YAWARA!クロス・ソウル ~熱血武蔵巴、不屈の柔道一代記~ 作:月影 流詩亜
バルセロナオリンピック、柔道競技、俺の階級の試合当日。
夜明け前の薄暗い選手村の部屋で、俺は誰よりも早く目を覚ました。
窓の外はまだ深い藍色に包まれているが、俺の体の中では、アドレナリンがマグマみてえに沸騰し始めている。
(…ついに来たか。この日が…!)
昨夜は、興奮と緊張でなかなか寝付けなかった。 だが、不思議と体の重さは感じねえ。 むしろ、ゲッターロボの出撃前みてえに全身の細胞が活性化しているような、そんな感覚だ。
朝食は、正直言って味がよく分からなかった。 ただ、エネルギー補給のために機械的に飯を胃袋に詰め込む。
隣のテーブルでは、猪熊柔がいつもと変わらぬ落ち着いた様子でパンをかじっている。 あいつは、午後からの試合のせいか、どこかリラックスしているように見えた。
会場となるパラウ・ブラウグラナ体育館へと向かうバスの中、俺は目を閉じ精神を集中させた。
これまでの戦い、仲間たちの顔、そして、あのゲッターロボのお守りの感触。
その全てが、俺に力をくれる。
体育館に到着すると、そこはもうすでに異様な熱気に包まれていた。
各国の応援団のカラフルな旗が揺れ、様々な言語のチャントが響き渡る。 観客席は超満員。
この大舞台で、俺は自分の全てをぶつけるんだ。
◇
ウォーミングアップエリアで体を動かしながら、俺は畳の感触を確かめた。
インターハイや全日本選手権とは違う、独特の弾力。 そして、この会場全体を包み込む、オリンピックという特別な舞台だけが持つ重圧感。
(…なんだ、この雰囲気は…体が、少しだけ硬えな…まるで、初めてゲッター3に乗った時みてえだ…)
初戦の相手は、確か…アフリカの小国の選手だったか。 資料では格下のはずだが、オリンピックの舞台では何が起こるか分からねえ。 「五輪の魔物」なんて言葉もあるくらいだ。 油断すれば、あっという間に足元を掬われる。
自分の名前がコールされ、俺は畳へと向かった。背中に突き刺さる数えきれないほどの視線。
その中には、竜子や隼、みちる、そしてオフクロたちの心配そうな顔もあった。
深呼吸を一つ。 道着の内ポケットに忍ばせた、みちるの手作りのゲッターロボのお守りを、そっと指先でなぞる。 不器用だが、温かい感触。
みちるの、あの真っ直ぐな瞳が脳裏に浮かぶ。
(…よし、やるしかねえな。俺の柔道を、この世界のど真ん中で見せつけてやるぜ!)
緊張で強張っていた体が、少しだけ軽くなったような気がした。 これは、五輪の魔物なんかじゃねえ。
俺自身の魂が、この大舞台に震えているだけなんだ。
◇
「Hajime!(はじめ!)」
主審の鋭い声と共に、試合開始のゴングが鳴った。
相手は俺のパワーを警戒してか、最初から徹底的に守りの姿勢だ。 組み手を嫌い、距離を取り、なかなか懐に入らせてくれねえ。
(ちっ、こいつ、逃げてばっかりじゃねえか…! オリンピックの舞台だろうが、もっと正々堂々とかかってこい!)
俺は、少しイラつきながらも、冷静に相手の動きを見極める。 序盤は、俺もまだ体が完全に温まっていねえのか、動きが少し硬い。 無理に攻め込んでもカウンターを食らうだけだ。
だが、数分間の攻防を続けるうちに、俺の体の中のエンジンが徐々に回転数を上げていくのが分かった。 ゲッター線の奔流みてえに、全身に力がみなぎってくる。
(…よし、そろそろ行くか!)
俺は、相手が一瞬見せた隙を突き、猛然と前に出た。 これまでの試合で何度も見せた、強引なまでの突進。
相手は俺の突然の動きの変化に虚を突かれたように一瞬動きが止まる。
その隙を、俺は見逃さねえ。
得意の右組みで相手の襟と袖をガッチリと掴むと、そのまま流れるような動きで払い腰を仕掛けた!
「オオオオオッ!」
俺の気合と共に、相手の体は綺麗な放物線を描いて宙を舞い、そして、轟音と共に畳に叩きつけられた。 完璧な一本。
「Ippon! Sore made!(一本! それまで!)」
主審の声が、体育館に響き渡った。
やった…! オリンピック初戦、まずは一本勝ちだ!
会場が、割れんばかりの歓声と拍手に包まれる。日本の応援団席では、竜子や隼、オフクロたちが日の丸の小旗を振って大喜びしているのが見えた。 みちるも、感極まったように目を潤ませている。
「見たか! これが武蔵巴の実力だ! 金メダルへの第一歩、まさに堂々たる発進! この勢いで、世界の頂点まで駆け上がってもらいましょう! 」
観客席の隅では、日刊エヴリーの松田が、カメラを片手に一人で絶叫している。…あいつ、本当にどこにでもいやがるな。
「ふん、まあ、あんな小娘相手なら、勝って当然じゃわい。本番はこれからじゃ」
同じく観客席で腕を組んでいた滋悟郎の爺さんは相変わらずの仏頂面だが、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを俺は見逃さなかった。
◇
俺の試合が終わった同じ日の午後の時間帯には、猪熊柔の初戦も組まれていた。 俺は自分の体のクールダウンをしながら、モニターで柔の試合を観戦した。
柔の相手も、それほど強敵というわけではなかったが、あいつはオリンピックという大舞台でも、全く臆することなく自分の柔道を貫いていた。
その動きは、相変わらず水が流れるようにしなやかで、それでいて一瞬の隙を突く鋭さは、まるで研ぎ澄まされた日本刀のようだ。
そして、試合開始からわずか数十秒。柔の代名詞とも言える、美しい一本背負いが炸裂した。
相手は、何が起こったのか理解する間もなく、畳に沈んでいた。 まさに圧勝。
「素晴らしい! 猪熊柔、オリンピック初戦を完璧な一本勝ちで飾りました!
