夏、という言葉から人は何を連想するだろうか。
多くの場合、『暑さ』だと思う。
地球温暖化とか、ヒートアイランド現象とか呼ばれているけれど、結局のところ、それは自分たちが納得するための理由づけに過ぎないのかもしれない。
『温暖化だから仕方ない』というやつだ。
理由がわからないものは怖いから、人は名前をつけて定義しようとするのだ。
『どうしようもない結果に対する逃げの口実』に見えてしまうのは、俺が捻くれているのかもしれない。
一方で、特に学生には喜ばれるイベントが夏にはある。
夏休みだ。
一ヶ月近くも自由な時間を与えられた人間は、日頃の鬱憤を晴らすように、思う存分遊び尽くすのだろう。
例えば、旅行に行くとか。交際相手とデートするだとか。
友達と遊んで、笑って。
『明日はなにをしようかな?』なんて幸せなことを考えて、夜が明ける。
……家族で小さなイベント、なんてこともあるかな。
花火とか、キャンプとか。
――だが、一方で、そんな楽しみには『宿題』が一緒についてくる。
夏休みの前日に渡される、途方もない量のプリントの束。
場合によっては『絵日記』だとか『自由研究』なんて嫌な豪華特典までついてくる。
『読書感想文』は、まあ例外だ。
本の内容をざっと読み取って、感じたことを形だけ書けばいい。
特別な創作も要らないし、工夫次第では短時間で終わる。
今となって考えると、おそらくは『自立性を失わないための楔』という意味合いがあったのだろう。
だが、そんな高尚な話を、ランドセル背負った子供の時代から理解できるわけがない。
よっぽど成熟した考えを持っている、例えば前世の記憶があるような子供か、極端なほどの思想教育でもされない限りは無理だ。
結果として、『あと何日あるかな』と呟きながら、放置してしまう。
そして、多くの人間は8月31日前後に朝から机にかじりつくのである。
――まあ、自分はさっさと終わらせてしまうが。
夏休みの宿題というのは、ある意味では『夏休み限定のお友達』みたいなものだ。
突然押しつけられて、面倒だと思いつつ付き合って、終わればそれっきり。
人付き合いとしてならともかく、それが紙の束であるなら、そんな付き合いは早めに終わらせてしまった方がいい。
俺はそう考えている。
……それでも、最後まで放っておく人間の気持ちも、わからなくはない。
煩わしい相手ほど、後回しにしたくなるのは、人間の性だ。
『一生に一度の瞬間を楽しんでいる』という刹那主義的な楽しさはあるかもしれないが。
人の中には、とことん合理的で、『付き合いたくない関係』と割り切って片づけてしまうような人もいる。
――父さんは、そういう人だった。
『邪魔なものは早急に片づけて次の行動をする』なんて言ってた。
――姉さんは、毎日夜に机でにらめっこしてたっけ。
いつもみたいにヘアピンつけて、いつもみたいに笑ってた。
――母さんは……聞いたことがなかった。
机に向かう俺たちを見て、嬉しそうに笑ってた気がする。
……もっと知っておくべきだったな。
「なに黄昏れてんだよ、九条!」
「隙ありぃ、先手必勝!」
突然、冷たい水が顔にかかった。
気がつくと、池と山内が玩具の水鉄砲を構えて、にやにやと笑みを浮かべていた。
―夏休みに入って、数日ほどたった今日。
今、俺たちは学校にいない。
以前、中間の時に茶柱先生が言っていた『バカンス』に来ている。
―この、豪華な船に乗って。
客船〈スペランツァ〉号。
『Speranza』と書き、イタリア語で『希望』を意味するこの船は、何から何まで贅沢な船だ。
甲板からは潮風が心地よく吹き抜け、遠くには輝く青い海が広がっている。
レストランの料理は一流シェフが手掛けるものばかり。
やろうと思えばコース料理も注文できる。
そのジャンルも和、洋、中、フレンチ、イタリアン他、あらゆるメニューが勢ぞろい。
―須藤は、「全メニュー食いつくしてやるぜ!」と、乗船早々に池と山内を連行していった。
綾小路も一緒についていったから、問題はないだろう。
娯楽のためのアミューズメント施設は、プールにバーにゲーム施設。
高級スパにエステまでついている贅沢三昧。
大型のシアターでは、名のある劇団の役者たちによる演目が見られる。
古典劇から最新のミュージカルまで、スケジュールは毎日ぎっしり詰まっていた。
挙句の果てには、これが全部無料。
──誰のための贅沢なのか。
そんな疑問も浮かぶが、どうやらこの〈希望の船〉は、俺たちに「非日常」を与えるために存在しているらしい。
無論、表向きは『夏季課外学習の一環』という名目だが。
――ただの『移動手段』に、ここまで豪華にする必要があるのか?
