時空管理局監査部。
管理局内に名を連ねるこの部署の役割を一言で言うのなら、組織の自浄作用だ。
多次元世界を股にかける巨大司法組織である管理局には、不正や汚職、賄賂による市場の独占など、悪事を働こうと思えばいくらでもできる余地がある。
だからこそ、その“緩み”を引き締め、より厳格に監視するのが監査部の役目であった。
……と聞くと、まるで映画やドラマのような組織内の汚職を摘発するチームのような響きなのだが、その現在、汚職の摘発そのものは監査部においてそこまで頻繁な業務ではない。
驚くべきことに、管理局における汚職の記録は非常に少ない。過去に摘発された案件は数えるほどしかなく、段ボール一箱……具体的に言えば、市議会の会計ミス程度の範囲で事足りる程度。
だが、それは監査体制が厳しいからではない。いや、もちろん監査部は常に目を光らせている。だがそれ以上に、汚職が成立しない構造と文化が、管理局には根づいているのだ。
まず汚職が蔓延っていない理由の第一に、相手が汚職の成立する土俵にいないという点がある。
管理局の交渉相手となる多次元の存在は、文化も価値観も根本的に異なる。中には通貨という概念すらない文明圏や、見返りという行為がタブー視されている宗教体系、商取引をすべて詩で行う詩的共感文明なども存在する。
当然、そのような相手に金銭のやり取りで合意を得るという手法は通じない。
汚職や賄賂が成立するには「共通の価値観」と「共通の利権」が必要だ。だが、管理局が向き合う相手は、まず言語、価値観、文化的概念が通じない。感情構造も、契約概念も、そもそも交渉という考えすらない場合もある。
「賄賂を渡す」という行為が、相手から侵略、徹底的に相手を絶滅されるまで戦うと認識される世界さえあるのだ。賄賂を使う前に世界がひとつ潰れることもある。
だから管理局の職員がいくら利を得たくても渡す相手が、いない。
そして第二に、職員たちが利己的になる暇がない。
一つの任務に必要な業務量は、時に国家レベルになる。相手との信頼構築、文化調整、翻訳支援、行政機関の併設。どの任務も複雑で重く、数年単位のプロジェクトになることも珍しくない。
その上、現場でのミスは世界単位の損失になる。
解釈を間違えただけで局所戦争が起こるのだ。火薬庫どころか剥き出しの火薬の前で火遊びをするレベルである。
だからこそ、局員たちは使命感という名の爆走列車に乗り込んでいる状態。利己的な操作で一部の利益を得るくらいなら、「何もせずに安全な日常を守る」方が、遥かに価値があるという共通認識がある。
第三に、利益を求める者たちの給料が“勝手に”上がる。
多次元世界の治安維持という超高ストレス業務の報酬は、どの文明基準でも高水準だ。さらに、勤務評価はポイント制で自動処理されており、どれだけ激務でも「こなせばこなしただけ自動的に加算されていく」システム。
そのため、本人たちは気がついたら高給取りになっている。
「大して贅沢してないのに通帳が桁を間違えてる」
「休日に寝て起きたら資産が増えてる」
そんな局員は少なくない。
なら、わざわざ危険を冒して賄賂や汚職を働く必要があるか?
ない。
完全にない。
そして、最後の要因。それが倫理感の共有だ。
管理局では、採用段階から倫理適正が重視される。
一人一人が「世界を守るためにここにいる」という価値観を叩き込まれており、それは日々の任務の中で、皮膚感覚として染みついていく。
任務中に倒れた仲間を見て、取り返しのつかないミスの現場に居合わせて、「守るべきは、自分の得ではなく、多元世界の未来だ」と悟るのだ。
つまり、時空管理局における汚職の少なさとは、単なる制度や統制の結果ではなく、環境・構造・文化・倫理観すべてが噛み合った結果の副産物なのだ。
その徹底した教育と、日常業務から得られる達成感から、管理局の職員たちは【使命感】と【理想】に突き動かされて働いている。
それはもう……やりすぎなくらいに。
組織全体が「多次元世界の安定を守る」という巨大な理想に突き動かされており、そのせいで発生する問題の方が、むしろ遥かに深刻だったりする。
その結果、監査部の人間を悩ませているのが、管理局員の大多数が「休まない」ことである。
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激務に次ぐ激務。
膨大な仕事量を、限られた人員で回す日々。しかも、誰かに強制されているわけではない。ほぼ全員が、自分の意志と使命感で働いている。
よくある話だ。「上司がパワハラ気質で~」「部下の手柄を横取りして~」……そんな連中は管理局にはほとんど存在しない。
というか、いたとしてもすぐに消える。
なぜなら、そんな真似をして現場でミスをすれば、都市が吹き飛ぶレベルの事故になりかねないからだ。責任を取るのが上司の役目である以上、時にそれは物理的に命をかけるという意味にもなる。
