YAWARA!クロス・ソウル ~熱血武蔵巴、不屈の柔道一代記~ 作:月影 流詩亜
バルセロナオリンピック、女子柔道決勝戦当日。
俺は、鶏の鳴き声よりも早く、夜明け前の薄暗い中で目を覚ました。
昨日の準決勝での死闘の疲労は、確かに体のあちこちに残っている。
だが、それ以上に魂の奥底から湧き上がってくる経験したことのないような高揚感が、俺の全身を支配していた。
隣のベッドでは、猪熊柔も静かに寝息を立てている…ように見えたが、俺が身じろぎした瞬間にパチリと目を開けた。
こいつも俺と同じように、ほとんど眠れなかったのかもしれねえな。
俺たちは言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を確かめるように薄闇の中で視線を交わした。
(…ついに来たか。この日が…)
朝食の味も、ウォーミングアップの感触も、どこか現実離れしていて、まるで夢の中にいるみてえだった。
だが、胸の奥で燃え盛る闘志と全身を駆け巡るアドレナリンだけは紛れもなく本物だ。
(猪熊柔…お前と、このオリンピックの決勝の畳の上で戦う日が、本当に来ちまったんだな…! )
ゲッターロボのパイロットとして、何度も生死の境を彷徨った。
だが、今感じているこの武者震いは、あの頃とはまた違う、もっと純粋で、もっと個人的な感情が入り混じっているような気がした。
◇
試合会場へと向かうバスの中、俺は窓の外を流れるバルセロナの街並みを、ぼんやりと眺めていた。
テレビのニュースでは、日本中がこの一戦に注目し、各地でパブリックビューイングなんつうモンも行われていると報じていやがった。
日の丸の重みが、ズシリと両肩にのしかかる。
会場のロッカールーム。
試合開始まで、あとわずか。
俺と柔は、二人きりになった。 張り詰めた空気の中で先に口を開いたのは、意外にも俺の方だった。
「…なあ、柔」
「…何? 武蔵さん」
「お前とこうして、オリンピックの決勝っていう、これ以上ねえ最高の舞台で戦えることが…もしかしたら、ゲッター線が俺にくれた、本当の『ご褒美』なのかもしれねえな、なんて思っちまったよ」
柄にもねえ、感傷的な言葉だったかもしれねえ。だが、それが今の俺の偽らざる気持ちだった。
柔は俺の言葉に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふわりと、聖母みてえな優しい笑みを浮かべた。
「…私も、そう思うわ。 武蔵さん、あなたという最高のライバルと、この場所で世界の頂点を賭けて戦えることを心から誇りに思う。
ありがとう、私と出会ってくれて」
俺たちは、強く互いの目を見つめ合った。
もう、言葉は必要なかった。
そこには、ライバルとしての激しい闘志と互いへの深いリスペクト。
そして、この舞台に立てることへの感謝の念が、確かに通い合っていた。
◇
観客席は、まさに立ち見の余地もねえほどの超満員だった。
バルセロナのパラウ・ブラウグラナ体育館が、地鳴りのような歓声と熱気で揺れている。
日の丸の旗が、会場のあちこちで誇らしげに揺れているのが見えた。
「ふぉっふぉっふぉ…!
まさか、このワシが生きとるうちに、こんな夢のような魂が震える決勝戦が見られるとはのう!
感無量じゃ!
巴! 柔! どっちが勝っても、わしは今日、世界で一番幸せなじじいだ! 」
貴賓席の滋悟郎の爺さんは、すでに号泣している。
その隣では、オフクロと勇、そして柔の両親も、ハンカチで目頭を押さえている。
「歴史が動く! 日本柔道界、いや、世界の女子柔道の歴史が、今、この瞬間に塗り替えられようとしているのだ!
