アスミディアは低く構える。右手に携えた大剣の切っ先を、わずかに下げる。呼吸は深く、しかし極めて静かだった。胎に宿した命を守るように、左腕を無意識のうちに腹部へ添えかけて、すぐに剣の柄へと戻す。
「があああっ!」
ベルゼビアの声は、もはや人語というより獣の閧笑に近かった。四本の腕がそれぞれ異なる軌道で蠢き、背中の蝿の翅が不快な高音を立てて震える。青紫色の燐光が、彼女の筋肉質な肢体に浮かび上がる血管の如く脈打っていた。
「母さんが相手じゃなきゃ、とっくにアサラカムも腹ん中だってのに!」
叫ぶや否や、ベルゼビアは地を蹴った。踏み砕かれた岩盤が砕け散る。彼女の肉体が一直線にアスミディアへ迫る。四本の腕から放たれる爪撃は、それぞれが独立した生き物のようにアスミディアの頭部、頸部、腹部、下肢を狙い、加えて毒液を滴らせた尾のようなものが背後から回り込んでいた。
アスミディアは動じなかった。金色に変じた瞳が、ベルゼビアの妖気の奔流を読み取る。攻撃の意志が、筋肉の動きが、妖気の流れが、彼女には手に取るように見えていた。
最初の一撃。顔面を狙った右腕の爪が、髪の毛数本を切り裂いて空を裂く。アスミディアは首をわずかに傾けただけだった。二の太刀。頸部を狙った左腕の鉤爪が、白い首筋すれすれを通過する。三撃目。腹部を貫かんと伸びてきた第三の腕を、アスミディアは半身を捻って躱す。四撃目。下肢を薙ぎ払う第四の腕を、跳躍ではなく沈み込んでかわした。
「チッ、チョロチョロと……!」
ベルゼビアが苛立たしげに針を放つ。細い針がアスミディアの体を掠め、肩当てを削り取った。だが傷は浅い。その傷も、見る間に塞がっていく。
「あら、随分と焦っているのね」
アスミディアの声は、戦場にそぐわぬほど艶やかで落ち着いていた。金色の瞳が細められる。
「貴女らしくもない。私のお腹が気になるの?」
「うるさい!」
ベルゼビアは翅を全力で羽搏かせ、空中へと跳び上がった。四本の腕を交差させ、全身を回転させながらの突進。高速で回転しながらの体当たりは、周囲の木々を一瞬で粉砕した。
アスミディアは大剣を正面に構える。全身から妖気が滲み。彼女の周囲の空気が、わずかに甘く歪む。フェロモンだ。ベルゼビアの動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。
「くそっ……その、匂いが……!」
眉をしかめるベルゼビア。だが突進の勢いは殺せない。アスミディアはその突進を受け止めるのではなく、剣先をわずかにずらして逸らすようにいなすと、身を翻して横に抜けた。ベルゼビアの体が地面を削りながら着地する。
「今のは……」
アスミディアは自分のフェロモンが効きにくいことを悟っていた。覚醒者であるベルゼビアは、クレイモアとは比較にならないほど強靱な意思と妖力を持っている。それでもわずかでも反応が遅れれば十分だった。
再びベルゼビアが振り向きざまに腕を振るう。鋭い爪が弧を描いて迫る。アスミディアはそれを後方に跳んでかわすと、着地と同時に地面を蹴って前へ出た。防御型らしからぬ踏み込みの鋭さ。
「はっ!」
ベルゼビアは嘲るように鼻を鳴らし、四本の腕で防御と攻撃を同時に行う。二本でアスミディアの剣を受け止めようとし、残る二本で腹部を狙う。