天を摩するかの如き巨大な壁が、モンドの地を円環状に、そして完璧に囲んでいた。その頂は常に厚い雲に隠れ、全容を窺い知ることは叶わない。壁は、生きているかのように絶え間なく低い唸りを上げ、その音は都市に住まう者たちの鼓膜の奥に、揺りかごの歌のように、あるいは死の宣告のように、絶えず染み付いていた。それは烈風の魔神、高塔の王デカラビアンが、かつて世界を覆った極寒の風雪と、他の魔神たちの脅威から「彼自身の民」を守るために築き上げたとされる絶対的な守護の証。その材質は青白い石のようにも、凝縮された風そのもののようにも見え、太陽の光を鈍く反射しては、冷え冷えとした輝きを放っていた。
壁の内側は、奇妙な静寂と淀んだ空気で満たされていた。デカラビアンの意思によって制御された風が、都市の隅々まで一定のリズムで吹き抜ける。それは外の極寒を防ぐための「慈悲の風」であると王は宣うが、民草にとっては、肌を刺すような冷たさこそないものの、どこまでも重く、息苦しい、魂を縛る鎖のような風だった。空は常に、壁と、その上に垂れ込める鉛色の雲によって狭く切り取られ、真の青空の色を知る者は、この都市にはもうほとんどいなかった。鳥ですら、この風の檻を越えて自由に飛び交うことは稀で、時折、壁の上端をかすめるように飛ぶ影は、人々の羨望と絶望の混じった溜息を誘った。
都市は、デカラビアン自身の設計によるものだと伝えられていた。環状に区画整理され、中央には天を貫くかの如きデカラビアンの宮殿――高塔が聳え立っている。その塔もまた、壁と同じく青白い材質でできており、頂は常に嵐のような烈風に包まれ、王の威光と不可侵性を象徴していた。民衆の住居は、その高塔を取り囲むように同心円状に配置され、どの家も同じような質素な造りで、個性というものを許されていないかのようだった。石畳の道は整然と敷かれているが、そこを行き交う人々の足取りは重く、表情は乏しい。彼らの瞳は、地面か、あるいはせいぜい目の前の人間の背中に向けられるばかりで、天を仰ぐ者はごく僅かだった。
広場の隅、他の人々が足早に高塔の方角へ、あるいは日々の糧を得るための決められた労働へと向かう中、ただ一人、空のほんの僅かな隙間を見上げている少年がいた。年は十を少し過ぎた頃だろうか。彼の名はまだ、誰にも特別な意味を持って呼ばれてはいない。痩せた体に、何度も繕われたであろう簡素な衣服をまとい、その手には使い古された小さなリュートが抱えられていた。色素の薄い髪は、デカラビアンの風に弄ばれるように揺れ、大きな瞳は、壁と雲の切れ間から一瞬だけ覗いた、遥か遠くの空の色――彼が本でしか読んだことのない、本当の「自由」の色を捉えようと必死だった。
「鳥…」
少年の唇から、吐息のような言葉が漏れた。彼の視線の先には、一羽の鷹が、まるでデカラビアンの支配を嘲笑うかのように、風の壁の上を悠然と旋回していた。鷹は、壁の内側の淀んだ空気など意にも介さず、力強い翼で風を捉え、やがて壁の向こう側、少年には決して見ることのできない未知の世界へと、軽々と消えていった。
その姿を見るたび、少年の胸は、鋭い痛みと共に締め付けられるような感覚に襲われた。憧憬、羨望、そしてどうしようもない無力感。自分もあの鳥のように、この息苦しい檻から飛び立ちたい。壁の向こうには、どんな世界が広がっているのだろうか。かつて、祖父がこっそりと語ってくれた古い物語。そこでは、人々は大地を自由に駆け巡り、夜空の星々を友とし、風は優しく歌っていたという。魔神たちがこの地に君臨し、争いを始めるよりもずっと昔の話だ。
デカラビアンは言う。外は死の世界だと。極寒の吹雪が全てを凍らせ、獰猛な魔獣が跋扈する、人の住むべき場所ではないと。この風の壁こそが、民を守る唯一の盾なのだと。だが、少年は心のどこかで、それを完全には信じきれずにいた。もし本当に外が死の世界ならば、なぜあの鳥はあんなにも自由に、そして楽しそうに飛んでいるのだろうか。
少年の指が、リュートの弦を無意識になぞった。まだ音にはならない、彼自身の心の中にだけ響く旋律。それは、壁の外への憧れ、自由への渇望、そして、この閉ざされた都市の現実に抗う、小さな反逆の歌だった。
「翼があれば、あの空へ…風に乗って、どこまでも…」
そのメロディは、デカラビアンが奨励する勇壮な王への賛歌や、秩序を称える厳格な行進曲とは全く異質のものだった。それは、この都市では禁忌に近い、個人の内なる感情の発露。もしこの歌がデカラビアンの耳に入れば、どのような咎めを受けるか知れたものではない。だから少年は、いつも人目を避けて、ごく小さな声で、あるいは心の中だけで、その歌を口ずさんでいた。
