アモスは、デカラビアンの宮殿、高塔の中腹に設けられた自身の執務室の窓から、眼下に広がる旧モンドの街並みを静かに眺めていた。彼女の美しい顔には、いつものように深い苦悩の色が影を落としていた。彼女は、烈風の魔神デカラビアンを敬愛していた。その圧倒的な力、かつてこの地を混沌から救ったという功績、そして、歪んではいるものの、民を守ろうとする純粋な意志。アモスの一族は、遠い昔、デカラビアンの風によって滅亡の危機から救われたという経緯があり、その恩義は彼女の血に深く刻み込まれていた。その恩が、彼女をデカラビアンの側近という立場に縛り付けている大きな理由の一つだった。
しかし、日増しに強くなる民衆の抑圧された雰囲気、デカラビアンの独善的な政策によって深まる彼らの苦しみ、そして、時折風に乗って彼女の耳にまで届く、あの詩人の少年セインの、自由を求める切ない歌声が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
デカラビアンは、民衆が自分を心から畏敬し、その支配に感謝していると信じきっている。だが、アモスは知っていた。それは大きな誤解であり、民衆がデカラビアンに向ける感情は、畏敬ではなく恐怖であり、感謝ではなく諦めであり、そして何よりも、自由を奪われたことへの言葉にならない静かな怒りであることを。彼女は、デカラビアンにその真実を告げるべきではないかと、これまで何度も、数え切れないほど考えた。しかし、その結果を想像するたびに、彼女の体は恐怖で竦んでしまうのだった。
デカラビアンの逆鱗に触れれば、自分自身だけでなく、彼女が守ろうとしている一族にも、取り返しのつかない災いが及ぶかもしれない。そして何より、彼女はデカラビアンという存在そのものを失うことを、心のどこかで恐れていた。彼がもし、民衆の真実の感情を知り、自分の信じてきた全てが誤りであったと悟った時、その強大で、そしてあまりにも孤独な魂が、どうなってしまうのか、想像もつかなかった。それは、同情や憐憫に近い感情だったのかもしれない。あるいは、長年仕えてきた主君に対する、複雑な情愛だったのかもしれない。
「アモス、何をうつろな目で見ているのだ?」
不意に背後から、デカラビアンの声がした。アモスは、まるで秘密の考えを読まれたかのようにびくりとし、慌てて振り返って深々と頭を下げた。デカラビアンは、時折こうして予告なしに彼女の執務室を訪れることがあった。それは、彼女への信頼の表れであると同時に、彼女の忠誠心を試すような意味合いも含まれているのかもしれないと、アモスは感じていた。
「いえ、何も…ただ、王のお力によって保たれているこの都市の秩序と静けさに、改めて感じ入っておりました」アモスは、平静を装い、よどみなくそう答えた。彼女は、デカラビアンの前では、常に完璧な側近を演じなければならなかった。
デカラビアンは、アモスの言葉に満足げに頷いた。「うむ。この静けさと秩序こそが、我が民に必要なものだ。彼らは、自由という名の混沌の中で生きるには、あまりにも弱く、愚かだからな」
その言葉に、アモスの胸は鋭く痛んだ。デカラビアンの民への愛は、あまりにも一方的で、相手の心や成長を全く顧みないものだった。彼は、自分が与えるものが絶対的に最善であると信じて疑わない。それはまるで、美しい鳥かごを用意し、そこに捕らえた鳥を閉じ込めて悦に入っている、独りよがりな主人のようだった。そして自分は、その鳥かごの番人なのだろうか、とアモスは自問せずにはいられなかった。
「先日の、風の力を強化する秘術についてだが、準備は進んでいるか?」デカラビアンは、話題を変えて尋ねた。彼の言う秘術とは、高塔の魔力を増幅させ、風の壁をさらに強固にし、外部からのいかなる干渉も完全に遮断するという、恐ろしい計画だった。
アモスは、内心の動揺を悟られまいとしながら答えた。「はい、王。関連する古文書の解読は進んでおります。しかし、その術を行使するには、いくつかの希少な素材と、そして何よりも、王ご自身の膨大な魔力が必要となるかと…」彼女は、できる限りその術の実行を遅らせようと、困難さを強調した。もしこの秘術が完成してしまえば、旧モンドは真に外界から隔絶された牢獄となり、民衆の自由への最後の希望さえも潰えてしまうだろう。
「素材については、民に命じて集めさせればよかろう。我が魔力については、心配には及ばん。このモンドを完全なる守護で覆うためならば、いかなる代償も払う覚悟はできている」デカラビアンは、一切の躊躇いもなく言い放った。その瞳には、もはや狂信的とさえ言える光が宿っていた。
