その日、世界政府と海軍に激震が走った。
長らく消息を絶っていた“ルミナ”の名が、突如として東の海に姿を現し――
しかも、天竜人を殺害したという報せが届いたのである。
海軍にとっては、前代未聞の失態だった。出動したのは、現役の大将ゼファー。
にもかかわらず、彼は重傷を負い、犯人を取り逃がすという最悪の結果を招いた。
当然、世界政府はゼファーの責任を追及した。
だが、問い詰めたところで、何かが変わるわけでもない。
そして、提出された事件報告書には、こう記されていた。
――事件の発生地であるホシバナ島は、本件と直接的な関係はなし。
セラ・ルミナは偶然滞在していた天竜人およびCP0と遭遇し、これを殺害。
ただし、目撃者はおらず、詳細は不明。
大将ゼファーは、天竜人の命により港で待機していたが、
事件発生を受けて現場に急行、交戦に至る――と。
真偽は闇の中。
だが、ひとつだけ確かなのは、この事件を契機に――
『セラ・ルミナ』という名が“世界的危険指定”として広く知れ渡ったということだった。
「お前が、そこまでの怪我を負うとはな……大丈夫か?」
「……センゴクか。ああ、大丈夫だ」
消毒液の匂いが漂う病室。分厚い包帯で両腕を巻いたゼファーが、ベッドに背を預けて座っている。その傍らに立つのは、“センゴク”と呼ばれた男。
鋭い眼差しで、ゼファーの様子を見下ろしていた。
「……それで、何があった?」
「セラ・ルミナと交戦して……逃がした」
淡々と告げられたゼファーの言葉に、センゴクの眉がわずかに動く。
「そうじゃない。聞きたいのは――報告書に書けなかったことだ」
ゼファーはしばし黙し、やがて重く口を開いた。
「……戦闘経験は浅い。だが、成長速度は異常だ。俺が拳に覇王色を纏ったのを見て……すぐに模倣し、斬撃に纏わせてきた」
「……なに?」
センゴクの表情がわずかに強ばる。
「まさか、覇王色の覇気を持っていたのか」
「ああ。それも――かなり強力な代物だった」
重い沈黙が病室に落ちた。
センゴクは腕を組み、ふぅと深く息を吐く。
「……セラ・ルミナは、どういう人物だった?」
問いかけは静かだったが、その裏には重さがあった。
ゼファーは一拍置いて、口を開く。
「力を誇示して暴れ回るような手合いじゃない。俺と戦う前に、ホシバナ島がバスターコールの対象にならないよう、頭を下げてすらいた。――だが」
記憶を辿るように言葉を繋ぐ。
「自分、あるいは関わる者が害されそうになった時。あるいは、実際に傷つけられた時……必ず戦う。そういう意志を持っていた」
センゴクの目がわずかに鋭くなる。
「つまり、セラ自身か、誰かが天竜人に害されそうになり――」
「ああ。目の前の理不尽を黙って見過ごすような奴ではなかった」
その静かな語りに、センゴクは再び目を閉じる。
胸に去来するのは――正義とは何か、という答えのない問いだった。
セラ・ルミナは、ただの暴力者ではない。
彼女なりの“信念”を持ち、それに従って戦った。
だが、それが天竜人という“絶対”に牙を剥いた時点で、政府は決して容赦しない。
「……厄介な話だな」
センゴクが静かに呟く。
「暴れまわる海賊なら部下の士気も上がる。だが……」
ゆっくりと目を開け、ゼファーに視線を向ける。
「天竜人の醜さを知っている者ほど、割り切れん。セラ・ルミナと対峙させるには向かない海兵も多い。特に、心に迷いを抱える“まともな”奴らにはな」
ゼファーは目を閉じたまま、短く返す。
「……ああ」
沈黙がふたたび落ちる。その中で、センゴクが静かに言葉を継いだ。
「……セラ・ルミナの捜索は、俺の手元に回ってきた。お前は今は治療に専念しろ」
「……わかっている。だが、お前も油断するな」
その言葉の奥に宿るのは、かつて対峙した者にしか分からない“実感”だった。
