朝のざわめきが、いつもより遠く感じる。
教室のざわつきの中で、俺は、何も書かれていないノートを見つめていた。
目の前の白紙は、まるで——答えのない問いのようだ。
——いや、問いはある。
ただ、まだ『確証』という名の裏づけがないだけだ。
昨夜、佐倉宛に届いた封筒。
中身は、写真の束と、異様な数の手紙だった。
日常を切り取った無数の写真。
教室の窓越し、コンビニの前、部屋のカーテンの隙間から覗いたようなものまであった。
言葉の端々から伝わるのは、「誰かに見せる」ためではなく、
——ただ、自分の感情を吐き出すために書かれたという事実。
呼びかけに使われていたのは、彼女の本名ではなく——『雫』という名前だった。
「どうして無視するの」
「返信をくれないのは俺を試してるんだよね」
——―無自覚に『自分の欲望』と『佐倉(雫?)の意志』を混ぜ合わせ、都合がいいように書き換えているような。
あのとき、佐倉はすぐに走り去ってしまった。
けれど今、その内容を思い出すほどに、ある種の『計画性』を感じずにはいられない。
対象は『雫』。
最終目的は……おそらく、『一線を越え、独占すること』。
……思い返せ。手がかりはあったはずだ。
俺は記憶の中を遡る。
写真に合った位置、佐倉の視線の向き、周囲の背景や人間。
深く、深く。
記憶の底に沈んで、『鍵』を探す。
そして、見つけた。
一枚の写真と、先日の電気屋。
佐倉の背後、ピントの外にぼんやりと、俺が写っていた。
……つまり、この写真の撮影者は、俺たちの『至近』にいたということだ。
そして思い出す。あの店に、何やら『怪しい人間』が一人いた。
――名も知れない店員の一人。
最有力容疑者は、あの男。
だが、『悪意』を持つ人間は同時に『逃げ道』を作るのがうまい。
仮に問い詰めても、「偶然です」「気のせいでしょう」と逃げられたら、それで終わりだ。
さて、どう対処するか。
考えを巡らせていると、扉の開く音とともに教室の空気が微かに変わった。
……綾小路。
声に出したわけじゃない。ただ、自然とそちらに目が向いた。
彼はこちらに気づくと、ほとんど誰にも話しかけられることなく自席に腰を下ろす。
相変わらず、何もかも計算されたような動きだ。
今、彼に伝えるべきだろうか。
俺は迷わず席を立ち、彼の机に向かう。
ただ、口を開くのは教室の中ではまずい。
彼は一瞬だけ俺を見た後、小さく頷いた。
無言のまま、教室を出ていく。俺もそれに続いた。
「……何か進展が?」
人気のない廊下。綾小路が口を開く。
俺は、記憶の中から掘り出した写真のこと、電気屋での出来事、そして昨夜の便箋の内容を淡々と伝えた。
事実だけを、できる限り簡潔に。
「……佐倉にそんなことがあったのか」
「ただの偶然かもしれない。けど、あの場にいた他の客は、彼女に興味すら示していなかった。
それでも、あの男だけは——妙に、佐倉に視線を向けていた」
「……佐倉の護衛はそっちに任せる。今日一日、可能か?」
「問題ない。むしろ——放っておけば、また何か届く」
「だろうな。俺と堀北は校内のカメラを確認してみる。
それと、『作戦』も進めるつもりだ」
彼の中では、すでにいくつかの筋道が立っているのだろう。
思考と行動の早さが違う。そこが彼の強みだ。
「……それと、一之瀬に連絡しておく。校外の動きには、彼女の協力が必要になるだろうから」
一之瀬、昨日の女子のことだ。
「佐倉の身の安全が第一だが、もう一つ——“釣り針”としての役割もある。
犯人の警戒を下げるために、『同学年の女子』とセットのほうが油断しやすい。
だからこそ、失敗は許されない」
俺は、静かに頷いた。
彼女を守る。
同時に、『終わらせる』。
その両立のために、俺の動きが鍵になる。
教室に戻ると、佐倉がこちらに気づいた。
目が合うと、彼女はわずかに首を傾げた。
不安が、隠しきれずに表情に滲んでいる。
それを悟られないよう、俺は一歩、彼女の隣の席へと歩いた。
「佐倉」
何も言わない。
だが、一方的に話を続ける。
「……今日一日、一緒に行動してもいいか?」
そう伝えると、佐倉は一瞬驚いたあと、小さく頷いた。
その表情には、ほんのわずかに安堵の色が差していた。
けれど、俺は知っている。
これは、終わりじゃない。
むしろ——嵐の前の、静けさだ。
そういえば、ひとつだけ。
――『雫』って、なんだ?
