曇天の空。けれど、雨が降る気配はなかった。
曇り空に太陽は見えず、やや蒸し暑いくらいの気温の中、勝負の時は刻一刻と迫ってくる。
審議の日の朝。
先日、Cクラスを訪れたその日の夕方、俺は堀北と合流し、ボイスレコーダーを渡した。
録音された内容は、俺、堀北、綾小路、櫛田、平田の五人で共有し、戦略を練った。
相手は何を主張してくるか。
逆にこちらは、どこまでを主張すべきか。
仮に、相手の証言がこの録音内容と矛盾すれば――その瞬間、これは『証拠』へと変わる。
そして、昨夜。
『……九条か? 綾小路だ』
『明日の審議に、おまえは参加しないでほしい。
おまえがいることで、逆に相手がぼろを出さなくなる可能性がある』
『審議の方はこっちに任せてくれ。
真犯人がいるなら、この瞬間が一番油断する時期だ。
九条は調査を続けてほしい』
そんな電話だった。
――あの男のことだ。どこまで読んで、どこまで計算しているかはわからない。
それでも、わざわざ俺に連絡を寄越したのは、何らかの『意味』があるのだろう。
釘を刺したのか。誘導しようとしているのか。
……あるいは、単に『手駒』としての確認か。
……まあ、どちらでもいいか。
前回は、俺が表。あいつが裏。
今回は、あいつが表で、俺が裏。
表に立つ者と、裏を探る者。
今は、後者が俺の役目だ。
生徒会室へと向かう人波から、俺は静かに背を向けた。
審議が始まった頃合いを見計らって、俺は人通りのない校舎裏へ足を向けた。
事件が起きた特別棟は、決して人通りが少ないわけではない。
だが、部活前後など、「無人になる時間帯」は確かに存在する。
お互いに迂闊な行動ができなくなる審議中。
今この瞬間こそ、『黒幕』が最も動きやすいと考えるのが妥当だ。
そう判断して特別棟へ向かう途中、俺は『それ』に気づいた。
――気配があった。
足音はない。声もない。
それでも、確かに「誰かに見られている」と感じた。
無遠慮な詮索ではない。だが、単なる好奇心でもない。
静かに距離を取りながら、こちらの出方をうかがう――獣のような気配。
――尾行、か。
俺は気づかなかったフリをしたまま、事件のあった場所へと歩を進める。
『気づいていないフリ』ができるなら、それは一つの手になる。
わざと背を向け、わざと隙を見せる。
そのうえで、『相手に動かせる』余地を与える。
それが有効かどうかは――次の一手で見極めればいい。
事件現場。
監視カメラの制限がなく、『自由』が許される空白地帯。
誘導は完了した。
仕掛けてくるなら、今だ。
「よぉ、探偵。捜査は順調か?」
沈黙を割ったのは、低く、乾いた声だった。
背後。
振り向くと、そこに立っていたのは――派手な制服のまま、ポケットに手を突っ込み、不敵に笑う男。
「お前が『絵描き』か?」
俺の問いに、男は口角をゆがめて笑う。
「ずいぶんとお上品な言い回しを使うなぁ。
まぁいい。龍園翔、Cクラスの『王』だ」
肩をすくめて、皮肉を返す。
「それで?その王様が、近衛兵もなしに、一般市民に何の用だ?払う税金はないぞ」
「……お前のことは聞いた。
俺が留守の間に殴りこんできた命知らずってな」
その目は笑っていない。
唇だけが吊り上がり、獣が牙を見せるような笑みを浮かべている。
警戒心はない。
俺を『観察』しに来た。それだけだ。
本気で手を出す気も、逃げる気もない。
ただ、俺の『色』を測りにきた。
「どうだ? その賢そうな頭で、もう犯人はわかったか?」
軽く投げるような言葉。
けれど、言外に『この事件の全貌をすでに見ている』という空気すら漂わせていた。
「……俺が何をしてるか、興味でも?」
「こそこそ嗅ぎまわってるネズミがどんな奴か調べに来たんだよ。
おまけに――こっちから仕掛ける手間も省けるってな」
風が吹いた。
校舎裏のわずかな隙間を抜けて、龍園の長髪を揺らす。
その目は、冷たい観察者のそれだった。
追い詰めるでもなく、挑発するでもなく――ただ、見ている。
この場で何かを仕掛けてくる気はない。
だが同時に、「いつでもできる」という自信が滲んでいる。
「……何やってるの?」
そこに――声が割って入った。
龍園の背後。
柔らかな声色と共に、空気が変わった。
「……一之瀬」
警戒をそのままに、視線を向ける。
そこに立っていたのは――女子生徒。
制服をきちんと着こなし、けれど威圧感ではなく、まっすぐなまなざしでこちらを見据えている。
「龍園君。こんなところで何をやってるのかな?