アモスは、その言葉に、もはや反論の余地がないことを悟った。デカラビアンは、本気でその恐ろしい秘術を行使するつもりなのだ。彼女は、デカラビアンが執務室を去った後、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。彼女の心は、デカラビアンへの忠誠と、民衆への共感、そして自分自身の良心の呵責の間で、これまでになく激しく引き裂かれていた。彼女の得意とする弓は、いかなる標的をも正確に射抜くことができる。しかし、今、彼女自身の心がどちらを向いているのか、どちらを射抜くべきなのか、彼女には全くわからなかった。
その日の午後、アモスは気分転換と、そして何よりもデカラビアンの計画を阻止するための情報を求めて、従者を伴わずに一人で街に出た。彼女は質素な外套でその美しい姿を隠し、普段は決して足を踏み入れないような、庶民が暮らす地区へと慎重に足を進めた。そこで彼女が見聞きしたものは、彼女の苦悩をさらに深めると同時に、彼女の心にかすかな変化をもたらすものばかりだった。
市場では、デカラビアンの新たな政策や、日増しに厳しくなる統制に対する不満が、以前よりも公然と、しかし声量を抑えて語られていた。
「また税が上がるっていうじゃないか。建築基準の変更だの、教化プログラムだの、高塔の王様は俺たちからどこまで搾り取れば気が済むんだ」
「子供たちだって、毎日あのつまらない集会に連れて行かれて、遊ぶ時間もろくにないんだ。あれじゃあ、心が歪んじまうよ。外の世界がどんなものか、知ることもできねえなんてな」
アモスは、物陰から彼らの会話を聞きながら、胸が締め付けられるのを感じた。彼らの言葉は、決してデカラビアンへの直接的な憎悪に満ちたものではなかった。むしろ、どうしようもない現状への深い嘆きと、人間としてのささやかな生活への切実な願いが込められていた。彼らは、ただ平和に、そしてほんの少しの自由の中で、家族と共に暮らしたいだけなのだ。それは、決して贅沢な望みではないはずだった。デカラビアンが恐れる魔神戦争の混沌から守られている代償として、彼らはあまりにも多くのものを奪われているのではないか。
彼女が、ある古びた建物の並ぶ路地を通りかかった時、どこからかリュートの澄んだ音色と、切ないながらも力強い歌声が聞こえてきた。それは、間違いなく、あの詩人の少年セインの歌だった。アモスは、思わず足を止め、その歌に耳を澄ませた。今日の彼の歌は、これまで彼女が耳にしたどの歌よりも、悲しく、そして同時に、強い意志を感じさせるものだった。
「風よ、教えて、この涙はいつになったら乾くのか」
「壁よ、答えて、僕らの声は本当に届かないのか」
「それでも信じたい、夜明けは必ず来ると」
「この歌が、小さな光となって、闇を照らし出すことを」
その歌声は、まるでアモス自身の心の奥底に眠っていた叫びを代弁しているかのようだった。彼女は、セインが歌っているであろう建物の陰へと、まるで何かに引き寄せられるように、無意識のうちに近づいていった。
セインは、目を閉じて歌に没頭していた。彼の周りには、数人の子供たちと、何人かの大人たちが、まるで貴重な宝物でも見守るかのように、静かに彼の歌に聞き入っていた。彼らの表情は様々だった。ある者は悲しげに、ある者は怒りを秘めたように、そしてある者は、かすかな希望の光を見出したかのように。しかし、皆、セインの歌に何か特別なものを感じ取り、心を寄せているのがアモスにもはっきりと見て取れた。
アモスは、その光景を見て、言葉を失った。デカラビアンは、歌など何の力もない、民を惑わすただの雑音に過ぎないと、常々言っていた。しかし、今、彼女の目の前で起きていることは、明らかにそれとは異なるものだった。セインの歌は、確かに人々の心を繋ぎ、慰め、そして目には見えない勇気を与えている。それは、デカラビアンの強大な風の力では決して成し得ない、人間だけが持つことのできる、不思議な力だった。
歌が終わり、しばしの静寂の後、セインはゆっくりと目を開けた。そして、自分をじっと見つめているアモスの姿に気づき、驚いたようにわずかに目を見開いた。アモスもまた、自分が無意識のうちにセインのすぐ近くまで来てしまっていたことに気づき、一瞬、身を隠そうかとためらった。しかし、もう遅かった。
セインは、アモスの纏う質素な外套にもかかわらず、彼女がただの街の住人ではないことを、その佇まいや瞳の奥の輝きから何となく感じ取っていた。彼は、少し戸惑いながらも、しかし恐れることなくアモスに尋ねた。
「あの…何か御用でしょうか?」
アモスは、一瞬言葉に詰まった。彼女は、この純粋で勇敢な少年に、一体何を言うべきなのだろうか。自分の正体を明かすわけにはいかない。それは、彼を危険に晒すことになるかもしれないからだ。しかし、彼の歌への深い感謝の気持ちと、彼への共感の念を、どうしても伝えたかった。そして、あるいは、彼ならば…という淡い期待も、彼女の胸にはあった。
「あなたの歌…とても…心に響きました」アモスは、ようやくそれだけを言うのが精一杯だった。彼女の声は、わずかに震えていた。
