私はどうも変わってしまったらしい。昔、大事に思えて仕方がなかったものが今では大事に思えなくなってしまった。その逆も同様で一体どうしてしまったのだろう。
いや、私はわかっている。ただ熱が出てしまっただけだ。インフルという病に罹って床に臥せていただけだ。今山場を超えて熱は下がってきて37℃ぐらいの気分の悪く、どこか気持ちのいいふわふわとした酔いに身を任せている。
私は実に愚かだった。会社から帰って横になっていると途端に気分が悪くなった。躁鬱の鬱にでも当たったのだろうと思っていたがそれは勘違いで風呂から上がってしばらくすると節々が痛くなってしまった。そこで病院に向かえばそんなに悪化はしなかったのだろう。しかし私は昔からの悪い癖で判断を見送った。すると熱はどんどんと上がり結局この家の畳が病床になってしまった。
私が初めて目覚めた場所はこの和室だ。確か幼稚園にも行かない年頃だったと思う。ただ憶えているのは初めて食べたうどんで思えば優しい味だった。それから幼稚園に通って気づけばサッカーの集団に入っていた。私は平凡以下に生きて平凡以下の腕前でただサッカーで泣いていた。
小学校に入るときにはサッカーをすっかりやめてしまっていた。次に白羽の矢が立ったのはスイミング。私は着替えるのがめっぽう遅くいつも帰るときは最後だった。親は我が子以外の面倒を見て友人の親は雑談をしていた。私はただ悪く思うばかりで行動には全く出さなかった。
2年ぐらいのときに習字を習い始めた。学業の成績が悪くなっていくなか左利きを矯正するために習い始めたのだがこれが案外面白く始めて数か月で私は右利きに変わっていた。ただ腕前はやはり伸びずただ悩むばかりだった。
3年、私は恋をしたらしい。いや、今にして思えば純粋な好感だったのだと思う。しかし私は判断を誤ってしまった。私は友人に好きな人ができたと言い、どこからかそれが本人に伝わってしまった。それ以来私はどこか人を信じ切ることができなくなりその友人とも疎遠になってしまった。残ったのは本人への得体の知れない贖罪感だけだった。
卒業するときには私は完全に落ちこぼれだった。成績は最底辺、友人関係も外の学校に出て行ってしまったり疎遠になったりで片手で示すことができるぐらいだった。卒業式のときは楽譜を読み込まず音痴な歌声を披露してもはや笑いすら起こらなかった。
地元の中学に通い始めると私は煎茶を習い始めた。叔母が先生をして週一ぐらいで通った。叔母は賢い人だった。私は尊敬し叔母から学業すら教えてもらっていた。しかし私は強い先生に耐え切れずに結局やめてしまった。
中学でも私は何もしなかった。成績も最底辺、部活も没落寸前の文化部で部長も断った。そんな私を見かねてか英語の先生が私に勉強を教えてくれた。今でもその知識は生きている。
高校受験。内申点が無い私は公立に落ちて私立の高校に入学した。正直私は中学の先生に生かされたのだと思っている。テストの点数だけ良かった私は内申点があまり関係ない場所に行けたのだ。その高校はともかく自由だった。各々が自己の判断で友人を作り楽しんでいた。皆気のいい人達で今でも高校からの友人が2,3人居る。
高校卒業後はエスカレーターで大学に行った。卒業式で何も受賞していないというのは私からすると既に食傷のようなもので感想が沸いてこなかった。
大学だと新しく友人関係になった人が2人居た。全員阿呆だらけで馬鹿らしく馬鹿なりに勉学に励んでいた。全員で同じサークルに入り卒業論文を書き4回で卒業した。楽しい4年間だったが何を血迷ったか判断を最後まで遅らせたせいで何も成し遂げていなかった。
就職活動のとき私は履歴書を書き各社を回っていた。そして私は元気よく答え、馬鹿であることを隠していた。
「学生時代に力を入れたことは何ですか?」
言葉が出なかった。この愚か者は18年を棒に振ったのだ。夢を追っている、そう言い続けた男は何もしていなかったのだ。
1年経ったとき私は初めて入社できた。賃金は最低限、労働基準法は機能していなかった。体調を崩したのはそのためだろうか。いや、これは私の愚かさのためだ。
結局自分を過信した愚か者は何も成さず平凡以下に生きてしまった。人に責任を転嫁して何もせずただ愚かなままに生きた私は人間以下の存在だった。
人は死の淵に立ったとき、自らの行いを恥じるという。私は40℃の熱に魘されながらそのことを痛感していた。テストの点が良かっただの退屈でいい日々だっただの、今ではそれが反転し人生を塗り替えた。きっと私はこれからも選択せず人でなしのままただ愚かなままに生きるのだろう。