「それにしても、退学にならなくてよかったよな、寛治!」
「ああ、ホント夢みたいな世界だぜ!」
二人は楽しそうで何よりだ。
そもそも、中間では赤点筆頭だったからな。
期末でも問題集ほかの支援で赤点回避は十分にできていた。
絶対安全の50点まではいかないが、40後半まで行けば単純に平均90点台でなければ赤点にはならない。
二人の評価をするなら、両方とも『きっかけがあれば躍進する』タイプだと思う。
池は、コミュニケーション能力の高いムードメーカー。
話を提案するのも、広げるのも無自覚だが上手い。
男女問わず、よく話をしている姿を見かけた。
一方で山内は、『盛り上げ役』といった印象が強い。
話へのリアクションが大げさだが、その分、内容の印象を良くしている。
交友関係は池ほど広くないが、たまに女子と話していたこともあった。
二人とも、この高校で一番『等身大の学生らしさ』を持っている気がする。
……ただ、なんとなくだが『劣等感からくる虚勢』みたいなものが二人から少し見えた。
この学校では、常に競争を強いられる。
『自分の生き方を考えるモラトリアム期間』ではなく、
『他者を蹴落としてでも、勝利を得るための戦場』だ。
だからこそ、ここでは「結果を出した人間」が評価される。
テストの上位者、部活のエース、クラスのリーダー。
そういった人間が注目され、評価を受けやすい。
まるで、花に集まる虫のように。
逆に、結果を出せない人間は、評価されにくい。
ここまで、目に見える結果として見えるものは、せいぜい『テストの成績』くらいだ。
赤点筆頭だった2人に、それで評価されるのは難しい。
勉強をしようと、それですぐ結果が出るわけでもない。
『真面目に勉強すれば結果が出る』なんてものは、彼らにとってはただの上から目線の説教になる。
だから『結果を出さなければ』と思いつつ、『すぐには無理だ』と感じる。そんなジレンマを振り払うために、彼らは明るく振る舞うのだろう。
―生き物は『花』を求めるって、父さんが言っていた。
それは、人間も同じだ、とも。
植物は受粉のために花を咲かせる。
花は虫や鳥を媒介に花粉を運び、受粉して実をつける。
つまりは『生きるための手段』だ。
一方で、人間が求める『花』は『華』。
自分を目立たせるための、『目に見えるアピールポイント』。
生まれや育ち、卒業した学校や職歴。
頭のよさや身体能力。
そして、『成果』。
そういった華やかさを、人は求める。
―昔は、花を咲かせるように言われていた。
―今では、ただの『飾り』にも見えている。
「でもさ、九条。俺たち、おまえにも結構感謝してるんだぜ?」
「あの問題集なかったら、もっとえらいことになってたかもだしな」
「……まあ、俺も二人が退学にならなくてよかったよ」
口にした言葉は、必要最小限のものだった。
けれど、伝えたいことは、それで十分だったと思う。
俺にとっての『花』は派手じゃなくていい。
幼い子供がなんとなく見かける程度で、十分だ。
―あの時、姉さんにも『華』があったら、何かが違っていたのだろうか。
いや、姉さんだけじゃない。
父さんにも、母さんにも、華はあった。
父さんの華は大きくて、鮮やかで、目立っていた。
母さんは逆に、大きくはないけど、静かにそっと咲いていた。
姉さんの華は,明るくて、やさしくて、笑顔を絶やさない。
自分にかかる不幸を、誰かに押し付けない『心の華』が咲いていた。
―その華が踏み潰されて枯れてしまうまで、誰も気づかなかったことが、今でも棘になっている。
