「お前たちに伝えなければいけないことがある。中間テストの範囲が変更になった。」
月曜日の朝。
晴れすぎた空が、やけに退屈に見えた。
何かが起こる予感もなく、ただ透き通るばかりの青。
朝のHRは、茶柱先生のそんな一言から始まった。
当然、クラスメイトたちが騒ぎ出す。
この一週間の努力が、一瞬で無駄になったのだから、無理もない。
「これから、新しい試験範囲のプリントを配る。確認するように」
回ってきたプリントと、記憶にある過去問の内容を比較する。
内容は、『完全一致』。
だが、先ほど平田と櫛田から届いたメールには、教室では語られていないもう一つの『事実』があった。
平田が部活仲間から手に入れた情報──『他クラスでは同じ範囲が既に知らされていた』
櫛田が職員室と他クラスの友人から手に入れた情報──『Dクラス以外には、5月8日時点で範囲が公開されていた』。
つまり、本来なら先週の金曜日に知らされるべきことを、土曜日も忘れたまま、月曜の今日になってようやく発表したことになる。
それでも、『Dクラスだけ問題が違う』という最悪の事態を免れたことに、少しだけ安堵する。
問題はこれが偶然か、それとも必然か。
『今ここで言われたこと』と『本来言われるはずだったこと』。
そこに『ズレ』があることを知ってしまったとき、何を信じ、どうすればいいのか。
本来の発表日、そしてその翌日──
二度にわたり『たまたま』忘れられて、週明けの今日になってようやく告げられた。
これは本当に、“忘れていた”のか?
それとも、“わざと忘れたことにした”のか?
……話の流れに矛盾はない。違和感もない。
だがその一方で、『不信の種』は消えたわけではない。
『本来は黙っているはずだったが、櫛田に聞かれたから発表した』という可能性もある。
結論だけで言うなら。
確かに罠は回避した。だが、それは『罠がなかったという証明』にはならない。
見えなかったのは――相手の悪意だ。
もしそこに『悪意』があったのなら──それは、明確にこちらを狙った邪悪だった。
Dクラスに対してピンポイントで仕掛けた罠、とも取れてしまう。
「このような事態になったのは私の不手際だ。それに関しては謝罪しよう。
だが、お前たちがやる気になるような話もしてやろう。
もし、今回の中間テストと、7月に実施される期末テスト──この二つを誰一人赤点を取らずに乗り越えたなら、夏休み。
お前ら全員をバカンスに連れて行ってやる」
「本当ですか!?」
「嘘だったりしませんよね!?」
「本当だ。青い海に囲まれた島で夢のような生活を送らせてやろう」
『島でのバカンス』、『夢のような生活』。
……信じられない。
実際、先月騙されたばかりだ。
『10万PP』という大金と、『進学・就職率100%』という広告によって。
飴と鞭。
動物の調教において効果があるとされている、最も効率的な手段。
――――実験動物扱い、というのは冗談ではないかもしれない。
だが、これは『言ってはいけない話』だ。
少なくとも、期末テストまでは。
クラスメイトのモチベーション維持のために有効なら、遠慮なく使わせてもらう。
……平田と櫛田あたりには、事実を共有しておいた方がいいかもしれない。
「マジかよ……」
「中間テストまで二週間。私はお前たちを信頼している。赤点を乗り越える方法はあると確信している」
『赤点を乗り越える方法はあると確信している』。
やはり、過去問の存在と、その内容は意図的なものだった、ということか。
「まだ納得できないようなら、もう一つ。
これも実力のうちだ。
社会に出たら、想定しなかった、あるいは想定し得なかったトラブルに遭遇することは必ずある。
その時お前たちはただ泣き叫ぶだけなのか? 違うだろう?
