― フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』
部屋のドアを閉めて、櫛田桔梗は深いため息をついた。
今日一日を思い返しても、頭の中は九条のことでいっぱいだ。
着替える気力もわかず、ベッドに倒れこみ、天井を見上げる。
「堀北だけで済むと思ったら……。
その前に、もっとタチの悪い“化け物”が出てくるなんてさ。ホント、神様の悪趣味ってやつ?」
『神様』なんてものがいたら、いっそぶん殴ってしまいたい。
私は窓の外をぼんやり見つめながら、自分の中でぐるぐると巡る思考を整理しようとした。
入学直前のバスの中から、今までの九条の印象が次々に蘇る。
九条凪斗くん。
入学前のバス――誰にも気づかれずにお婆さんに席を譲った、あのときの子。
クラスで再会して、いつもの“優等生”で近づいたら……いきなり警戒されて。
何も言ってないのに、裏の顔を察してるような視線を向けてくるんだもん。
それからの行動も異常続き。
学校のシステムを一か月で洗い出して、赤点の算出方法まで担任から聞き出して。
それだけじゃなく、勉強会では自作の問題集をサラッと出してくるし……。
あのクオリティ、絶対ただの趣味じゃない。
かと思えば、須藤の暴走を、言葉だけで止めちゃうし。
そのくせ、誰の手柄にもせず、自分の価値も主張しない。
まるで“助けて当然”って言わんばかりの無関心ぶり。
私が欲しくてたまらないものを持っているのに、それをいらないとするのが、憎らしくて、恐ろしい。
なのに――その瞳の奥には、どうしようもなく深くて、冷たい怒りが見えた気がする。
本当に、意味がわからない。
でも、だからこそ気になる。怖いけど、目が離せない。
まるで、開けてはいけない綺麗な箱を渡されて、それと二人きりにされたような気分。
何とか手を打たなければいけない。
――けれど、敵に回した瞬間、自分は壊される。
可能であるなら、九条の『秘密』を手に入れて、自分の制御下に置きたい。
「でもなぁ……『アレ』は地雷だよね?」
思い出すのは、テスト数日前。
勉強会の進捗報告と確認のため、自分と平田、綾小路と堀北、そして九条で一緒にお昼にした日。
報告会が終わって、ちょっとした雑談になったとき。
――そういえば九条君って、いつもそのヘアピンしてるよね?
そう聞いたのが、始まりだった。
単純におしゃれの一環なのかな、くらいの認識。
でも、実際は……
――姉さんの、形見だ。
――別に高いものじゃないけど、大事なもの、ではあるかな。
「あれは、やっちゃったなぁ……」
ただのファッションだと思った。
でも、あれは違った。
自分が踏み込んだのは、彼の核心だった。
だが、あれが九条の『急所』なのは間違いない。
あのヘアピンに隠された何かが、九条の『秘密』だ。
問題は、手を出したら九条は間違いなく暴走する、ということ。
『家族の死』なんて、軽々しく触れていいものじゃない。
中学時代と同じ匂いがする……下手をすれば、もっと深い闇だ。
かつての自分がそうだったように――
感情の限界に達したとき、人は理屈なんて簡単に吹き飛ばす。
「『今は』開けないであげる。……でも、いつかは開けてもらうからね」
危ない『箱』の中身には、迂闊に触れるべきじゃない。
でも、自分の手元に置いて、鍵だけは握っておく。いつでも開けられるように。
そして、いつか『箱』のほうから開いてもらうのだ。
その日、不思議な夢を見た。
波の音だけが響く、静かな浜辺に立っている夢だった。
気づくと、私は海の中へと歩いていた。
水面はすぐに消え、やがて陽の光も届かない深海へ沈んでいく。
そこで私は、ひとつの影を見つけた。
ぽつんと佇む、静かな宮殿――
音のない、まるで世界から切り離された場所。
そして、そこにいたのは――――
――――九条くん?