―――
薄暗い独房の奥――
鉄格子の前に立つ海兵が、くしゃくしゃに折り曲げた新聞を取り出し、にやりと笑う。
「ほら、今日の新聞だ。面白れぇぞ?」
その声に、独房の奥で座っていた男がわずかに動いた。
金色の髪と鬚を持つ、伝説の大海賊――金獅子のシキだ。
「おう、わりぃな。お前たちが騒いでた理由が、やっとわかるぜ……」
新聞を受け取ったシキの口元が歪む。その目に宿るのは、ただの興味ではない。
世界の行く末を嗤うような、底知れぬ愉悦。
「天竜人殺しに、大将ゼファーが負傷で敗北……しかも、“ルミナ”の名前が躍ってやがるとはなァ」
喉の奥から、くぐもった笑いが漏れる。
「ジハハハハ! おいおい、何十年ぶりだ? 政府がここまで焦ってるのを見るのはよォ!」
「さぁな。俺としては、ゴミが一人消えたってんなら、むしろ良いことだと思うがね……」
「言うじゃねぇか。お前、海兵だろ?」
「おいおい、あの手この手で買収してこき使ってるのは、アンタだろ?」
二人の笑い声が、誰もいない深層の牢に響く。
だが次の瞬間、シキの顔から笑みが消え、真剣な眼差しが鉄格子の向こうを捉えた。
「……で、あと何年かかる?」
問うたその声には、かつて“大海賊”と恐れられた男の重みが滲んでいた。
「わりぃな。全員となると……いつ終わるかは分からねぇ。手は尽くしてるが、あんたの残党ども――やたら隠れるのが上手い。潜伏先を探すだけでも骨が折れる」
少しだけ肩をすくめ、苦笑を浮かべて続ける。
「傘下を名乗る奴らなら、すぐに見つかったんだがな」
その海兵の言葉にシキは鼻で笑った。新聞をくしゃりと握り潰し、そのまま床へと放る。紙の塊は乾いた音を立てて、鉄と石の間を転がった。
「……いいさ。五年や十年、ひと眠りすりゃ過ぎる」
闇に沈む独房の中、金獅子は肩を揺らして笑った。すると、鉄格子の外から投げかけられる軽口。
「ハッ、そりゃそうだ。……その間にゃ、ルミナがもうひと暴れしてるだろうよ」
シキの口元が、ぴくりと吊り上がる。笑みではない。猛獣が牙を見せる、それに近い何か。
「いや……違ェな」
鉄格子の向こうを見据えるその目に、鈍く光る黄金の輝き。
「“暴れる”んじゃねェ。“揺るがす”んだよ――この世界そのものを、なァ」
次の瞬間、牢の奥から響く。それは理性を嘲笑うかのような、狂獣の咆哮。
「ジハハハハハハハ!!! ジーハハハハハハハハ!!!」
「……だが、見てるだけじゃ退屈だ。使えるかどうか――試してみろ。そう伝えとけ……いるんだろ?使える奴は」
―――
「新聞に新しい手配書が入ってたよ! ねぇ見て!!」
甘い香りの漂う広間を駆け回っていた幼いシャーロット家の子供が、菓子の粉まみれの手で何枚かの紙を振り回す。
最近になって名を上げ始めた海賊や、懸賞金が跳ね上がった海賊たちの手配書の束。その中に、その一枚があった。
「……見ねェ顔だな。だがこの数字……普通じゃねェ」
新聞に目を落としたカタクリが、低く呟く。背後ではペロスペローが顔をしかめて口を開いた
「
「天竜人を殺ったって噂だが……本当なら、ただじゃ済まねェ。しかも逃げおおせた。あの“大将”から、な」
カタクリの言葉に、場の空気が微かに揺れる。幼い兄妹たちのざわつきの中――その気配が現れた。
ドォン、と低く、地鳴りのような足音。
奥から姿を見せたのは、ビッグ・マムことシャーロット・リンリン。
巨大な身体を揺らしながら、ずしりと一歩を踏み出し、子供の手からひらひらと手配書を奪い取る。
一瞥しただけで、彼女の唇が吊り上がる。
「へェ……そうきたかい。まだ残ってたんだ、その血ィ……嬉しいねぇ」
甘くも冷たい声。懐かしさすら滲んだその一言に、兄妹たちは思わず口を閉ざす。
