地中海東部、クレタ島沖――空は深く澄んだ青、海は煌く刃のように陽光を跳ね返していた。
風は追い風、イスラム帝国艦隊はまさに勝利を運ぶ風を背に受け、威風堂々たる姿で水平線を覆っていた。艦列の先頭には主力戦列艦《アス=サーキン》(雷鳴)が進み、両舷の砲門を開いていた。
「敵艦、正面に六十、右翼に三十。船型、全てがガレー船かと――」
副官の報告に艦橋の青年が頷いた。カリフ直属の将軍にして本艦隊の総指揮官・アリー・イブン=ザイードは双眼鏡を下ろし、海図を軽く撫でた。
「ローマは未だ、漕ぎ手と突撃で海を支配できると信じているか……。」
彼の傍らに立つ第一砲術将校・アミール=ムハンマドが低く笑った。
「奴らに“火”の威を知らしめましょう。こちら、キャラック十隻、ガレオン八、フリゲート二十、ガレーも十余。主砲門だけで百を超えます」
「信仰と知識がもたらす剣の力を見せてやれ。」
アリーは静かに頷いた。黒地に金の三日月と五芒星を染め抜いた帝国の海軍旗が、青空に大きく翻った。
その刹那――
「左舷、敵前列進出! 速度速し、接舷戦を狙ってきます!」
「前方の主力艦へ信号旗を――砲門開け。狙いは敵右翼先頭の五段櫂艦!」
爆ぜた音が空を裂いた。イスラム帝国艦隊の第一列が揃って一斉に主砲を開いた。艦名《アル=ハーリス》(守護者)より吐き出された黒煙と轟音が、海を震わせる。
ローマの五段櫂艦、その頑強な船体に、砲弾が着弾した。一本、二本、次々に砕けた帆柱。船首が火を吹き、漕ぎ手の叫びが風に散った。
「右舷、ガレオン《サラーム》、敵の漕ぎ手に榴散弾!」
「了解、照準合わせます!」
艦橋で指示が飛ぶ。指揮官と砲術士官、帆の張りを調整する航海士、全員が沈着冷静に連携し、海上の舞台を制御する。
対するローマ艦隊は、煙と炎の中をなおも突進していた。五段櫂の推進力で一気に距離を詰め、接舷・斬り込みを狙う。指揮艦《ドミナ・インペラトリクス》より、伝令の声が響いた。
「進路を変えよ! 中央を突破せよ! 敵に臆するな!」
だが、その叫びをあざ笑うかのように、イスラム艦隊の第三列が回頭を開始した。
「挟撃だな……流石です、提督」
アリーは口元に笑みを浮かべた。帝国海軍の艦隊戦術は、カリフ自身の知識――かつての世界の海軍史に基づいている。挟撃、輪形、縦列斉射、遠距離砲撃。ローマの艦列など、標的でしかなかった。
「第三列、敵右翼を包囲せよ! 《ファラク》と《マディーナ》を先行させ、敵艦に火矢隊を!」
空を裂いて燃える矢が飛び交い、敵艦の帆を焼く。漕ぎ手たちが次々と火に包まれ、海へと飛び込んでいった。
「被弾、軽微。右舷《ナジーム》、接近戦に入ります!」
「許可する。接舷、掃討部隊を放て。」
甲板が降り開き、装甲盾を携えた近衛隊が橋を渡って敵艦に乗り込む。叫び声、鉄の交差、血と火の香が海に満ちた。
そのとき――海上に閃光が走った。敵の司令艦と思しき五段櫂船に、直撃の砲弾が炸裂したのだ。
「命中……艦首が……!」
「総指揮官艦、撃沈確認!」
将官たちは拳を握り、沈黙する。アリーは静かに口を開いた。
「退路を絶て。生かしては返すな。」
もはや戦局は決していた。炎に包まれたローマ艦の影が、ひとつ、またひとつと沈んでいく。