時間の良いところは必ず過ぎていくことで、悪いところは必ず訪れること――と、昔どこかで聞いた気がする。
ついに先日その日――中間テストの日がやってきた。
この二週間弱、できる手段はすべてやった、と思う。
自分の勉強。クラスメイトのフォロー。過去問での最終確認。そして、赤点基準の確認――。
最後の手段として、一部わざと空白にしての点数下げまでした。
それは、俺以外でも同じはずだ。
テスト間の休みに、赤点申告をする生徒はいなかった。
直前の過去問演習でも、須藤たちは60点前後まで結果が出ていた。
だが、箱の中身は開けてみるまで分からない。
誰もが、若干の不安を残して結果を待っていた。
「――それでは、中間テストを返却する」
「結果はこの用紙の通り。今回の赤点は――ゼロだ」
その言葉にクラスに歓声が響き渡る。
「マジかよ! 全員セーフか!」
「うおおお、やったああああ!」
「赤点ゼロって……ほんとに!?」
教室内には一気に歓声が広がった。
涙ぐむ者、拳を突き上げる者、静かに胸を撫で下ろす者――反応はさまざまだ。
口には出さないが、何度も危機はあった。
とくに、あの急な範囲変更。あれを察知し、過去問を用意できたのは、運もあった。
だがそれ以上に――
これは、全員が『考えた』結果だ。
自分を磨く、誰かに頼る、見えないものを見つける――。
そういったものすべてがかみ合ってくれた結果だと、俺は信じたい。
「しかし、全体平均90台、最低点も60点台とはな。よくやった、と言っておこう」
俺は歓喜の声を背に、教室の窓の外を見た。
空は晴れ、陽射しがまぶしいほどに差し込んでいる。
だが心の奥では、決して晴れることのない「不信」の影が、静かに息を潜めていた。
その日の夕方、放課後。
中間テストという最初の壁を乗り越えたクラスの空気は、どこかほっとした安堵と、浮かれた余韻に包まれていた。
ここ、平田の部屋もその例に漏れない。
「それじゃあ、みんな。中間テストお疲れ様!
乾杯!」
「「「かんぱ~い!!」」」
「……乾杯」
いつの間にか平田が「お疲れ様会兼、祝勝会をやろう」などと言い出して。
軽井沢や佐藤、博士(あだ名)がすぐ賛同して。
気づけば自分にも声がかかっていた。
特に断る理由もなかったから、そのまま参加した。
現在、平田の部屋で即席の祝勝会の真っ最中である。
紙コップ同士がカシャンと軽く鳴り、ジュースと菓子が並ぶテーブルの上を、笑い声が飛び交う。
「ねー、ほんっと信じらんなくない? 全員赤点回避とか、マジ神展開でしょ」
佐藤がチョコ菓子片手にテンション高く叫ぶ。
「いや。みんながんばってたからこそ起きた、必然だよ」
「さっすが平田くん、かっこいい~!!」
そんなやり取りも、今のこの場ではごく自然に聞こえた。
パーティはゆるやかに進行していた。
博士は相変わらず黙々とポテチを食べ続け、佐藤と軽井沢は携帯の動画を観ながら笑い合っている。
平田はそれを見守りながら、時折飲み物を補充していた。
テストが終わった安堵感は、どこか眠気にも似た穏やかさを空気に溶かしていた。
その空気に、ふと水面のさざ波のような違和感が差す。
「九条君。お疲れ様」
「ああ、お疲れ、平田」
「……今回はありがとう。
君が問題集を作って、全体の進捗管理をしてくれなかったら――正直、かなり危なかったと思う」
「俺は別に……自分のためにやっただけだ」
赤点者を出さないため。
退学者を出さないため。
自分がそうしたいから動いただけで、感謝や賞賛なんて求めていない。
「それでも、結果的にクラス全体が助けられたよ。素直に感謝してる」
「……そうか」
紙コップに口をつける。
炭酸の抜けかけたジュースの甘さが、どこか物足りなく感じられた。
そのまま、しばらくの時間が流れる。
誰かがくだらない冗談で笑い、誰かがこっそり写真を撮り合う。
そんな、他愛のない幸福のかたちがあった。
パーティがひと段落し、軽い片づけが始まったころ――
スマホが震えた。
取り出して画面を見ると、メールが一通。
差出人:櫛田 桔梗
件名:(なし)
本文:『お話があります。来てください』
送信時刻は、ちょうど今。
件名も挨拶もなく、ただ短いその文面。
……今夜は、まだ終わらないらしい。
俺は無言でスマホをポケットに戻し、テーブルにあった紙皿をまとめ始めた。
夜。
あたりはすっかり暗くなり、街頭と月の明かりだけが照らしている。
「櫛田」
「……九条君。来てくれたんだ」
学校敷地である、人工島の淵。
櫛田桔梗は、こちらに背を向けて海を見ていた。
その顔は見えない。けれど、肩のわずかな強張りが、彼女の内側を語っていた。
こんな時間に、こんな場所に。
人を呼び出す理由が、ただの雑談で済むはずがない。
「ねえ、九条くん――――
――――――――気付いてるでしょ?」
空気が変わった。
朗らかで無邪気な『クラスの人気者』の声ではない。
冷たく、鋭く、他者の嘘を許さぬ――本性の声だった。
「私ね、昔から、警戒されてるとか、疑われてるとか……そういうのには敏感なんだよね」
月明かりに照らされたその横顔には、笑みすら浮かんでいない。
ただ、目だけがこちらを試すように光っていた。
「もう一度聞くね? 九条くん――気づいてるんでしょ?」
こちらの返答は、すでに彼女の中で決まっているようだった。
問いかけに見せかけた、牽制。
「……櫛田が『完璧な優等生』を演じてる、ってのは、うすうすわかってた。
理由は知らない。
別に、誰にも言うつもりはない」
真正面から、視線を逸らさずに言う。
ごまかしても、意味がない。
彼女が今ここにいるのは、それを確認するために他ならないのだから。
そう告げた瞬間、櫛田桔梗は静かに振り返った。
その表情には、作り物の笑顔でも怒りでもなく――ほんの一瞬だけ、本音に近い「素」があらわれていた。
「……やっぱり、隠しきれてなかったかぁ」
彼女の声には笑みが混じっていたが、それはどこか張りつめた笑みだった。
「私、小さい頃からそうだったの。
みんなが褒めてくれると、嬉しくて仕方なくなる。
逆に、誰にも見られなくなると……なんだか、自分が消えてしまいそうで。
……ちょっと、変かな?