「ルミナ……その名は、何十年も前に聞いたねェ。ずっと前に消されたはずの、世界が恐れた“血”」
「とんでもなく稀な血サ。読んじゃいけないものを読める、“目”を持つ可能性を秘めた一族――」
リンリンの目が細くなる。皿のケーキをカリリと砕く音だけが、室内に響く。
「政府が焦るわけだよ。見つけたんだねェ……“読める奴”を」
誰もが息を呑む中で、彼女は笑った。
「連れておいで。セラ・ルミナを……生きたまま、オレのもとに」
彼女のその声は砂糖と毒とが溶け合ったような音色で、静まり返った空間に染み渡った。
「テーブルに飾ってあげよう。大切に丁寧に、今度は消されない様に……ねェ?」
―――
聖地マリージョア――パンゲア城《権力の間》
重厚な柱と大理石に囲まれた空間。
昼なお暗いその広間で、世界の均衡を司る五人の老人たちは、沈黙の中にあった。
やがて――その静寂を破るように、書類を置く乾いた音が響く。
「……奴の手配書を発行した」
短く、冷徹な声。古びた眼鏡越しに、ひとりの老人が周囲を見渡す。
「本当に……それで良いのか?」
もうひとりが静かに問いかける。指先に挟まれた葉巻が、灰を落としてテーブルを汚す。
「奴の存在が広まれば、間違いなく動くだろう……“あの女”も、“白ひげ”もな」
場の空気が、目に見えて重くなる。
「……分かっている。だが、隠し通せる段階はとうに過ぎた」
「天竜人を討ち、大将ゼファーを退けた時点で、奴をこれ以上“闇”に留めておくのは不可能だ」
「血だろうな。“あの血”が騒ぎ始めている」
「ルミナ――政府が“消した”はずの一族。その生き残りが、ついに姿を現した。世界が最も恐れた、“目”を持って」
「古代文字を読む力……空白の百年の扉を、開く“鍵”だ」
机の上の新聞に目を落としながら、別の老人が呟く。
「問題は、“彼女”だけではない。……“彼女を求める者たち”だ」
「かつてロックスに連なる怪物たち。リンリン、ニューゲート……あの二人がこれを知れば、黙ってはいまい」
「ロジャーが処刑され、力の均衡は今や彼らに委ねられている。……その均衡が、音を立てて崩れるぞ」
「だが、遅かれ早かれ……彼女は誰かに見つかる。ならばこちらから、“開戦”を選ぶしかない」
最後に、髭を撫でながら男がゆっくりと立ち上がった。
「血を、鍵を、火種を……あえて燃えやすい場所に投じたのだ。さて、どの業火が最初に手を伸ばすか……あるいは、共倒れになるかもしれん」
そこで一拍置いてから――口の端をゆがめた。
「何かの間違いで……ルミナを討ってくれれば、それが一番だ。なお、良い」
五人の老人たちの視線の先には――
一枚の紙片が、静かに置かれていた。
《偽天使》 セラ・ルミナ
懸賞金:3億5000万ベリー
―――
東の海、ローグタウンに停泊中の船内。その医務室。中から痛ましい――いや、やかましい悲鳴が響いていた。
「い、痛い! 痛いってばモネぇ! もうちょっと優しくしてぇ!?」
「はぁ? なにが“優しく”よ! 人をどれだけ心配させたと思ってんのよ!? この、バカ姉!!」
怒鳴りながらも手際よく――いや、それ以上に荒々しく包帯を巻いていくモネ。彼女の手は止まらない。傷だらけのセラはベッドの上で身をよじらせ、涙目で呻いていた。
「三日は――絶対安静! 絶対よ、いい!? 動いたら承知しないから!」
「はぃ……」
しょんぼりと返事を返すセラの顔はガーゼまみれ。腕も脚も包帯だらけだ。
ようやく処置が終わり、彼女がベッドに大人しく横たわると、モネもその隣の椅子に深く腰掛けた。
その目が、じっとセラを見つめる。
怒っている。でも、それだけじゃない。寂しさ、不安、怒り、安堵、そして――ほんの少しの涙。
モネはそっと手を伸ばし、姉の手を握った。
その手は震えていた。セラのものではない。モネの方だ。