「おーい、九条~! ぼーっとしてないで来いよ~!」
「こっちのバーでノンアルカクテル飲み放題だってさ! 女子もいっぱいいるぜ?」
意識が現実に引き戻される。
また水鉄砲で狙われそうだったので、俺は静かに身を翻して足を運んだ。
──まだ、バカンスは始まったばかりだ。
暑さ、つまり『熱』は生物を動かす原動力である一方、同時に壊す猛毒にもなり得る。
人間だろうと何だろうと『熱』を持つ肉体は生きている証だ。
そして、人間の『熱』とは精神的な原動力の象徴でもある。
例えば、須藤。
バスケへの『熱』は本人の行動に変換される。
その結果出てくるのが『必死の練習』、『たゆまぬ努力』といったものに変換される。
逆に、一方、感情の『熱』は時に暴力へと変わってしまうこともある
その結果が、先日の暴力事件だ。
こういったことからもわかるように、『熱』は良くも悪くも人間を動かす原動力になる。
それが、外的だろうと内的だろうと。
『暑さ』は外的な『熱』だ。
日光は、植物にとっては光合成の要。
人間もまた、ビタミンを合成するなど、何かしらの形で恩恵を受けているらしい。
だがその恩恵は、度を超えれば「熱中症」のように毒にもなる。
…『熱』とは、それほどに両義的なものだ。
では、その『熱』を手っ取り早く解決したいとするなら、どんな手段があるだろう。
現代なら「エアコンをつける」ほぼ一択だ。
現代を生きる人間として、文明の利器には感謝しかない。
では、エアコンが無かった時代ではどうか。
うちわや風鈴、濡れた手ぬぐいなんかを使っていたのだろう。
そして、それをさらに遡ると、一番原始的な涼の取り方は『水を使う』ことだ。
海水浴やらプールやらが「夏のイベント」という認識につながるのは、きっとこれが原因だ。
この船の屋上にはプール設備があり、一部生徒はそこで遊んでいる。
だから、この船上で水着姿の人間がいても、別におかしくはない。
ましてや、今いる場所は、水着や遊具のレンタルコーナー付近。
奥の更衣室に用がある人間は多いだろう。
「あれ、九条君?こんなところで何やってるのかな?」
唐突に届いた明るい声に、足を止めた。
振り返ると、そこに立っていたのは櫛田だった。
大胆な赤い水着に身を包み、可愛らしく首をかしげる。
髪がまだ少し濡れているところを見ると、今しがた遊び終わって解散したところだろうか。
その髪には、一輪の花飾りが飾ってあった。
「櫛田か。……別に。船の中を、少し見て回ってただけだ」
俺はなるべく自然な調子で答えた。
目の前の彼女が、なぜここにいるのかは考えなくてもわかる。
表向きは偶然通りかかっただけのように見せている。
だが彼女は、狙ってこの場に現れた。
……そう思うのは、俺の癖であり用心深さでもある。
それは、櫛田にとっての危険な『毒』だ。
『優等生』を演じる彼女にとって、俺みたいな人間は近くにいるだけで警戒しなければならない存在だ。
―目的はたぶん、監視と調査、か。
『自分を裏切らないか』を確認し、ついでにこっちの『弱み』でも見つけたいのだろう。
『取引』があるとはいえ、それは抑えられない。
これは、彼女の防衛本能みたいなものだから。
「そっちはプールか。さっき、見かけたよ」
「そうなんだ!せっかくなら一緒に遊びたかったなぁ」
周囲の眼がある状態では、櫛田は『優等生』でいる。
自分からこんなところでぼろを出すようなことはしない。