でも、それが『私』なの」
それは『説明』であると同時に、『言い訳』でもあった。
櫛田が過去に何をしたのか、俺には知らない。
だが、彼女が「外側」と「内側」を明確に使い分けていることは、十二分に伝わってきている。
そのギャップに不気味さを感じるのは、彼女がそれを『巧みに制御している』からに他ならない。
「九条君ってさ、『普通』じゃないよね。観察力っていうのかな。鋭いっていうか、怖いくらいに人を見てる。
――そういう人が近くにいると、私は安心できないんだよね」
言っていることは理解できる。
『仮面』をかぶり続けている人間にとって、自分の内面を見透かすような存在は、最も恐れるべき相手だ。
「だからね……提案」
彼女は笑顔のまま、ひと呼吸置いた。
「君は、私が“優等生”でいる理由には――今は立ち入らない。
その代わり、私も君を傷つけたりはしない。
そして必要な時には……ね、ちょっとくらいなら“協力”してあげてもいいよ?
……まあ、気が向いたら、って話だけど」
『脅して従わせる』でも『一方的に服従する』でもない関係。
だが、どこかでこちらの“出方”を量るような提案だった。
――なるほど、そういうことか。
彼女は、俺の『沈黙』が怖かったのだろう。
俺が黙って観察し、見透かしていると感じることが、何よりも不安だった。
それはきっと、『仮面』で生きてきた者の本能に近い。
だから彼女は、こうして先手を打ってきた。
「口出しをしないなら、危害を加えない」
「必要なときには、味方する」
そのどれもが、裏を返せば「従わなければ敵にまわす」という意思表示だ。
彼女は、力や嘘で黙らせようとしたわけではない。
脅しでも媚びでもなく、あくまで“対等な交渉”を選んだ。
仮面の奥にある彼女の本性は、おそらく相当に不器用で、臆病で、それでも「自分の居場所」を守ろうと必死なんだろう。
彼女に何があったのかは知らない。
それでも、誰よりも鋭く、誰よりも必死に、自分という存在を守っていることだけは、わかる。
そういう人間は、放っておけばいずれ自壊する。
だからこそ、線を引く必要がある。
近づきすぎても、離れすぎても、どちらかが壊れる。
答えは、決まった。
俺は小さく息を吐いて、彼女の目を見据えた。
「……いいだろう。条件付きなら、それで構わない」
櫛田がピクリと反応したのがわかった。
「けど、ひとつだけ言わせてくれ」
俺は、少しだけ言葉を選ぶ。
「俺は『演技』を責めるつもりはない。誰だって、何かを守るために仮面をかぶる。
だが――もし、その仮面の裏で誰かが壊れそうになってるとしたら……俺は見て見ぬふりはしない。
そのときは、遠慮なく止めに入る。それでもいいなら……取引、成立だ」
「うん、そういうところ……やっぱり変わってるよね、九条君」
櫛田は目を細めて、笑った。
作り物の笑顔かどうかは、判別できなかった。だが、今までよりはずっと自然に見えた。
それが肯定か否定かは、彼女にしかわからない。
だがこの一瞬だけは、たしかに『仮面』を少しだけ外したように思えた。
彼女が背を向けて去っていく背中を、俺は追わなかった。
ただ、頭の中では冷静な警鐘が鳴っている。
彼女は、危うい。
けれど、それは『悪意』ではない。
彼女が牙を向けるのは、おそらく――
『仮面』を無理やりはがそうとする者か、
あるいは『仮面の奥』を知ってしまった者だ。
問題は、その綻びがいつ、どこで、誰を巻き込んで崩壊するかだ。
そのとき、俺がどこに立っているか。
それを誤らないようにしなければならない。
――もし、理想的な展開があるならば。
触れず、壊さず、触れさせず。
彼女が自分の意志で『仮面』を取ることだ。
月はただ静かに、海面を照らしていた。
波の音だけが、残された余韻を洗い流していく。
そして、夜は何事もなかったかのように、更けていく――。