「……本当に、心配したんだから」
ぽつりと落とされた声は、泣き声にも怒りにもならず、ただ切実だった。
「みんな……すごく心配してた。シュガーも。あの子、ずっと泣かないように我慢してたんだから。ちゃんと話してあげてよ?」
セラは、小さく頷いた。
「うん……ごめんね」
その真剣な眼差しに、セラは苦笑を返しながら手を差し伸べる。
その手をそっと握りながら、モネは肩をすくめて小さく息を吐いた。
「……それじゃあ、ちょっと失礼して」
そう前置きしたかと思えば、セラの脇腹へ手を添え――
そのまま、滑らせるように指を這わせる。
「ん、モネ……?」
「ふふっ。触診よ。ちゃんと診ておかないと」
至って真面目な顔をしつつも、その指先はほんの少し、名残惜しげに肌を撫でるように動いていた。
そのとき――。
「……終わったかのう?」
「きゃっ!?」
扉を開けて入って来たのは補給を終えた仲間たちだった。ハンコックの後ろから、セラに向かってシュガーが勢いよく飛び込んでくる。
「セラお姉ちゃん! おかえり!」
「うん、ただいま。シュガー……」
傷の痛みなど忘れ、セラは腕を広げて妹をぎゅっと抱きしめた。その光景を見つめるモネの瞳が、ほんの少しだけシュガーを羨ましそうに見つめる。モネは手を引っ込めながら、わずかに頬を赤らめて。
「……惜しかったわね」
そんなモネの様子に気づいたソニアが何か言いかけたその時――
「……こほん」
ハンコックがわざとらしく咳払いをして、手にしていた紙束を掲げた。
「ほれ、今日の新聞に入っていた……手配書じゃ」
「……もしかして、私の?」
「うむ」
手渡された新聞には、ホシバナ島の事件が一面で報じられていた。
情報統制の網をすり抜けた報道。
島が消される不安もあったが、手配書が出ている――ゼファーが動いてくれたのだろう。
《3億5000万》
偽天使 セラ・ルミナ
「…さ、三億…かぁ……」
「天竜人を殺したにしては、安い方じゃのう」
肩を竦めてそう言ったハンコックに、セラは苦笑を漏らす。
三億越え――普通の海賊なら、それだけで“化け物”扱いされる額だ。
「私以外の手配書は無いのね?」
「うむ。妾たちはそもそも顔を見られておらぬ。……が、いずれ発行されような。今ごろ似顔絵でも描いとる頃じゃろ」
そう言って、ハンコックはひとつ欠伸を噛み殺すように、口元を手で隠した。
「とりあえず、アイツらを撃退できるぐらい強くならないと……セラが、ずっと怪我することになるよ」
セラを気遣いながら、シュガーを抱えるヒヅキの言葉にその場にいた全員が自然と顔を伏せた。
「大丈夫よ。能力も扱えるようになってきたし――次は、戦える」
「船医のお主が前に出てどうするんじゃ……」
「いーやーだーっ! 私も戦うのー!」
「えぇい! セラの事になると幼児退行しおって!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めるモネとハンコックに、セラは思わず吹き出し――取っ組み合いを始めた二人を止めに入るソニアとマリー。
けれど、その喧騒の中で、誰よりも真剣な目をしていたのは――ハンコックだった。
「……はぁ、はぁ……ともかく、妾たちにもその、“覇気”という奴を教えてくれぬか? 扱えるだけでも、立ち回りは段違いに変わるはずじゃ」
「それは……構わないけど」
モネが乱れた白衣の襟元を直しながら頷く。目に見えぬ強さ――“覇気”の修練は、これからの戦いにおいて避けて通れない。
「……じゃあ、航海のついでに特訓しましょう。目指すはドラム王国――そこなら、モネも楽しみにしてたはず」
「防寒着を用意しないといけないわね。ふふ……見た事の無い医学書、楽しみだわ」
セラの言葉にウキウキを隠せないモネにハンコックは呆れながらため息を付いた。