男の日常は、ある日少しずつ崩れる。

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第1話

 

 目覚まし時計の音で目が覚める。7時。あと1時間もすれば出社の時間である。まだまだ時間に余裕があるなと思いながら布団から這い出た。いつものように歯を磨き、スーツを着てた後にコーヒーとトーストを食べる。平凡ながらも男はこの瞬間が気に入っていた。7時50分。そろそろ出社するかと重い腰を上げる。お気に入りのパン屋に寄ってお昼ご飯を買おうと思いながら玄関を出て会社へと進み始める。穏やかな朝日を浴びながら、小さな町の中を進む。月曜日だからか行き交う人の数が少なく思えるが、そんな日もあるかと思いながら足先をパン屋へと向ける。クロワッサンにしようか、名物のメロンパンにしようか、それとも……?と考えつつパン屋の前にたどり着く。目に飛び込んだのは扉に掛かった「CLOSED」の文字だった。いつも朝7時には開店しておりいい香りを漂わせている店が、定休日でも無いのに空いていなかった。臨時休業かと思いながら仕方なくパンは諦めて出社することに決めた。

 

 会社に着くと、いつものように慌ただしい日常が始まった。朝礼が終わり、自社製品の売り込みの為に売り込みの電話をかける。今日の目標は新規契約5 件、いつものように電話をかけていると違和感を覚えた。いつもよりも繋がらない電話が多い。すぐに切る人も、怒る人もいつもと同じくらいいる。だが、いつもより電話が繋がらない人が明らかに多いのだ。「お掛けになった電話番号は――」何度この声を聞いただろうか。気が滅入りそうになる。営業電話は嫌われがちだが、自動で電話を弾く機能でもついたのだろうかと思いながら電話をかけ続けた。何度も繋がらなくなる電話にげんなりしつつ、コーヒーを啜って休憩していると部下が唐突に話しかけてきた。

「すみません、先輩。先輩の送った郵便が返送されてまして……」

 後輩の手には昨日男が送ったはずの他社宛の書類が握られていた。総て宛先不明という理由で返送されたらしい。男は思わず息を飲んだ。明確な気持ち悪さを覚え、不安感が背中を滑り落ちる。焦った手でスマートフォンを開き、インターネットで郵便局になにか異常があったのかを確かめる為に検索しようとする。だが、画面はいつまでたっても検索ボックスが表示されたまま動かない。電波を表す表示は圏外を示していた。不思議そうな目で私を見つめる後輩に対して取り繕うように笑顔を作り、冷や汗を隠しながら仕事を再開することにした。

 おかしな1日を乗り越え、ようやく帰路に着く。その日は一日中、昼休みでも午後の仕事でも、繋がらない電話や返送された書類のことが頭から離れなかった。時刻は既に22時。電話が繋がらないせいでノルマは未達、おまけに残業させられてしまった。1杯引っ掛けて帰ろうかなどと思いつつ、会社近くの行きつけの居酒屋に足を運んでみる。いつもの賑やかな雰囲気や明るい電飾、人々の話し声を期待しながらお店にたどり着くいた。だが、そこには何も無かった。過去、そこで人々が楽しんでいたことが嘘のように、だだっ広いコンクリートの更地が広がっていた。飲み屋街にひしめく居酒屋の並びにぽっかりと穴が空いている。経営難か?と思ったが、そんな話はひとつもなかった。だったらなんなんだ。そういえばなんだか飲み屋街なのに人が少ない。おかしい。明らかにおかしい。とにかく落ち着けるところにと、帰宅することに決めた。家の近くまでいつものバスで帰ろうと思い、バス停を探した。しかし、どこを探しても見つからない。いつもあるところや朝利用したところでさえないのだ。かろうじて1箇所だけ見つかったが、それすらも運行休止になっていた。異常な不安を抱えながら走るようにして帰宅した。

 息を切らすようにして自宅に駆け込む。彼の暮らすアパートは、いつもならこの時間でも明かりがついていることが多い。しかし、今日はどの部屋も真っ暗でしんと静まり返っている。カツン、カツンと自分の足音だけが静かなアパートに響く。どの部屋からも、人の声は愚か呼吸音さえ聞こえることはなかった。やけに冷たい風に身震いしながら玄関の扉を震えた手で軽く捻り、中へとはいる。電気をつけると室内は何の変哲もない普段の自室の光景だった。ふっと気が抜ける。スーパーを着替えるのも忘れて、ソファの上でぐったりとくつろいでいるうちに眠ってしまった。

 深夜。物音で男の目が覚める。ひんやりと冷たい空気に包まれながら辺りを見渡すと真っ暗になっていた。いつの間にか明かりを切っていたのだろうかと思いつつ、スイッチがあるべき所に手を伸ばす。しかし、いくら探しても手が届くことは無い。部屋を目を凝らして見渡してみると、どこものっぺりとした冷たいコンクリートのような壁でできており、停滞した空気の中でうっすらと鉄の匂いがする。唯一ポケットに入っていたスマートフォンを急いで取りだし、ライトで照らしながら電話で友人に連絡をしようとする。部屋の中を見渡しても1面壁ばかりで扉どころか僅かな引っかかりすらない。スマートフォンは圏外を示し、誰に電話しても繋がる気配は無い。スマートフォンを放り出し、壁をどれだけ叩いても、奥が詰まっているのがわかるような鈍い音しかしない。

「誰か……誰か……!」

 絶望感に苛まれ、男の視界が震える。閉鎖と死への本能的な恐怖が男の思考を支配しようとする。

 突然スマホの画面が光る。非通知からの着信。唯一の望みに縋るように電話に出る。

「もしもし!聞こえますか!助けて!」

 叫ぶように声をかけ続けていると、何か電話の向こうから物音が聞こえるようになった。

 サザッ。ザザザザッ。

 人か、救助か、と思い耳を当てると、遠くの方から静かで規則的な機械音が聞こえてきた。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ゆっくりと壁が内側に動き始める。男は異常な事態に気が狂ってしまいそうだった。いくら止めようとおさえても止まらない。スマートフォンの無機質な明かりひとつのみを残し、闇が迫ってくる。

 ピッ、ピッ、ピピ、ピピピピッ。

 徐々に規則性が失われ、音が大きくなる。壁が迫ってくる。止めることは出来ず、やがて男の肩に両壁が触れるようになった。

 ピピピピッ、ピッピピピピ、ピッ。

 非常に狭い空間に規則性のない機械音が響く。音が反響とともに大きくなり続ける。

 男がついに壁によって動けなくなる瞬間、スマートフォンの機械音は男の耳元で長い音を鳴らし、そのままあかりは消え、光を飲み込むような闇に呑まれた。

 ピ――――――――。

 

 

 白く、清潔感のある窓がない部屋のベッドの上には、骨と皮だけとなってしまった男が人口呼吸器をつけて横たわっている。身体中にはたくさんのチューブが繋がっている。部屋には心電図の機械音が静かに響く。部屋に響く心電図の音が、ひとつの長い音に変わった。その横では医者が佇み、彼に死の宣告をした。

「何度目の月曜日になるでしょう。脳の活動は辛うじて維持されていますが、彼の意識が戻ることはありません。外の世界の音も、光も、もう彼には届かない。」

 男の顔には、喜びも悲しみも何1つ無く、ただ、無表情であった。

 部屋に残されたのは、亡骸と、静寂のみであった。

 

 

 


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