「おーい、九条くーん!佐倉さーん!」
元気な声が昇降口に響いた。
声の主は、一之瀬。
「……一之瀬」
「……あっ、い、一之瀬……さん」
放課後。
昇降口を出た直後、俺は一之瀬と合流した。
須藤の方は、先ほど綾小路から『こっちは何とかなりそうだ』と一言メールをもらっている。
次は、こっちの番だ。
「それじゃ、いこっか。九条君、よろしくね?」
「よっよろしく……お願いします」
「ああ、任せてくれ」
やることは単純。
三人で行動しつつ、最終的に電気屋前でいったん別れる。
その際、例の店員に『見えるように』解散。
ここで俺はいったん離脱する。
一之瀬と佐倉はそのまましばらく行動し、『店員にわかるように』もう一度別れる。
表向きはウィンドウショッピング、という建前らしい。
一之瀬が提案してきた。
俺は周囲に紛れて例の店員の監視。
さりげなくやることだけは注意しないといけない。
佐倉は電気屋を退店後、自由行動。
一之瀬はこの時点から、少し離れて佐倉を見張ってもらう。
俺はそのまま、店員の監視を続ける。
店員が動く、あるいは見失った場合、即一之瀬に連絡。
一之瀬は佐倉を電話で誘導し、『人気のなく、監視カメラの視界に入る場所』に誘導する。
綾小路が合流するなら先に地点に向かってもらおう。
あとは、犯人が佐倉に何かをした瞬間を取り押さえるだけ。
ただ、追い詰められた犯人が何をするかは、わからない。
最悪、凶器を持っている可能性もある。
万が一の際、二人を守るのは、俺の一番の仕事だ。
――これだけは、絶対に失敗できない。
「九条君。これ、お願いね?」
「えっと、このアクセサリーなんですけど、どう……かな?」
とは言ったものの。
同年代の女子二人に男一人、何も起きないわけはなく。
俺は現在、絶賛荷物持ち(監視に支障が出ない範囲)を仰せつかっていた。
まあ、佐倉が少し気を許してくれて、口調が砕けてくれたのはよかった。
そして、今は一息ついてカフェに。
「こういう時は、男の子が奢るのがポイント高いんだよ?」
一之瀬がそんなことを言い出したせいで、代金は俺持ちになった。
……とうとうPPが一万台に突入してしまった。
池達ほどではないが、早く入金があってほしいものだ。
「そういえば、気になっていたんだけど――」
俺はカフェのテーブル越しに、ふと顔を上げる。
今まで気になっていたが、いい加減確認しないといけない。
「――『雫』ってなんだ?」
「……えっ?」
「えっ?」
二人同時に固まった。
まるで、信じられないものを見たような反応だった。
「し、知らない……の?ほんとに?」
「九条君、まさかと思うけど、雑誌とかあまり読まない?」
「……小学校の頃は漫画とか読んでたけど。
ここ三年くらいは……さっぱりだな。色々あって」
そう――“色々”あった。
どこか冗談めいた響きに聞こえるかもしれない。
けれど、それが全部、本当の話だった。
「……その、実は私……中学時代に、グラビアアイドルをしてて……」
佐倉が、少し俯いてそう言った。
「『雫』っていうのは、そのときの名前、芸名……みたいなもので」
「へぇ……そうだったんだ。少年誌は読まないけど、たまに雑誌で見かけたことあるよ?男子の間で、結構人気出てたみたい」
一之瀬が軽く補足する。
佐倉は頬を少し赤らめて、そっと目を伏せた。
グラビアアイドル。
「ほら、これだよ」と、一之瀬が見せてきた写真は、目の前の人物と同じとは思えないほどに、明るい笑顔で写っていた。
「な、なんか、変な感じだね……。
学校では秘密にしてるから、こうして話すの……ちょっと、変な気分」
「いや、驚いたけど……変じゃない。俺が知らなかっただけだ。
隠す理由は理解できるし、誰にも言うつもりはない」
正直、グラビアアイドルがどういうものか、詳しいことは知らない。
だが、彼女がそういうことをしていた』という事実そのものに、善悪の価値を感じる気はなかった。
「あ、ありがとう……」
佐倉が小さく笑った。
そのとき――
ポケットの携帯が震えた。
綾小路からのメッセージだった。
『作成成功。
Cクラスが訴えを取り下げた。
これから合流できるが、どうする?』
Cクラス……撤退か。
つまり、俺たちは、完全に自由に動けるということだ。
「――綾小路が動けるようになった。そろそろ時間だ」
「うん、こっちも準備オーケー」
「……はいっ」
俺たちはカフェを後にした。
街の喧騒のなか、決着のときが、静かに近づいていた。
一度事態が動くと決着はあっけないもので。
犯人は、あっさりと逮捕された。
「……お前の予感はよく当たるな」
「何があってもいいように選択肢を探し続けてるだけだ」
電気屋の前で『解散』を演出した数分後。
予想通り、店員は動いた。
すぐに一之瀬と綾小路に連絡を入れる。
一之瀬の誘導で、佐倉は予定どおり、監視カメラの視界に入る『人気のない路地』へ向かった。
そこには、すでに綾小路が隠れており。
その数十秒後には、俺も現場の様子を確認していた。
すべては、想定の中。
すべては、予定通り。
ただ、唯一違っていたのは――
佐倉愛理の目が、もう怯えていなかったということだった。
―その一方で、俺は加害者のことを考えずにいられない。
彼がやったことは間違いだ。それは事実。
罪は罪として罰がある。
だが、加害者が生まれる背景には、たいてい何かしらの「壊れてしまった現実」がある。
俺はそれを、無視できない。
例えば、ストーカーの始まりが「孤独の果ての承認欲求」であるなら。
誰にも見てもらえず、自分の行動へのリアクションを返してくれたただ一人の存在……『雫』に執着するようになったとしたら。
―少しでも早く、その孤独を誰かが見つけていれば。
そう思わずにはいられなかった。
暴力事件編、終了です。