YAWARA!クロス・ソウル ~熱血武蔵巴、不屈の柔道一代記~ 作:月影 流詩亜
「Hajime!(はじめ!)」
主審の声が、バルセロナのパラウ・ブラウグラナ体育館に響き渡った瞬間、俺の全身の血が沸騰するのを感じた。
目の前には、猪熊柔。
俺がこの世界に来てから、ずっと追い求め、そして超えようとしてきた、ただ一人の宿敵。
こいつと、このオリンピックという最高の舞台で金メダルを賭けて戦う。
これ以上の興奮が、他にあるだろうか。
開始と同時に俺たちは猛然と中央へと踏み込み、激しい組み手争いを始めた。
バチバチと音を立ててぶつかり合う腕、互いの道着を掴み合う指先。
一瞬たりとも気を抜けば、すぐに相手の得意な形に持ち込まれちまう。
「オラァッ!」
俺は、得意のパワーを活かして強引に柔の体勢を崩しにかかる。
だが、柔は柳みてえにしなやかな体捌きでそれを受け流し、逆に鋭い足技を繰り出してきやがった。
(こいつ…! やはり、一筋縄じゃいかねえ…!
だが、それがどうした! )
序盤から互いに一歩も譲らねえ、息詰まるような技の応酬。
俺が払い腰を仕掛ければ、柔はそれを紙一重でかわして体落としを狙ってくる。
柔の一本背負いを俺が読んで潰せば、柔は即座に寝技へと移行しようとする。
観客席からは、地鳴りのような歓声と固唾を飲むような静寂が交互に押し寄せてくる。
日本中の、いや、世界中の視線が、この小さな畳の上に注がれているのを感じる。
だが、俺の意識は、ただ目の前の猪熊柔だけに集中していた。
◇
「こいつ…インターハイの時や全日本の時よりも、さらに読みが鋭くなってる…!」
戦いながら俺は柔の進化を肌で感じていた。
俺の動きの僅かな予兆を的確に捉え、先回りしてくる。
俺のパワーを殺すための巧妙な駆け引き。
それは、ただの天才ってだけじゃ説明できねえ、血の滲むような努力の賜物なんだろう。
だが俺だって、ただのパワー馬鹿じゃねえ。
ゲッターロボのパイロットとして、数えきれねえほどの死線を潜り抜けてきた経験が、この畳の上でも生きている。
相手の動きのパターン、呼吸のリズム、そして何よりも、その瞳の奥に宿る「殺気」。
それらを瞬時に読み取り、次の一手を予測する。
(小賢しい真似をしやがるぜ、猪熊柔…!
だがな、お前のその澄ました顔の裏で何を考えてるかくらい、お見通しなんだよ! )
俺は、あえて大振りな技を仕掛けるフリをして、柔のカウンターを誘う。
そして、柔がそれに乗ってきた瞬間、逆にその力を利用して別の技へと変化させる。
そんな、ゲッター1のトリッキーな戦法みてえなことも自然とできるようになっていた。
「な、なんという高度な読み合いだ!
これはもはや、柔道という名のチェスを見ているようだ!
天才・猪熊柔と野獣・武蔵巴の知力と体力、そして魂の全てを賭けた究極の頭脳戦だ! 」
観客席の松田が、またしても訳の分からねえことを叫んでいるのが聞こえる。
まあ、あいつの言うことも、あながち間違いじゃねえのかもしれねえな。
◇
試合が中盤に差し掛かり、互いにまだ決定的なポイントを奪えねえまま、時間だけが過ぎていく。会場のボルテージは、もはや最高潮に達していた。
そして、ついにその時が来た。
俺たちの、魂のぶつかり合いだ。
俺は、一瞬の隙を突き渾身の力と気迫を込めて、あの技の体勢に入った。
「見せてやるぜ、猪熊柔!
これが、俺の全てだ!
武蔵流・大雪山おろしィィィッ!! 」
俺の咆哮と共に柔の体が宙へと舞い上がる。
今度こそ、完璧に捉えたはずだ!
会場全体が地鳴りのようなどよめきと息を呑む音に包まれる。
だが次の瞬間、俺は信じられねえ光景を目にした。
天高く持ち上げられた柔が空中でまるで舞うように体勢を変え、そして俺の技のパワーを逆利用するかのように、カウンターの体勢に入りやがった!
「なっ…!? 」
柔の瞳が、カッと見開かれる。
「私の全てを賭けるわ!
これが、猪熊柔の一本背負いよォォォッ!! 」
凄まじい力と技が畳の中央で激しく衝突した。
まるで、ゲッタービームと敵の最終兵器がぶつかり合ったみてえな圧倒的なエネルギーの奔流。
俺たちは、互いの技の衝撃で同時に畳へと叩きつけられるかのように、もつれ合いながら倒れ込んだ。
一瞬の静寂。そして、主審が判定を下す。
「…技あり! 両者、技あり!! 」
互いにポイントを取り合った。
だが、勝負はまだ決まらねえ。
会場は、もはや興奮の坩堝と化していた。
「これぞ柔道じゃ!