「どうかな?この水着。私はもっと控えめでもいいかなって思ったんだけど、みーちゃんがね」
「みーちゃん……ああ、王(ワン)か」
王 美雨(ワン・メイユイ)。
クラスメイトで、中国からの留学生。
もともと頭がいいのか、日本語英語に強い。
全体学力も高めで、中間・期末の勉強会では教える側に回っていた方が多かった。
……まあ、本人が口下手というか、佐倉ほどではないがあがり症というか。
俺や平田がアシストに回っていた。
……期末の勉強会で平田に向けていた視線は……まあ『そういうこと』なんだろう。
「ねぇ、九条君……バカンス、嘘じゃなかったんだね」
「そうだな。でも、移動手段が豪華すぎる」
頭の中で、学校に渡された予定表を思い出す。
この船で学校所有の島に行き、向こうのペンションで7日間過ごし、またこの船で帰る。
……たかが移動手段のくせに、過剰なほど豪華だ。
「もちろん、何があってもおかしくないと思う。
……でも、遊ぶことだって悪くないよね?」
「……そうかもな」
羽目を外さず、かといって気を張りすぎず。
大切なのは、『何時、何があってもいいようにする心構え』だ。
「そういえば、その花飾り、どこで手に入れたんだ?」
「あ、気づいた?さすが九条君だね。
……本当に、君のことが怖いよ」
櫛田の視線が、少し冷たくなった。
「これね、さっきレンタルコーナーの隅っこに合ったものなんだ。ハイビスカス、似合ってるでしょ?」
「ああ、櫛田らしいと思うよ」
「ありがとう。
でも、『桔梗』があったら、そっちでもよかったかもなぁ……。
……私の名前だし」
桔梗の花は、確か7月から9月に花盛りを迎える。
この場にあってもおかしくはない。
「私はね。ハイビスカスみたいな花が好き。
明るくて、目立って、みんなに見てもらえるもん。
……逆に、誰も見てくれない花は、私は嫌いだな」
―ああ、その花飾りは『そういうこと』か。
彼女の承認欲求。
それを満たすアクセサリーの一つ。
承認されたい。注目されたい。愛されたい。
それが彼女の『熱』の形だ。
だがその熱は、桔梗のような慎ましさでは満たされない。
より強く、より派手で、より他人の目を引く『赤』でなければ、彼女は不安なのだろう。
……誰かに見てもらえなければ、自分が存在する意味がなくなる。
そういう恐れを、彼女はずっと抱えている。
「私は、『ハイビスカス』になりたい。
『向日葵』みたいなのでもいい。
みんなが欲しがるような、そんな『花』になりたいし、そうでありたい。
誰にも見向きもされずに、ただ枯れていく花なんて、私は嫌。
ねえ、九条君……
君は、どんな花になりたい?」
問いかけは穏やかだったが、その奥にあるのは試すような鋭さだった。
俺の答え次第で、彼女はどんな仮面を選ぶのか。
それを見極めようとしているのかもしれない。
けれど――俺にとって「花になること」は、そんなに重要じゃない。
俺の答えは――
「……俺は、立派な花になる必要はないと思ってる。ただ、誰かの花が枯れたり摘まれたりしないように、
――そういう風に手入れする『庭師』でありたい、とは思ってるよ」
「……やっぱり、君は変わってるよ」
櫛田の眼に、少しだけ熱が戻った。
「でもまあ、それなら私が摘まれないようにしてね?
『庭師』さん」
軽くウィンクをすると、櫛田は水遊びの続きに戻るかのように、くるりと踵を返す。
その後ろ姿からは、ほんの少しだけ――心を許した気配が漂っていた。
九条への質疑応答とか考えましたけど、何かあったりしますか?