日本女子柔道、二枚看板そろって幸先の良いスタートです! この二人が、バルセロナの畳の上で、どんなドラマを見せてくれるのか、期待は高まるばかりです!」
テレビの実況アナウンサーも、興奮を隠しきれねえ様子でまくし立てている。
俺は、モニターに映る柔の少しだけはにかんだような笑顔を見ながら小さく舌打ちした。
(…ちっ、相変わらず綺麗に決めやがるぜ、あの女。 だが、負けてらんねえな。 俺だって、もっとド派手に勝ってやる)
柔の圧勝は俺の闘志に、さらに油を注ぎやがった。 日本の二枚看板ねえ。 面白いじゃねえか !
どっちが先に金色のメダルにたどり着くか、勝負だぜ。
◇
その日の全ての試合が終わり、俺は選手村に戻るバスを待っていた。
すると、後ろから遠慮がちな声がかかる。
「あ、あの…武蔵さん…!」
振り返ると、そこにはみちるが、少し緊張した面持ちで立っていた。
その手には俺が朝、道着のポケットに忍ばせた、あのお守りが握られている。…あれ? なんでこいつが持ってんだ?
「武蔵さん、初戦突破、本当におめでとうございます! すっごく、すっごくかっこよかったです!」
みちるは、目をキラキラさせながら、興奮気味に早口で言った。
「…おう。まあ、相手が大したことなかっただけだ」
俺は、照れ隠しにぶっきらぼうに答える。
「で、なんだ、そのお守りは。俺のじゃねえか。なんでお前が持ってんだよ」
「あ、はい! あの、試合が終わった後、花園先生が拾って、僕に預けてくださったんです! 武蔵さん、きっと探してるだろうからって…」
そうだったのか。 試合の熱気で、落としちまったことに気づきもしなかったぜ。
俺は、みちるからお守りを受け取り、改めてそれを眺めた。 不格好なゲッターロボ。 だが、そこには、こいつの真っ直ぐな想いが詰まっている。
「…なあ、みちる」
「は、はい!」
「これ…お前がくれたこのお守り、結構効いたみてえだぜ。 まあ、気のせいかもしれねえがな。
おかげで、余計な力が入らずに済んだ」
俺の柄にもねえ不器用な感謝の言葉。 それに、みちるは一瞬ポカンとした顔をしたが、すぐに顔を真っ赤にして言葉にならないくらい喜んでいる。
「ほ、本当ですか!? ああ…よかったあ…! 僕、武蔵さんの力になれたんですね…!」
その場で泣き出しそうな勢いだ。
おいおい、大袈裟な奴だな。
だが、そんなみちるの純粋な喜びが、俺の心にも温かいものを灯してくれた。
こいつの応援は、確かに俺の力になっている。それは間違いねえ事実だ。
◇
選手村のラウンジでは、各国の選手たちが、大型スクリーンに映し出される柔道競技のハイライト映像を食い入るように見つめていた。俺も柔と一緒に、その輪に加わる。
そこには、俺たち以外の階級や同じ階級の別ブロックの試合で、圧倒的な強さを見せつける選手たちの姿があった。
アメリカの、まるで猛獣みてえなパワーを持つ黒人選手。
ロシアのサンボ仕込みの変幻自在な関節技を繰り出す選手。
フランスの、華麗な足技と芸術的な投げ技を誇る選手。
キューバの、野性的な動きと予測不可能なタイミングで技を仕掛けてくる選手…。
(…やっぱり、世界は広いな。 金メダルへの道は、そう簡単じゃねえぜ…どいつもこいつも、一筋縄じゃいかねえ猛者ばかりだ…)
俺も柔も、その映像を見ながら、改めてオリンピックという舞台のレベルの高さを痛感していた。初戦を勝ったくらいで、浮かれてる場合じゃねえ。 本当の戦いは、これから始まるんだ。
◇
オリンピック初戦を危なげなく一本勝ちで飾った俺。
幸先の良いスタートを切れたことは、素直に嬉しい。 みちるのお守りも確かに俺に力をくれた。
そして何よりも、この大舞台で戦える喜びが俺の全身を駆け巡っている。
だが、これはまだ序章に過ぎねえ。
世界の強豪たちが、この先、次々と俺の前に立ちはだかってくるだろう。
そいつらを一人ずつ叩き潰し、そして必ずあの金色のメダルを掴み取る。
(一戦一戦、全力でぶつかるだけだ。そして、この武蔵巴の柔道を世界に刻みつけてやる!)
バルセロナの熱い夜空の下、俺の魂は次なる戦いを求めて、さらに激しく燃え上がっていた。
オリンピックの頂点への道は、まだ始まったばかりだ。