その日の放課後。
俺は差し入れのタオルやドリンクを準備して、バスケ部の練習場所に向かった。
時刻は19時前。
ほとんどの生徒はすでに下校し、校舎は静まり返っている。
だが、その中で一人、須藤は汗を流しながら黙々と練習を続けていた。
その動作一つ一つから、バスケへの情熱や強い意識が見て取れる。
一見、無駄にも見える反復練習の積み重ね。
だが、それは須藤が本気で夢を見ている証拠だった。
――だからこそ、今話さなければならない。
「お疲れ様。随分と熱が入ってるな」
「……あ?お前……」
「同じクラスの九条だ。覚えてなくても無理はない」
「……なんだよ、堀北にでも頼まれたのか?」
須藤は差し入れを渡すと一瞬戸惑ったが、すぐに不信感むき出しで聞いてきた。
「いや、話は聞いてるけど関係ない。
最終的にどうするかは、おまえが決めることだからな」
俺の言葉に、須藤はじっとこちらを見据える。
その視線には、わずかに警戒と戸惑いが混ざっていた。
「……あいつ、堀北はよ。俺の夢まで馬鹿にしたんだよ。そんなくだらない夢捨てろって。
勉強なんて、将来何の役にも立たないのによ」
そう言って、須藤はスポーツドリンクに口をつけた。
その声には、怒りというよりも、諦めと苦さがにじんでいた。
――『勉強なんて将来役に立たない』。
多くの学生が、多かれ少なかれ思うことだ。
だが、彼にとってそれは、夢を踏みにじられた象徴でもあるのだろう。
「勉強の有用性……はともかく、役に立つかもしれないものはあるぞ」
「は? 勉強とバスケに何の関係があんだよ?」
少しだけ須藤の口調が強くなる。
『否定された』と少なからず思ったのかもしれない。
「俺はバスケのルールとか、詳しいことは正直よく知らない。
でも例えば――おまえが将来、海外の強豪校に行きたいって思ったら、英語が必要になるんじゃないか?」
「……」
須藤は何も言わず、わずかに視線を落とした。
そこにあったのは反発ではなく、考えるための“沈黙”だった。
「役に立つか立たないかじゃない。
でも、選択肢や手段を増やす、ってことにはつながるはずだ」
少し風が吹き抜けて、体育館の扉がわずかに揺れた。
汗ばむ空気に混ざって、練習後の熱がまだ残っている。
「さっきの練習、見てたよ。
一人で遅くまで必死になって練習して……その努力はすごいと思う。
誰に強制されたわけでもなく、自分の夢のために動いてる。それって、簡単なことじゃない」
「お、おう……」
須藤が少し照れたように目を逸らした。
素直に褒められることに、慣れていないのかもしれない。
「だからこそ、お前は『チームプレイの大切さ』みたいなものをわかってると思う。
勉強の意味や価値がどうこうじゃなくて、『チームプレイの練習』って感覚でやってみたらどうだ?」
「チームプレイの、練習……」
その言葉を、須藤は小さく反芻するように繰り返した。
勉強の大切さや社会人生活がどうこうといった理屈は関係ない。
大切なのは、『何かのために行動する』という行為そのものだからだ。
それが勉強であれ、部活であれ、そこに上下関係は存在しない。
一方で、今回のように退学などが関連している場合は特殊だ。
最終的な決断は本人ではあるが、『今優先するのは何か』ということを考えてもらわなければならない。
「ただ、堀北が直接話しにくるまでは、おまえの判断でいいと思う。
今回の件で、先に謝るべきなのは堀北の方だからな。
でも……向こうが頭を下げたら、おまえもちゃんと謝ってやってくれ」
「……………」
須藤は何も言わなかった。けれど、その目からは最初のようなトゲが消えつつあった。
「おまえにとっての『バスケ』が、堀北の『Aクラス』だからさ。
だから、お互いに譲れない部分があるのは当然だろ?」
「……………」
須藤は、何も言わなかった。
少なからず、言葉は届いていると信じたい。
「そろそろ俺も帰るよ。じゃあな、また明日」
俺は須藤に背を向けて、寮に帰る。
あとは、須藤たち次第だ。
須藤との話から数日後。
「ねえ平田君、この内容なんだけど……」
「九条くーん。こっち、見てもらっていいかな?」
図書室の勉強会には、思った以上に静かで落ち着いた空気が流れていた。
テストまで2週間弱。少し余裕があるとはいえ、集まった生徒たちは真剣な表情で問題と向き合っていた。
「改訂版」の問題集は、日曜の午後から平田・櫛田・そして俺の三人で協力して作り直したものだ。
だが、今この場に櫛田の姿はない。