セインは、アモスの言葉に少し驚いた表情をしたが、やがて静かに、しかし確かな光を宿した瞳で彼女を見つめ返した。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、歌っている僕も嬉しいです」
二人の間に、短い、しかし何か重要な意味を孕んだような沈黙が流れた。アモスは、もっと何かを伝えたい、もっと何かを尋ねたいと思ったが、言葉がうまく出てこなかった。彼女は、この場に長居することは、自分にとっても、そして彼にとっても危険であると感じ、名残惜しさを感じながらも、セインに軽く一礼すると、足早にその場を立ち去ろうとした。
「あの!」
その時、セインが彼女を呼び止めた。アモスは、期待と不安の入り混じった気持ちで振り返った。
「もし…もしよろしければ、また、僕の歌を聴きに来てくださいませんか? あなたのような人に聴いてもらえると、僕も、もっと心を込めて歌えるような気がするんです」
セインの言葉には、何の計算も裏もなく、ただ純粋な願いが込められているのがアモスにもわかった。
アモスは、一瞬ためらった。しかし、彼の真摯な瞳に見つめられ、彼女は思わず頷いていた。
「ええ…ええ、必ず。あなたの歌を、また聴きに来ます」
そう言うと、彼女は今度こそ本当にその場を後にした。彼女の心の中には、これまでに感じたことのない、温かくて、そしてどこか切ない感情が芽生え始めていた。
高塔に戻ったアモスは、自室で一人、今日の出来事を、そしてセインとの短い会話を、何度も何度も反芻していた。セインの歌声、それに聞き入る人々の真剣な表情、そして、セインの曇りのない瞳。それらが、彼女の心の中で大きな意味を持ち始めていた。
彼女は、デカラビアンの言う秩序や守護が、本当に民のためになっているのか、その絶対的な正しさを、改めて深く疑わざるを得なかった。力による支配は、表面的な安定をもたらすかもしれない。しかし、それは人々の心を殺し、魂の活力を奪い、真の発展を妨げることにはならないだろうか。セインの歌のような、ささやかではあっても自由な魂の表現こそが、人々の心を豊かにし、社会に目に見えない真の力をもたらすのではないだろうか。
アモスの苦悩は、もはやデカラビアンへの忠誠と民衆への同情という単純な二者択一の問題ではなくなっていた。それは、何が本当に正しいことなのか、自分自身は何を信じ、何をすべきなのかという、より根源的で、そして孤独な魂の問いへと変わりつつあった。
彼女は、部屋の隅に立てかけてあった愛用の弓を手に取った。それは、デカラビアンから、彼の側近として認められた証として下賜された、美しい風切羽の装飾が施された名弓だった。彼女は、この弓で、これまで数え切れないほどの魔物や、デカラビアンの敵と見なされた者たちを射抜いてきた。その腕前は、モンド広しといえども、彼女の右に出る者はいないとさえ言われていた。しかし、今、彼女が射抜くべき本当の標的は、一体何なのだろうか。デカラビアンその人なのか、それとも彼の心を蝕む誤解と孤独なのか、あるいは、この息詰まるような旧モンドの体制そのものなのか。
窓の外は、すでに夜の闇に包まれようとしていた。デカラビアンの作り出す人工的な風が、相変わらず都市全体を支配し、その低い唸りが不気味に響いている。しかし、アモスの心の中には、詩人の少年セインの歌声と共に、小さな、しかし確かな決意の炎が灯り始めていた。それは、まだ具体的な形を持たない、漠然としたものだったが、彼女を新たな、そしておそらくは危険な道へと導くことになるかもしれない、重要な変化の兆しだった。
彼女は、デカラビアンが計画している風の力を強化する秘術を、何としても阻止しなければならないと強く感じていた。それが実行されてしまえば、もはや取り返しがつかないことになる。民衆の最後の希望も、そしておそらくはデカラビアン自身の魂の救済の道も、永遠に閉ざされてしまうだろう。そのためには、危険を冒してでも、何か具体的な行動を起こさなければならない。
アモスは、高塔の最も古い部分に位置する、ほとんど誰も足を踏み入れない禁断の書庫へと、再び足を運んだ。そこには、デカラビアン自身も存在を忘れかけているような、古代の魔術や、モンドの地にまつわる秘められた歴史に関する書物が眠っていると言われていた。彼女は、そこで、デカラビアンの力の源や、あるいは彼の強大な風の力を制御したり、あるいは弱めたりする方法が記された古文書を、必死に探し続けた。それは、まるで闇の中で針を探すような、孤独で、そして先の見えない困難な作業だった。しかし、彼女の心の中には、詩人の少年セインの、あの澄んだ、しかし力強い歌声が、まるで道を示す微かな灯火のように響き続けていた。そして、その歌声が、彼女に諦めない勇気を与えていた。