でも、違う。彼は何も言わなかった。
ただ、じっとこちらを見ていた。
その瞳は、すべてを見透かすような色をしていた。
私の嘘も、過去も、恐れさえも――まるで最初から知っていたかのように。
声をかけようとした。
でもその瞬間、海全体が震え、
激しい流れが私を押し流して――
そして――目が覚めた。
まだ耳に、あの深海の静けさが残っている気がした。
私は、あの場所に何を求めていたんだろう。
あの目が怖かったのか、それとも――安心したのかも、わからない。
静寂の中、綾小路清隆は一人、思索を巡らせていた。
特に、ある男子生徒に関して。
「九条凪斗、か……」
ふと目をやった先には、手元の封筒。
この中には、PPを払って入手した、九条の『入試の回答』が入っている。
封筒の隣には、以前の報告会の際に聞いた「ヘアピン」の話がメモされていた。
形見。姉のもの。
それだけの情報に、彼の本質が垣間見える気がした。
──あれは、ただの装飾品ではない。
九条凪斗、という人間の核に、確かに繋がっている。
俺は、これまでの九条の行動を回想する。
入学前のバスの中。
さも当然のように席を譲った姿。
その善意に見返りはなく、誇示もない。ただ、静かに、それが当然であるかのように行っていた。
入学後、彼はクラスに馴染まず、誰にも頼らず、一か月をかけて学校の制度を調査していた。
単なる向上心ではない。
彼の行動には、『他人のために事前に地雷を取り除いておく』かのような一貫性がある。
勉強会では、彼の作った問題集が使われた。
その構成と解説は、知識を「教える」よりも「考えさせる」ことを重視していた。
あれはただの学力の高さではない。
受け取る側の理解力まで想定して設計された、『他者を育てる』ことに重点を置いた、異質な問題集だった。
自己主張も、功績の主張も、一切しない。
ただ、必要だと思えば行動し、結果を残し、去っていく。
――ある種、究極の合理性といえるだろう。
だが、その動機が根底から自分とは違う。
俺の入試の答案を「合理的だけど、心がない」と評した彼が、“唯一満点を取った”という問題の回答。
あの答案を読んで、俺は理解した。
―――あれは、『パンドラの箱』だ。
かつて神話で、パンドラという女が、神々から禁じられた“箱”を預けられた。
その中には、あらゆる災厄が封じられていたという。
だが、パンドラは抑えきれぬ好奇心からその箱を開け、
世界に災いが溢れ出した……そんな話だ。
九条凪斗という存在。
その行動、思想、感情。
すべてが閉じ込められた、静かに封印された箱。
“ヘアピン”はその鍵であり、
この答案は――箱の中身の一部だ。
俺はまだ、その箱の蓋を開けるつもりはない。
だが、いずれ開ける時が来たときに備えて、
その中身には――警戒しておくべきだ。
「――堀北か?――――――。」
夜はまだ、終わっていない。
夜の寮は、いつになく静かだった。
廊下の先、目的の部屋の前で、堀北鈴音はふと足を止める。
まるで――扉の向こうに、何か取り返しのつかないものが待っているような気がして。
少し前、彼が電話越しに告げたあの言葉が、頭の中で繰り返された。
――九条の入試の回答を手に入れた。
――パンドラの箱を、開けたくはないか?
最初は、話を聞く気もなかった。
それでもしつこくかけてくるから仕方なく電話に出た。
そして、その言葉は私を一瞬で動かした。
答えは決まっていた。私はノックもせず、扉を開ける。
「来たのか」
机に向かっていた綾小路君が、振り返ることもなく声をかけてくる。
「誘ったのは、あなたでしょう」
口調はいつも通りを装ったつもりだったが、わずかに緊張が混じっていたのは自覚していた。
九条凪斗。
『不良品』とされた生徒たちの中で、唯一明確に――異常、と判断できる存在。
最初に気づいたのは、授業中の質問だった。
「弱さの価値」、「平等の健全性」、「実力や評価の純粋性」……
その問いかけは、どれも私の想定から外れていた。
新鮮で、斬新で、予測不可能で――。
私が、話しかけに行った。
自分から、興味に突き動かされて。
今にして思えば、それ自体が異常だったのかもしれない。
だが彼の異常性は、それだけでは終わらなかった。
独自に学校のシステムの調査をしていたこと。
小テストで、私でも迷うような問題に、満点を取った。
中間テストのための勉強会。彼が用意した『問題集』は、完成度が高すぎた。
須藤君と接触したのも私より早かった。
須藤君と話をしたときに、言われた。
――九条ってのがよ。言ってたんだ。俺の『バスケ』が、おまえの『Aクラス』だ……って。
――勉強の大事さとかじゃなくてよ、『チームプレイの練習』だと思えばいい……って。