さて、そんな使命感に燃える職員たちには、ひとつだけ大きな欠点がある。
「休む」という言葉を忘れがちになる、ということだ。残業時間が規定を何十時間と超えていても気にしない。
「この仕事だけはやってから帰ります」と笑顔で言う。その「この仕事」が10件くらい並んでいるのが日常だ。もはや自分で自分を洗脳しているような状態である。
例えば、とある深夜の一幕。
「あとこれだけ!あとこれだけ終わったら帰ります!」
キーボードを叩く手は止まらない。目の下にはクマ。空になった栄養ドリンクの缶が床に転がっている。
「まずはそのキーボードを叩く手を止めろぉ!」
背後から響いた怒号。振り返る間もなく、職員はふわりと浮き上がる。
「え、えっ、ちょっと待って!まだレポートがっ……!」
「そのレポート、さっき代行で提出した。問題なし。よって、お前は3日間の休養処置だ」
そのまま職員は医療班に引き渡され、担架で運ばれていった。
……こうして、監査部のもう一つの重要な仕事が今日も果たされる。
「休ませる」こと。
驚くほど、これが大変なのだ。
本人は休みたくない。使命感がある。世界がかかっていると思っている。だから監査部は、やんわりと、時には強引に、職員たちを休ませなければならない。
──無理やり医療室に連れ込んででも。
──リフレッシュ研修と称して強制連行してでも。
──「これは命令だ」と上層部から通達を出してでも。
「お前が休まないと、この世界が終わる」というレベルの脅し文句すら、時には必要になる。
監査部は、時空管理局という巨大な正義の装置の中で、唯一、「正義を止めるために動く部署」である。
だが、それこそが自浄作用。
使命感は、時に刃にもなる。だからこそ監査部は今日もまた、誰かの「やりすぎ」を止めるために、時空管理局を駆け回っている。
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監査部の主任である彼女は、法務部と広報企画部の主任たちと同期だった。
新人研修で一緒に地獄を味わい、理不尽な現場で一緒に土下座し、過労と混乱の中で一緒に笑い飛ばした戦友たち。
今や三人とも、それぞれの部署で中枢を担う立場になった。
そして彼女だけが、その仲間たちに容赦なく「是正勧告」を叩きつける役目を担っている。
広報企画部、法務部。どちらも残業時間が規定の300%を突破。「働きすぎ」なんて可愛いものではない。これはもう、過労という名の宗教である。
「お願いですから!週に一度は椅子から立って、寝てください!」
毎月のように発される監査部からの悲鳴も、返ってくるのはおなじみのこの一言。
「休んでられるか!世界が崩れる!」
……この二部署、監査部にとって最も厄介な合法的ブラック職場である。
対策として、法務部には管理局で唯一となる三直交代制を導入。広報企画部にはコアタイムとフレックス制度を強制実装。
結果? 新人や一般職員には一定の効果があった。
──が、肝心の主任ふたりには、無意味。
「三交代制?いいね。でも俺、全部のシフトに顔出すから」
「フレックス?じゃあ24時間フレキシブルに働くわ」
もはや、制度を活用して休むのではなく、制度を力技で踏みつぶして働く構えである。
そんな無茶苦茶な勤務実態に、彼女は静かに嘆息した。
「……もう、この二人はまったく……」
だが、かつての同期であり、信頼できる仲間だからこそ、手加減はしない。
「このままじゃ規定オーバー。来月の予算、再審査送りよ」
「戦争がしたいのかああああああああ!!!」
毎度繰り返されるこのやり取りも、もはや様式美である。
「戦争を止める仕事だからって?予算は無限じゃないの。無限なのは、あなたの仕事量だけよ」
そう言って、彼女は静かに机に資料を置いた。
勤務時間ログ、超過記録、そして──予算削減の通告案。
「このままじゃ、来期あなたの部署の光熱費がゼロよ。……冬、凍死するわよ?」
さすがの二人も顔を引きつらせ、「ぐぬぬ……」と唸る。だが、彼女は決して責めるような口調ではなかった。
「……わかってる。あなたたちの使命感が、いくつもの世界を救ってきたことくらい。だからこそ、壊れてほしくないのよ」
正義のために走りすぎる者ほど、自分の限界を忘れてしまう。彼女には、それが誰よりもよく分かっていた。
「お願い。ほんの少しでいいから、休むのも仕事だって思って」
長い沈黙ののち、広報企画部主任は渋々スケジュールの一行を削除。法務部主任も、徹夜予定だった会議をリスケジュールした。
2人の説得を終えて監査部のオフィスに戻ってきた主任の様子を見ながら、補佐官がぽつりと漏らす。
「汚職の証拠を探すより、使命感で突っ走る同期を止める方が難易度高いですね……」
彼女は目の下のクマを指でつつきながら、乾いた笑みを浮かべた。
「ほんとよ。あの二人を止めるのに、どれだけ人徳と予算交渉スキルが要ると思ってるの。もはや私は“監査主任”じゃなくて、“幼なじみ係”よ……」