そっちの子は、Dクラスだよね?
ただでさえ今は審議中。
そんな中でまた事件が起きたら……まずいのは、龍園君の方じゃないかな?」
言葉にとげはない。けれど、明確な牽制だ。
『あなたのやり方は知ってる。
この場で火を点けるなら、燃えるのはあなたの方』
そう告げる、穏やかな防壁。
龍園が小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。
「……今日のところはご挨拶だ。
せいぜい、俺が狩りがいのある獲物になってくれよ?」
去っていく足音。
その背中からは、怒りも焦りも感じられなかった。
ただ――獣が獲物に爪痕を残し、『狩りの時間』を楽しみにしている、そんな余裕。
龍園が背を向け、そのまま校舎の影へと姿を消した。
残されたのは、乾いた余韻のような風と、俺。
そして、割って入ってきた少女だけだった。
「無事でよかった。怖い思い、しなかった?」
柔らかな声音。
だが、俺に向けられたというより、自分自身に対する確認のような響き。
『守るべき秩序』を保てたことに対する、安堵に近い感情を滲ませていた。
「ありがとう。
だけど……今のところ、危害を加えられたわけじゃない」
「そっか。うん、それなら、よかった」
そう言って、彼女は微笑んだ。
この時点で、『善人』であると判断できる。
それも、櫛田と違って『天然もの』の善性。
「きみ……Dクラスの生徒、だったよね?」
「ああ。九条凪斗だ」
「私は一之瀬帆波。Bクラスだよ」
それだけの簡潔な自己紹介。
だが、それ以上の飾りは不要だった。
声の調子、表情、語調――どれも自然で、作為のない言葉。
『信頼されること』に、無意識のうちに長けた人間。
第一印象として、それは強く残った。
「九条君……どこかで聞いたなと思ったら、思い出した。
この前、職員室で『満点回答の九条君』って話が出てたんだ」
「教師が生徒の成績を雑談のネタにするのは……どうかと思うけどな」
苦笑気味に返すと、彼女はくすっと目を細めた。
「まあまあ。満点って、すごいことだよ。自信、持っていいと思う」
その言葉には、純粋な賞賛と、どこか『見守るような温かさ』が宿っていた。
それは決して押しつけがましくもなく、気負いもさせない距離感。
「……こうして話してみて、やっぱり普通じゃないなって思った。
でも――たぶん、悪い人ではなさそう」
「そう断じられるほど、俺は多くを語っていないと思うけど」
「にゃはは。でも、語らなくても伝わることは、あるよ?」
再び、柔らかな笑み。
人懐っこい……けれど、リーダーとしての眼差しも潜んでいる。
先ほどの龍園とは、あまりに対照的だった。
――『北風』と『太陽』。
CクラスとBクラス、2つのクラスのリーダー。
その在り方は、まるで正反対のベクトルに思えた。
「長く立ち話するのもよくないよね。……じゃあ、またね、九条君」
小さく手を振り、彼女は軽やかな足取りで去っていく。
誰かに紹介されたわけでもないのに、不思議と心に残る後ろ姿だった。
一之瀬帆波。
――なるほど。確かに『優等生』の名は伊達ではない。
その背が完全に見えなくなった、そのとき。
ポケットの中で、携帯が震えた。
ディスプレイに表示された名前――綾小路 清隆。
「……綾小路」
『……今、審議が終わった。生徒会室前で待ってる』
事件は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが始まりだ。
静かに深呼吸をひとつ。
俺は足を踏み出した。
そろそろ、『原作とのズレ』みたいなのをまとめたほうがいいですかね?
次回以降のあとがきでかのうならまとめてみようかな……。