神よ! 私に、この世紀の一瞬を永遠に刻み込むための強靭なシャッターを切る指と決して涙で曇らぬレンズを与えたまえ! 」
日刊エヴリーの松田は、カメラを構えながら、興奮のあまり卒倒寸前だ。
その隣では山嵐先生が腕を組み、厳しいながらもどこか誇らしげな表情で俺たちを見守っている。花園先生も、祈るように手を組んでいる。
そして、応援席の最前列には、竜子、隼、そしてみちるの姿があった。
「巴ーっ! お前なら絶対勝てる! 私たちの全てを、お前に賭けるぜ! 」
「武蔵さん…! あなたの柔道を世界に見せつけて! 」
「武蔵さん…! 僕の、僕たちの想いを、その拳に乗せて…! 」
三者三様の、だが心の底からの熱い声援が俺の鼓膜を震わせた。
少し離れた席には、本阿弥さやかの姿も見えた。その表情は複雑そうだったが、その瞳の奥には、俺たちへの、いや、日本の柔道への熱い想いが宿っているように見えた。
◇
やがて、会場の照明が少し落とされ、荘厳な音楽と共に決勝戦のセレモニーが始まった。
日本の国旗がゆっくりと掲揚され、そして、日本国歌「君が代」の厳かなメロディーが、体育館全体に響き渡った。
俺は、胸に手を当て、目を閉じた。
旋律の一つ一つが、俺の魂に深く染み込んでくるようだ。
背負う日の丸の重み。 日本中の人々の期待。
そして、ここまで俺を支え導いてくれた全ての人々への感謝。
万感の思いが、胸の奥から込み上げてくる。
(オフクロ、勇…竜子、隼…みちる…山嵐のジジイに、花園先生…そして、滋悟郎の爺さん…いや、それだけじゃねえ…この世界に来る前の、ゲッターチームの仲間たち…竜馬、隼人、弁慶…みんな、見ててくれよな…!
俺は、この世界で、確かに生きている。
そして、今、最高の舞台に立っているんだ!)
目を開けると、隣に立つ柔もまた、瞳を潤ませながら、しかし凛とした表情で国旗を見つめていた。
俺たちの思いは、きっと同じはずだ。
国歌が終わり、会場は水を打ったように静まり返った。
そして、アナウンサーの張りのある声で俺たちの名前がコールされる。
「Nippon ! Musashi Tomoe ! 」
「Nippon ! Inokuma Yawara ! 」
割れんばかりの拍手と歓声が、再び体育館を揺るがした。
◇
俺たちは、ゆっくりと畳の中央へと進み出た。
これが、最後の戦いの舞台。
猪熊柔と、このオリンピックの決勝で金メダルを賭けて戦う。
これ以上のシチュエーションが他にあるだろうか。
インターハイ予選での初めての敗北の屈辱。
全日本選手権での初めての勝利の歓喜。
そして、このバルセロナの地での三度目の正直となる宿命の対決。
これまでの、あいつとの数々の戦いの記憶が走馬灯のように俺の脳裏を駆け巡る。
俺たちは、畳の中央で互いの目を見据え合った。
そこにはもう、憎しみも、恐れも、そして余計な気負いもなかった。
あるのはただ、最高の相手と、この最高の舞台で戦えることへの純粋な喜びと感謝。
そして、何よりも強い、勝利への渇望だけだ。
(お前がいてくれたから、俺はここまで来れたんだ、柔。
だからこそ、この最後の戦いで俺はお前に全てをぶつける。 そして、必ず勝つ! )
柔の瞳もまた、同じように燃えるような闘志を湛えていた。
◇
主審が、俺たち二人の中央に進み出て最後の確認を行う。
その一挙手一投足に、会場中の視線が注がれている。
誰もが息を殺し、歴史が動くその瞬間を固唾を飲んで見守っている。
俺は深く、大きく息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
体中の細胞が、戦闘準備を完了したのを感じる。魂が、今まさに燃え上がらんとしている。
そして、ついにその時が来た。
主審の手が力強く振り下ろされた。
「Hajime!(はじめ!)」
その鋭い声は、まるで宿命の戦いの始まりを告げるゴングのようにバルセロナの熱い空に、そして日本中の、いや、世界中の人々の心に高らかに、そしてどこまでも清々しく鳴り響いた。
武蔵巴と猪熊柔。
二人の、これが最後になるかもしれない魂と魂のぶつかり合い。
その火蓋が、今、切って落とされた。
◇
試合開始直後、俺と柔は互いに一歩も引かず、畳の中央で睨み合った。
ほんの数秒の静寂。
だが、その間にも俺たちの間では、見えざる火花が激しく散っていた。
(いくぜ、猪熊柔…! )
(ええ、望むところよ、武蔵さん…! )
次の瞬間、俺たちは同時に踏み込み激しい組み手争いが始まった。
これが、俺たちの最後の戦い。
そして、新たなる伝説の始まりだ。
この一戦に俺の全てを、この武蔵巴の魂の全てを叩きつけてやる……!