――だから、俺も少し協力する。『夢の大切さ』ってのは、俺もよくわかるからな。
そして――教師から下された評価。
「異常」「異端」。
それを裏付けたのが、『彼だけが満点だったという問題と解答』。
……九条凪斗は、私が知らない領域で、別のやり方で結果を出していた。
学力――それだけなら、私にも一定の自負がある。
だが、彼はそれに加えて、人の感情や迷いに寄り添う『支援者の思考』を持っていた。
それは、私にはなかった視点。
おそらく、私が本能的に恐れている領域。
支配でも強制でもなく、あくまで『対等』なまま人を導こうとする姿勢。
それは、私にはできないやり方であり――受け入れがたい、けれど否定もできない。
『警戒すべき異物』であり、同時に『学ぶべき可能性』でもあった。
知りたい。彼の考えが。
見てみたい。彼の『答え』が。
――私は、箱を開けたい。
たとえ、その中身が災いだったとしても。
私は綾小路君から封筒を受け取り、開く。
恐怖と、期待と、好奇心で手が震えていた。
そして私は、九条君の回答に目を通す――
「……これは」
言葉が続かなかった。
思考の渦に呑まれた。
『平等とは、「誰もが倒れても、もう一度立ち上がることができる」ということだ。』
私はそこに印をつけるように目を止める。
単なる理想論じゃない。
『再起』にこそ、平等の本質があると……彼は、そう言いたいのだろう。
「『平等』の定義として、一般的なものではないわ。
でも……整っている。論理的で、なおかつ、感情を含んでいる」
論理の裏に、明確な感情がある。それが、この回答の中核だ。
理屈ではなく、「なぜそう考えるのか」を明かす言葉が、文章の間に挿し込まれている。
「お姉さんの死を……こんなふうに使うなんて」
九条君の、姉。
以前偶然聞いてしまった、彼の『ヘアピン』の持ち主。
形見。つまり、もうこの世にいない。
そして、回答の一説。
それが意味するのは、つまり……。
軽蔑ではなかった。
むしろ、覚悟に対する驚きに近かった。
「答えを書くことで、自分の過去ごと世界に差し出している。正直、私にはできないわ」
その隣で、綾小路君が軽く頷く。
「そうだな。
だが、九条はただ、『問いに答えた』わけじゃない。
問いの『意味そのもの』を変えている」
「……意味?」
「問いは『平等とは何か』だ。
でも九条は、答えるだけじゃなくて、『問いの先』を描こうとした。
どうすればそれが実現するか――世界の形にまで踏み込んだんだ」
問いを進める。
それは、多くの人間が簡単にはできない芸当。
まして、『高校入試』という人生に関わる一大場面では、尚のこと。
たいていの人間は、「正解のある質問」にしか対応できない。
けれど、綾小路君は『問いの外側』を見ていた。
まるで、私たちより高い場所から、全体を見下ろしているかのように――
「……あなた、まるでそれが当然みたいに言うのね」
「……当然ではない。だが、これが九条の『異端』の理由なのはわかった」
私には届かない領域――
私がまだ知らない思考の次元を、彼はすでに歩いている。
……こういう人間だったのね、綾小路君。
心がざわめいた。
それは、自分よりも一段上を飛んでいる者を見上げた時の感覚だった。
あるいは、思考で誰にも負けたことがないという自負が揺らぐ瞬間――
目の前の空気が、熱を帯びるような感覚。
焦がすような光。手の届かない高さ。
どこまでも続く世界を見ているようで……
自分の内で、何かがきしむ音がした。
その日、不思議な夢を見た。
浜辺にひとりで立っている夢だった。
空はどこまでも澄みわたり、雲ひとつない。
波が寄せては返す音だけが、静かに響いていた。
そこで自分は、ひとつの影に気づく。
遥か高く、空を飛ぶ人影――翼を持った人の姿。
その背中は、誰にも届かないほど遠く、孤独で、それでも美しかった。
――――綾小路君?
でも、違う。彼は振り返らなかった。
ただ、まっすぐ前を見て、空の果てを目指していた。
その背に何も縛るものはなく、風と太陽に身を任せていた。
声をかけようとした。
でも、その瞬間――空から突風が吹きつけてきて、
私の声も、意志も、かき消されていった。
そして――目が覚めた。
直前に、海に『何か』が映っていたような気がする。
まだ耳に、波の音が残っている気がした。
私が立っていたのは、海と空の境界。
どちらにも踏み出せずに、ただ見上げることしかできなかった。
彼に惹かれた理由は、今でもよくわからない。
でも――あの背中が、どうしようもなく、遠く感じた。
なお、この翌日は原作側の祝勝会。
つまり、櫛田は綾小路に秘密がばれる。