疲れた表情のまま、補佐官が淹れてくれたコーヒーを啜る。その横で、補佐官が真顔で尋ねた。
「主任……ここまでやっても業務削減に応じないって、あの二人もう人間やめてません?」
彼女は書類の山を睨みながら、デスクにカップを置いた。
「ほんとにね。……不正の摘発のほうが、よっぽど楽だわ」
「え、マジですか?」
「だってそうでしょ?」と、肩をすくめる。
「不正を働くやつは、ルール違反。証拠を突きつけて、責任を取らせれば終わり。でも、使命感で動く人間は……正しいことをしようとして、自分の限界を超えてくる。違法性なんてどこにもない。でも、そのままだと壊れるのよ。自分で自分を燃やし尽くしてね」
視線を落とし、書類の端を撫でながら呟く。
「正しすぎる過労で壊れていく人間なんて……誰が裁けるのよ……」
補佐官は返す言葉を失い黙り込んだ。
けれど、彼女は止まらない。止められない。かつての同期であり、仲間であるあの二人が、限界を超えて壊れてしまわぬように。
「だから、私だけでも言い続けなきゃ。……休めって」
そして、ふっと笑った。
疲れた顔に、それでもなお柔らかな笑みが浮かぶ。
その横顔には世界を守る正義と、それを守る「誰か」を守るための、深い覚悟が滲んでいた。
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その夜、クラナガン旧市街の奥にひっそりと佇む、小さなバーの一角。
照明は薄暗く、グラスの氷が静かに溶ける音だけが心地よく響く。
「……あれ?遅いなあ、うちの監査部主任」
既に席に着いていた法務部と広報企画部の主任が、二杯目のグラスを手にしながらぼやく。
遅れて姿を見せた彼女に、広報企画部がニヤリと笑って言った。
「まさか、今日“休め”って言ったの、同期会やりたかったからじゃないだろうな?」
「そうそう。まさかとは思うけど、命令で飲み会に呼び出すとか、そんな私情混じりの監査はないよねぇ?」
「さぁ? どうかしらね」
椅子に腰掛け、肩をすくめる彼女の答えに二人はそろって吹き出した。
「うわ、否定しない!」
「これは公私混同の鑑だな!」
店内に軽やかな笑いが広がる。こんなふうに三人で集まるのは、本当に久しぶりだった。
グラスを傾けながら、話題は次第に仕事から、懐かしい昔話へと流れていく。
訓練校時代、書類テストで最下位を取って泣いていた彼女のこと。現場実習で怒鳴られて、トイレでしくしく泣いていたあのとき。
そのたびに、隣で背中をさすって、「まあまあ、お前も泣くんだな」なんてからかわれて──
「……ほんと、変わったよな」
ぽつりと呟いた法務部の主任の言葉に、彼女は小さく笑った。
「今でも泣きたいことはあるわよ。ただ、もう泣く時間すらないけどね」
「じゃあ今泣いてもいいぞ?ほら、肩貸すから。昔みたいに」
「やめて、涙腺より先に胃が壊れる」
茶化し合いながら、グラスは何度も満たされて、また空になる。
責任の重さは変わった。でも、関係は何も変わっていない。今では誰よりも厳しく、冷静に是正を言い渡す監査部の主任。
けれどこの二人の前では、ふとした拍子に、昔の泣き虫な自分に戻りそうになる瞬間がある。
そしてそれは、嫌いじゃない。
「ほら、飲め。どうせまた明日も誰かに休めって言いにいくんだろ?」
「言わせないで。今くらい、仕事の話は忘れたいんだから」
氷の音と笑い声が交じり合う。世界の秩序と平和を背負う彼らにとって、それはごく小さな逃避。
けれど確かに、心を繋ぐ大切な時間だった。
今日も、明日も、どれだけ時空が騒がしくても。
三人で飲むこのひとときが、どこかに残っていれば、それでいい。そんなことを心の中で思いながら、彼女はそっとグラスを掲げた。
「じゃあ、とりあえず来期の予算まで、ちゃんと休んでね?」
「え、それやっぱり脅しじゃん!」
「やっぱり休めは同期会の布石だった!!」
笑い声が夜の街に溶けていった。
時空を駆ける激務の中、確かにここにある小さな原点。
泣き虫だった彼女はもういない。
でも、隣にいてくれる彼らは、今も変わらずここにいる。
次に見たいもの
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法務部の活躍
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交換部の活躍
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広報企画部の活躍
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新しい部門の話
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各部門の主任は同期なので飲み会とか