彼女は、池や山内の説得に回っている最中だった。
正直、人数は多くない。だが、学ぶ空気はむしろ良くなってきている。
平田は一人ひとりに声をかけながら、時折こちらを見てうなずいてくる。
この空気を作れるのは、やはり平田の「信頼」あってこそだと思う。
「この部分、注目してくれ。ここは言い換えると――」
問題集の解説と添削は、俺の担当だ。
櫛田の依頼もあって優先させたのは数学と英語。
それぞれ数学・理科は平田が。国語、社会は櫛田が中心に作成してもらった。
俺は英語と、全体の解説作成を担当している。
内容の根幹理念は変わっていない。
単なる知識の詰め込みではなく、「どう考えれば答えにたどり着けるか」の重視。
万が一に備え、少しだけ以前の範囲も混ぜてある。
『知識を持っていること』と、『それを言語化して他人に伝えること』は、まったく別の力だ。
こうして問題集の作成、解説をしていること自体が、自分にとっての勉強になっているのかもしれない。
平田の論理性、櫛田の情報処理、そして俺の論法と解説。
バランスがうまくかみ合ったことで、一つの形になってくれた。
二人には感謝だな。
「ん?……櫛田からか」
携帯が、わずかに振動した。
ポケットから取り出すと、櫛田からのメール通知。
『山内くんと池くんの説得、成功したよ!
あと、綾小路君から連絡があって、須藤君と堀北さん、仲直りしたって!
明日の放課後、勉強会を再開します』
その一文を見て、俺は小さく息を吐いた。
特に須藤たちの和解はありがたいことだ。
平田に目で合図し、画面に「了解。俺も参加したいんだが、いいか?」とだけ打ち込む。
「九条君。誰からだい?」
「櫛田からだ。……須藤たち三人とも、堀北たちの勉強会に参加するって。俺も参加していいか聞いてるところだ」
「よかった!これで、だいぶ揃ってきたね」
いよいよ、堀北たちの勉強会が再開する。
残された時間は、あと二週間弱だ。
翌日。
堀北たちの勉強会への参加を取り付けた俺は、図書室で三人の勉強を手伝っていた。
「この公式、前にやったやつだな!」
「うっし、ちょっと思い出してきた!」
池と山内の勉強意欲は思った以上に高まっている。
二人には櫛田がメインでついている。
「ほんと、櫛田ちゃんの問題集のおかげだよなぁ!」
池が歓喜の声を上げた。
『池と山内の意欲を上げるため、問題集の修正は櫛田の発案』――そういう建前だが、どうやら実際にも効果はあるようだ。
「あ、え~と、九条?これなんだけど……」
「見せてくれ。……。ここだ。ここの計算で間違えてるな。ここ間違えると一気に狂うから、いったんここで確認してみろ」
「お、おう……」
池は、櫛田とのマンツーマン(定期的に俺と交代)で勉強している。
山内はたまに恨めしそうに見ているが、つい先ほどは逆だった。
そして須藤は……
「いい、須藤君?文法一つで意味が変わってくる。まずは該当箇所を探して、どうなるか考えなさい」
「おう、え~っと?ここの意味がかわってくるから……」
須藤は堀北とマンツーマン状態だ。
お互いまだぎこちないながらも、少しずつ距離を詰めていっている。
この調子なら、定期テストも何とかなりそうだ。
「なあ、九条。ここの文なんだが、教えてくれないか?」
突然、綾小路が話しかけてきた。
特に今まで問題で詰まったようでもなく、もくもくと自習していただけだが、それが突然。
「見せてくれ……」
綾小路がノートを差し出してくる。
そのページには、ただ一行だけ――英文が記されていた。
ノートの中身を確認してから、もう一度綾小路を見る。
――観察されている。
どういう思考で、どういう言葉を返すか。
それを、綾小路は冷静に測っていた。
俺はペンを取り、綾小路のノートに静かに書き添える。
「……ああ、ここはこの一文に注目してくれ」
ノートを返す。
綾小路は中身を確認すると、何も言わず、静かにうなずいた。
まるで何かに納得したかのように。
そしてそのまま席へと戻っていった。
言葉は交わさずとも――たしかに、何かが通じた気がした。
『――What's your outlook?』
"――今後の見通しは?――"
『――I've given all I can. It's not enough.』
"――手立ては尽くした。でも、まだ足りない――"
個人考察をしてみました。
一巻(中間テスト編)はDクラスの見せ場。
世界観の説明やキャラクター紹介が中心のもの。
と解釈しています。