整理手順と税制に関する細則だ。少なくとも、そう読める」

 

「……」

 

拍子抜けしたような沈黙が落ちた。

 

主任は端末のスクリーンに表示されたその文字列を、改めて見つめた。

 

それが「時空間条約の前身」「失われた文明の基本法規」といった類の大発見ではなかったことに、少なからず落胆があったのも事実だ。

 

しかし、それ以上に――

 

「……そうですか。じゃあ、これは……特に重要なものじゃない」

 

「まあ、歴史的価値はそれなりにある。だが、現代の局務に影響するような内容ではないな。輸送船に積む箱の重さの基準とか、関税の計算法とか……むしろ、実務的すぎるくらいだ」

 

教授はどこか楽しげに言った。主任は目を伏せ、やがて静かに笑った。

 

「いや、正直に言えば……ほっとしました。変な意味じゃありませんよ」

 

「分かってるさ。これがもし憲章だったら、法務部も上層部も、数年は面倒な調査と報告書に追われる羽目になっていただろうからな」

 

「冗談抜きで泣きますよ。こっちは常に案件が山積みなんですから」

 

ふっと、室内にささやかな笑いが戻る。沈黙の中で積み上がっていた緊張が、ようやく解けた瞬間だった。

 

主任は席を立ち、丁寧に頭を下げる。

 

「本当に、ありがとうございました。キャナダイン先輩。先史期なんて、私にはとても手に負えるものじゃなかった」

 

「礼はいいさ。研究者にとっては、こういう機会はいつだってありがたい。久しぶりに楽しかったよ。……お前さんが私のところへ“厄介事”を持ってくるのは、決まってそういう時だからな」

 

「そうですね。次はもう少し面白いものを持ってきますよ。せめて、箱の中身が宝石だったとか、そういうやつを」

 

「ふん、楽しみにしてるよ」

 

夕暮れの陽が控室に差し込み、ページの上にやわらかな光を落とす。主任は端末を閉じ、感謝の言葉をもう一度だけ胸の中で繰り返してから、静かに部屋をあとにした。

 

背中に教授の声が追いかける。

 

「次に会うときは、ちゃんとお土産を持ってくるんだぞ!」

 

「了解です、先輩」

 

その声に、ほんの少し肩の力が抜けた。

 

 

 

 

 

法務部の扉を開けた瞬間、主任は自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。

 

複雑な魔法や時空構造を相手取るよりも、理解できない言語に頭を抱える方が、よほど精神を削るらしい。

 

「主任、お帰りなさい!」

 

真っ先に駆け寄ってきたのは新人たちだった。焦点の合っていない目に、資料と格闘した苦労の痕がにじんでいる。

 

「で……どうだったんですか、あの文書?」

 

「……条文だ」

 

「じょうぶん?」

 

「ただの港湾管理用の貨物整理ルールと関税の計算式。憲章でもなければ、特別な禁呪の封印でもなかった」

 

職員たちはしばし沈黙し──

 

「えええええええ!?!?!?」

 

大爆発のような声が飛び交った。予想外の落ちに、驚きと安堵とが同時に弾ける。

 

「主任……それ、もっと早く言ってくださいよ……!こっちは胃がキリキリして……!」

 

「先に言ったらおもしろくないだろ。こういうのはオチが肝心なんだよ」

 

「いやドラマじゃないんですよ、こっちは現実で仕事してたんですよ……!」

 

主任は冗談めかして笑いながら、自分の席に荷物を置いた。その様子を見ていた翻訳班の主任代理が、深く息をついて呟く。

 

「まあでも、重大じゃなくて良かった。上層部からの確認も厳しめだったし……」

 

「上にも報告済みだ。教授からの鑑定結果を添付して、“法的有効性はなく、参照価値は限定的”って明記した。……上は拍子抜けしたみたいで、“了解、保留不要。文化資料として保存”で終わったよ」

 

その報告に、部内全体からふぅと小さな安堵の吐息が漏れた。

 

さらに数日後、相手方──文書の出土地を管理する次元世界の地方政体とも最終調整が完了し、文書はあくまで「歴史的文物」であると正式に認識された。相互の誤解も払拭され、案件は円満に収束を迎える。

 

誰もが「思ったより穏やかに終わった」と感じた。

 

主任はその夜、いつものコンビニで買った安い缶コーヒーを片手に、オフィスの窓辺に立っていた。外はすっかり夜で、次元航路の明滅する光が遠くにまたたいている。

 

あの文字列に出会った時の、あの言いようのない恐怖と焦燥が、今となっては遠い夢のようだった。

 

「……やれやれ。結局、ただの物流マニュアルか……」

 

思わず苦笑いが漏れる。

 

だが、主任は同時に知っていた。もしもその文書が本当に憲章だったなら、今ごろ自分は寝る間もない地獄に突入していたのだと。

 

──今回に限っては、「肩すかし」こそが最高の結末だった。

 

案件が円満に収束し、翻訳班の誰もが「これでしばらくはゆっくり眠れる」と心底安堵していたその日の夕方。主任は、自席の片付けを終えるとジャケットを羽織りながら言った。

 

「じゃ、俺はこれで。あとよろしく頼む」

 

「え、帰るんですか?今日はまだ20時前ですよ」

 

「ああ、ちょっと用事があるんでな」

 

そう言って軽く手を振り、主任は執務室を後にした。

 

その足で向かったのは、管理局本部からは少し離れた街の外れ──古びたが落ち着いた風情のある酒屋だった。木製の看板が軒先に吊るされたその店は、知る人ぞ知る老舗で、珍しい銘柄も多く取り扱っている。

 

主任は棚を眺めながら、迷いなくある一本を選ぶ。

 

「すいません。これ、ください」

 

それは、キャナダインが現役時代に好んでいた赤ワインだった。独特のスパイス香と深い渋みが特徴で、教授がかつて管理局での打ち上げの席で語っていた「私の頭も、これぐらい芳醇であってほしいもんだ」との台詞が懐かしく思い出される。

 

紙袋に包まれたその一本を抱えて、主任は夜風の中を歩き出した。

 

向かう先は、St.ヒルデ魔法学園の教員用宿舎。管理局を退いた教授が静かに暮らす、小高い丘の中腹にある小さな家だ。

 

星が散らばる夜空を見上げながら、主任はふっと笑う。

 

「たまには、ただのありがとうだけを言いに行くのも悪くないか」

 

ピンポンという玄関のチャイムの音に続いて、ゆっくりと開く扉。

 

「おや、また厄介事でも運んできたのかと思ったぞ」

 

「違いますよ。今日は厄介事じゃなくて、礼を言いにきたんです。ほら、これ」

 

差し出されたワインを見て、キャナダインは目を細めた。

 

「……これは懐かしいな。覚えていてくれたのか」

 

「先輩の好みを忘れるほど、俺も歳取ってませんよ」

 

「ふふ……まあ、上がっていけ。どうせなら、今夜は語ろう。文字の話でも、酒の話でも」

 

「じゃあ、失礼して」

 

そう言って、主任は久々に後輩の顔へと戻る。

 

夜がゆっくりと降りていく中、小さな家に灯った明かりと笑い声が、静かな丘に優しく響いていた。

 

そして、誰にも知られないまま一つの物語はそっと幕を閉じたのだった。

 

次に見たいもの

  • 法務部の活躍
  • 交換部の活躍
  • 広報企画部の活躍
  • 新しい部門の話
  • 各部門の主任は同期なので飲み会とか
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