そんな時間があるのなら頭を使え。他者に助けを求めるのも一つの手だ。
以上。一限目の準備をしておくように」
一方的に話を切り上げて、先生は出て行った。
「バカンスって、まじなのかな……?」
「おっしゃあ!!俺はやる、やるぞぉ!!」
「あたしも~!テスト二回乗り越えるだけでしょ!?」
『バカンス』という魅力に乗る者、乗らない者。
疑いながらも、希望を捨てきれない者。
このクラスには、いろんな『色』が混ざっている。
――これはおそらく『踏み絵』だ。
教師を信じるのか、信じないのか。
欲で動くのか、そうじゃないのか。
この学校の『見えない闇』は、濃くて深い。
「……とりあえず、最悪の展開だけは回避できたんじゃないかな?」
山菜をかじりながら平田が言った。
昼。
俺たちは情報を整理して、これからの方針を話し合うため、三人で学食に行くことにした。
全員同じ、0PPの山菜定食。気休めのような節約が、かえって今の状況を象徴している気がした。
「……さて、本題に入ろう。」
三人とも食事を済ませた後、俺はそう切り出した。
「まず、過去問。あれは『救済』じゃない。意図的に仕組まれた『トラップ』だと思う」
「……どういうことだい?」
「やっぱり……学校側の『罠』ってこと?」
「『救済要素』というより、『今回の突破要素の一つ』であるのは間違いないと思う。ただ、頼りすぎると罠になる」
単純な話だ。
もし、普段からあまり積極的に勉強をしない生徒が、この過去問を手に入れ、毎年同じであることを知ったら。
ほとんどの場合は、『毎年同じだ、ラッキー』程度で終わってしまうのではないだろうか。
そして試験の直前に過去問の暗記を始める。
今回はそれでなんとかなるかもしれない。けど、次は?
7月の期末。2学期の中間、期末。3学期の期末で合計あと4回。
さらに2年、3年のテスト回数も合わせると、超えるべきテストは15回。
ここまでやる学校だ。全問全期使いまわしなんて愚かなことはしないだろう。
そして、過去問頼みの生徒は退学になる。
『救済に見せかけて、次の落とし穴に変える』。
それが、この学校だ。
「でも、みんなちょっとはやる気出るんじゃないかな?私もバカンスなんて行ったことないし」
「確かにね。……ただ、そのまま鵜呑みにしていいのかな?」
「『誰のどんな言葉を信じるか』も実力としてみる、ってことなのかもな」
『希望に手を伸ばす』のと、『それに縋る』のは違う。前者は意思で、後者は依存。
その差を、見誤ってはならない。
「それじゃあ、今後の方針も固めておこう」
昼休みは限られている。いつまでも学食の一角を占拠し続けるわけにもいかない。
締めの話題を切り出したのは、平田だった。
「まず、方針自体は変わらない。放課後に勉強会を開いて、みんなで赤点を回避する。これが一番大事な目標だと思ってる」
平田の主張は変わらない。
全員赤点回避のために、勉強会を主催する。
『全員で進む』ということに、平田は重要な部分を置いている。
「昨日、僕たちで修正した問題集。まだ一部だけど、これを基準に進めていこう。
試験直前……3日前くらいかな。そのあたりからは過去問を活用して、個別の弱点を補強していこうと思うんだ」
「賛成だ。問題集のほうはこっちで修正をしておく。もちろん、過去問とは気づかれないように仕上げるつもりだ」
最終的に過去問を公開する以上、可能な限り同じものだと思われてはいけない。
過去問だと分かった瞬間に手を抜く、なんてことはさせないように。
「ありがとう。
でも、九条君にだけ任せっぱなしにはできないよ。
今まで、君が一番動いてくれた。でも、それに甘えてばかりじゃいけない。
これまでずっと手伝ってくれていたし、問題集の作成には僕も参加する。
九条君には、解説や構成の調整を優先してもらえたら嬉しい」
「私も!」
隣で聞いていた櫛田も、明るく手を挙げた。
だが、それに続く話は、一転して気落ちした様子の櫛田からだった。
「あのね……ちょっとお願いしていい?