これぞ、魂と魂のぶつかり合いじゃあ!
うおおお、涙が止まらんわい! 」
滋悟郎の爺さんが、号泣しながら叫んでいるのが見えた。
◇
本戦の規定時間が、あっという間に過ぎ去った。
電光掲示板には、互いに取り合った「技あり」のポイントが一つずつ。 決着はつかねえ。
試合は、ゴールデンスコア方式の延長戦へと突入した。
先にポイントを取った方が勝ち。まさに、サドンデスだ。
俺も柔も体力はとっくに限界を超えているはずだった。
道着は汗でぐっしょりと重く、肩で大きく息を繰り返す。
足は鉛みてえに重く、指先は痺れて感覚がねえ。
だが、それでも俺たちの瞳から闘志の炎は少しも消えちゃいなかった。
(まだだ…まだ終わらせるわけにはいかねえ…! こいつを、猪熊柔を倒すまでは、絶対に…! )
応援席からは、竜子、隼、みちるたちの声を枯らした声援が聞こえてくる。
「巴ーっ! 負けるなーっ! お前ならできる! 」
「武蔵さん! 最後まで、諦めないで! 」
その声が俺の最後の力を奮い立たせてくれる。
延長戦も、まさに死闘だった。
互いに残された力を振り絞り技を出し合う。
だが、どちらも決定的なポイントを奪うことができねえ。時間だけが、無情にも過ぎていく。
もう、どっちが勝ってもおかしくねえ。
いや、どっちも負けてたまるか、という執念だけで、かろうじて立っているような状態だった。
◇
延長戦も、すでに5分が経過しようとしていた。 俺の意識は朦朧とし始めている。
だが、心の奥底で、何かが叫んでいる。
(ここで倒れるわけにはいかねえ…!
俺は武蔵巴だ…!
ゲッターの魂を持つ、戦士なんだ! )
その時、ふと柔の動きが一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鈍ったように見えた。
疲労か、それとも油断か……
分からねえ。 だが、俺の本能が、そこが最後のチャンスだと告げていた。
俺は残された全ての力を文字通り魂ごと、その一撃に込めた。
それは「大雪山おろし」だったかもしれねえ。
あるいは、ゲッターの記憶と、この世界で学んだ全てが融合した、全く新しい名前もねえ技だったのかもしれねえ。
もはや、自分でも何をしたのか、よく覚えていねえ。
ただ、俺の体が、本能のままに動いた。
そして柔もまた、その俺の捨て身の攻撃を全身全霊で受け止めようと最後の力を振り絞って応戦してきた。
俺たちの体が、スローモーションのように交錯する。
汗が飛び散り道着が擦れる音、荒い呼吸。
会場の全ての音が消え、時間さえも止まってしまったかのような永遠にも思える一瞬。
俺は、確かに感じた。
この一撃に俺の全てが乗ったと !
◇
そして、ついに、その時が来た。
主審の鋭い笛の音が、体育館に響き渡った。
「Sore made!(それまで!)」
その声は、まるで遠い世界の響きのようで俺の耳にはっきりと届かなかったかもしれねえ。
俺と柔は、もつれ合うようにして畳の上に崩れ落ちた。
もう、指一本動かす力も残っていなかった。
仰向けに倒れたまま、俺は体育館の天井を見上げていた。 眩しい照明が、チカチカと点滅している。
終わったのか…?
俺たちの長い長い戦いは…これで、本当に……
電光掲示板には、まだポイントが表示されていねえ。
主審が副審と何やら言葉を交わしている。
会場全体が水を打ったように静まり返り、固唾を飲んで、その瞬間を待っている。
金メダルは果たして、どちらの手に渡るのか……?
◇
俺は、ゆっくりと首を動かし、隣に倒れている柔の顔を見た。
あいつもまた荒い息を繰り返しながら、俺の方を見ていた。
その瞳には疲労の色は濃いが、それ以上に何かをやり遂げたかのような清々しい光が宿っているように見えた。
俺たちは言葉を交わすことなく、ただ互いの顔を見つめ合っていた。
このオリンピックの決勝という、最高の舞台で、俺たちは互いの全てを出し尽くした。
もう、悔いはねえ。
だが、勝負は勝負だ。
どちらか一人が勝ち、どちらか一人が負ける。
それが、この非情なる畳の上の掟だ。
(…終わったのか…?
俺たちの戦いは…そして、俺の、この世界での「ご褒美」も…)
静寂が体育館を支配する。
その先に待つものが歓喜なのか、それとも絶望なのか。
俺は、ただ運命の宣告を待つしかなかった。