定められた時刻が近づくと、都市のあちこちから、人々が高塔へと向かい始める。デカラビアンへの「礼拝」のためだ。それは感謝や真の畏敬からくるものではなく、ただ日々の平穏を(それが偽りのものであったとしても)維持するための、そして何よりも王の不興を買わないための、義務的な行為だった。少年もまた、重い足取りでその流れに加わった。リュートを背負い直し、俯き加減に歩き出す。彼の心の中では、先ほどの鷹の姿と、壁の向こうの空が、まだ鮮明に焼き付いていた。
高塔の麓に設けられた広大な礼拝広場は、すでに多くの民衆で埋め尽くされていた。彼らは皆、押し黙り、緊張した面持ちで高塔の頂を見上げている。そこには、デカラビアンの姿は見えない。ただ、彼の意思を代弁するかのように、より一層強く、そして冷たい風が吹き下ろしてくるだけだった。
やがて、高塔の中腹にあるバルコニーに、一人の神官らしき男が現れた。彼はデカラビアンの言葉を伝える役目を担っている。神官は、抑揚のない声で、王の「慈悲」と「偉大さ」を称える定型的な言葉を述べ始めた。民衆は、その言葉に合わせて、深く頭を垂れる。強風に煽られ、立っていることさえできずに地面に膝をつく者もいる。
少年もまた、周囲に合わせて頭を下げた。しかし、彼の視線は、地面ではなく、わずかに上げた顔の先、高塔の最上部、デカラビアン自身の宮殿があるであろう場所へと向けられていた。
その頃、高塔の最上階、外界とは隔絶された王の私室では、デカラビアン自身が、眼下に広がる光景を眺めていた。巨大な窓ガラス――それ自体が凝縮された風の魔力でできている――を通して、彼は礼拝広場に集う無数の民の姿を見ていた。彼らが一斉に頭を垂れる様子、強風に身をかがめる姿。
「見よ、アモス。我が民は、かくも私を畏敬し、その守護に感謝している」
デカラビアンは、傍らに控える一人の女性に、満足げにそう告げた。彼の声には、絶対的な統治者としての自信と、しかし、どこか深い孤独の響きが混じっていた。彼は本気で、民が自分を慕っていると信じていた。この風の壁も、彼らを守るための究極の愛の形なのだと。民がうつむくのは、その愛の深さに圧倒され、感謝の念に堪えないからに違いない。彼は、その強大な力と鋭敏な感覚をもってしても、民衆の真の心――恐怖、諦観、そして抑圧された自由への渇望――を読み取ることはできなかった。彼の周囲には常に、彼自身の力が作り出した風が渦巻き、真実の声を遮断していたのだ。
アモスと呼ばれた女性は、デカラビアンの言葉に、曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。彼女は、美しい顔立ちの弓使いで、デカラビアンの数少ない側近の一人だった。かつて、彼女の一族はデカラビアンの風によって救われたという経緯があり、その恩義と、デカラビアン自身の持つカリスマ性に惹かれて仕えていた。しかし、彼女は聡明だった。地上の民衆が本当に王を慕っているのか、その表情の裏に何があるのか、薄々気づいてはいた。だが、それを王に告げることは、彼のプライドを傷つけ、計り知れない怒りを買うことを意味した。そして何より、彼女はデカラビアンの孤独を知っていた。もし彼が民衆の真実の感情を知った時、その強大で孤高な魂がどうなってしまうのか、想像もつかなかったのだ。
「王の慈悲は、このモンドの隅々にまで及んでおります。民は皆、その大いなる守護の下に安寧を享受しております」
アモスは、当たり障りのない言葉を選んで返した。彼女の心は、デカラビアンへの忠誠と、民衆への密かな同情の間で、常に揺れ動いていた。
デカラビアンはアモスの言葉に満足げに頷き、再び眼下の民衆に視線を戻した。彼は、自分が築き上げたこの完璧な秩序と静寂を愛していた。それが、彼にとっての理想の世界だった。彼は気づいていない。その静寂は、墓場の静寂であり、その秩序は、鳥かごの秩序であることを。
礼拝が終わると、民衆は再びそれぞれの日常へと散っていく。少年もまた、重苦しい気持ちを抱えたまま、広場を後にした。彼の足は、自然と人通りの少ない路地裏へと向かっていた。そこは、彼が唯一、心置きなくリュートを奏でられる場所だった。