問題集、数学と英語を優先して作ってもらえないかな?」
「実はね……」
櫛田が少しだけ言い淀みながら、口を開いた。
話題は、須藤たちの勉強会についてだった。
先週、堀北と綾小路が主催した勉強会に、櫛田も参加したそうだ。
参加者は須藤、山内、池の三人。小テストで赤点だった生徒たち。
問題は、開始直後に起きた。
堀北と須藤が衝突し、須藤がその場を離脱。後を追うように池と山内も退出したという。
原因は、堀北の態度だった。
須藤に対して『無知無能』、とまで言ったらしい。
……そこまで言われて、おとなしく従う人間がいるだろうか。
須藤のような勝気な性格なら、尚のことだ。
それ以降、勉強会は中断されたまま。
再開の目処も立っていないとのことだった。
「もし再開できるなら、まずは須藤くんの苦手な科目に絞るべきだと思う。
英語と数学……特に連立方程式の基礎からつまずいてるみたい」
少し迷ったように間を置き、櫛田は続けた。
「だから、その二科目……英語と数学を、優先して作ってもらえると助かるな。
九条くんなら、うまく作ってくれそうな気がするし」
笑みは自然で、声も穏やか。
けれど、その『気がする』という言葉には、どことなく誘導するような色が混じっているような気がする。
……ほんのわずかな違和感。
信頼されているのか、都合よく使われているのか
……その判断は、まだ保留しておくべきだろう。
「でも、昨日の夜に綾小路くんから連絡があったの。須藤くんの説得は、自分に任せてほしいって。」
櫛田は淡々と報告するが、その裏にある感情は読み取りづらい。
綾小路なりの判断だろう。
だが、全てを任せきりにはできない。
「山内くんと池くんは、もう一度私から誘ってみる」
「ありがとう。助かるよ、櫛田さん」
平田がほんのわずかに微笑んで、礼を伝える。
これは、櫛田の領分だ。
平田は、クラス全体を支える表の柱。
櫛田は、下位三人のうち二人に焦点を当てて関係修復を図る。
――では、自分には何ができる?
問題集の修正は既定路線。
それに加えるなら、もう一手。考えるべきは、残るひとり。
「俺は……須藤と、話してみようと思う」
「須藤君と?でも、彼は綾小路君が……」
櫛田の声には、戸惑いとわずかな警戒が混じっていた。
もしかすると、何かを感じ取っているのかもしれない。
「綾小路が何かするってことはわかった。
でも、『だから自分は何もしなくていい』とは思わない」
記憶の奥底から浮かび上がるのは、かつての自分。
『誰かに言われたから』従い、破綻した過去。
だからこそ、他人の意志を押し付けることには慎重でいたい。
「テストとか、勉強会のためじゃない。
須藤自身の言葉を聞いて、考えを知ったうえで、最終的に、『須藤自身がどうしたいのか』を、自分の意志で決めることが一番大事だと思う。
『誰かに言われたから仕方なく』じゃ、また同じことを繰り返すだけだ」
「……九条くんって、そういうとこ、すごく真面目だよね。」
ふと、櫛田がやわらかく微笑む。
その裏に何を隠しているのか――今は、まだ読めない。
「……『あの時ああしていれば』なんてことは誰だってある。俺は、『やった後悔』と『やらない後悔』なら、やったほうがマシだと思ってるだけだ」
そう。
後悔なんて、生きていればいくらでもある。
『あの時、もっとこうしていれば』。
自分自身だって、ずっとそうだった。
――だったら、動いたほうがいい。
たとえ無駄になったとしても、それは“意味がなかった”とは限らないのだから。
いつもの倍近い量になってしまった……
個人的な考察ですが、原作は基本、下記のような流れで展開しています。
この内容をあてはめながら読むと、多くの場合推理小説のような楽しみが生まれると思います。
1. 課題(イベント)が発表される(例:中間テスト)
2. 誰かが「王道の攻略」を試みる(例:まじめに勉強する)
3. 一度窮地に立たされる(例:急な範囲変更)
4. 綾小路が介入する
5. 誰かが「邪道の攻略」を行う(例:過去問の使用)
6. 決着がつく(基本的に王道攻略者は敗北する)