古びた建物の壁にもたれかかり、少年はリュートを構えた。そして、目を閉じ、心の中に広がる自由な空を思い描いた。指が弦を弾き、切なくも美しいメロディが、淀んだ路地裏の空気に流れ出す。それは、先ほど礼拝広場で強要された王への賛歌とは全く異なる、彼の魂の歌だった。
「風よ、教えて、壁の向こうの物語を」
「鳥よ、貸して、その翼、ほんのひととき」
「星よ、導いて、閉ざされた心の扉を開く鍵を」
彼の歌声は、まだ小さく、頼りないものだった。しかし、そこには、どんなデカラビアンの風にも消し去ることのできない、純粋で強い願いが込められていた。
その歌声が、偶然通りかかった一人の老婆の耳に届いた。老婆は、重い荷物を背負い、人生の苦難を刻み込んだ深い皺の顔をしていた。彼女は足を止め、しばし少年の歌に耳を傾けた。その瞳には、遠い昔、まだこの都市がデカラビアンの壁に閉ざされる前の、自由だった頃の記憶が微かに蘇ったかのようだった。老婆は何も言わず、再びゆっくりと歩き出したが、その足取りは、心なしか少しだけ軽くなったように見えた。
また、近くの酒場の裏で、休憩していた若い衛兵の一人が、その歌声を耳にした。彼は、デカラビアンに忠誠を誓い、日々の任務をこなしていたが、この閉塞的な都市の生活に、どこか疑問を感じ始めていた。少年の歌は、彼の心の奥底に眠っていた、名状しがたい憧憬を呼び覚ました。彼は、慌ててその感情を打ち消すかのように首を振り、再び持ち場へと戻っていったが、その耳には、まだ少年の歌の余韻が残っていた。
少年の歌は、まだ大きなうねりを生み出すには至らない、ささやかな波紋でしかなかった。しかし、それは確実に、人々の心の水面に、小さな変化をもたらし始めていた。
都市のあちこちでは、デカラビアンの支配に対する、さらに小さな、そしてほとんど無意識的な抵抗の芽が見え隠れしていた。子供が、壁の隅に、禁じられている鳥の絵を泥で描こうとしては、無言の衛兵に腕を掴まれ、その絵はすぐに消されてしまう。若い恋人たちが、人目を忍んで、デカラビアンが推奨しない自由な恋愛の詩を交換し合う。老人が、かつてアンドリアスとデカラビアンが争っていた時代の、荒々しくも力強い叙事詩の断片を、誰にも聞こえないように口ずさみ、すぐに咳でごまかす。
それらは全て、デカラビアンの絶対的な支配の前では、取るに足りない些細な行為だった。しかし、それらは、人々の心に自由への渇望が、そして人間らしい感情が、完全には死に絶えていないことの証でもあった。この閉ざされた楽園の中で、人々は、見えない鎖に繋がれながらも、それぞれの方法で、ほんの僅かな「自由」の欠片を求め続けていたのだ。
日が傾き、都市が再びデカラビアンの風が支配する夜の闇に包まれようとしていた。少年はリュートをしまい、家路についた。彼の家は、高塔から少し離れた、貧しい地区にあった。両親は、デカラビアンが定めた労働に明け暮れ、いつも疲れ果てていた。家の中は、都市全体の空気と同じように、どこか重苦しく、少年の心を休ませる場所ではなかった。
彼は、自分の小さな寝床に潜り込むと、窓の隙間から見える、壁の上の僅かな星空を見上げた。星々は、まるで壁の向こうの自由な世界からの誘いのように、冷たくまたたいていた。
(いつか、きっと…)
少年は心の中で強く願った。いつか、この壁がなくなり、自由に空を飛べる日が来ることを。いつか、自分の歌を、誰にも憚ることなく、青空の下で思いっきり歌える日が来ることを。
その夜、少年は夢を見た。自分が鳥になり、風の壁を軽々と越え、見たこともないほど広大で美しい世界を飛んでいる夢だった。夢の中の風は、デカラビアンの風とは全く違い、暖かく、優しく、そしてどこまでも自由だった。
しかし、夢はいつか覚める。そして、現実は変わらず、この閉ざされた楽園の中にあった。だが、少年の心には、夢の残滓と共に、新たな決意が芽生え始めていた。ただ夢見るだけでなく、何かを変えなければならないと。その方法はまだわからなかったが、彼の魂の歌は、いつかきっと、この厚い壁を打ち破る力となるだろうと、彼は信じ始めていた。
モンドの一日は、こうして終わる。デカラビアンの風が支配する静寂の中で、人々は眠りにつき、そしてまた、同じような明日を迎える。しかし、その静寂の水面下では、詩人の少年の歌という小さな種が、ゆっくりと、しかし確実に、根を張り始めていた。それは、やがて来るべき嵐の、ほんの僅かな予兆だったのかもしれない。この閉ざされた楽園の終わりを告げる、風の囁きだったのかもしれない。