まったく、どうしてこう、ろくでもないことばかり思い出すんだろうな。カウンセラーのセンセイとかいう、胡散臭い眼鏡の男は「トラウマと向き合うことが大切です、カイさん」なんて、分かりきったことをもっともらしく宣いやがる。向き合ってどうにかなるなら、とっくの昔に俺は聖人君子にでもなってるってんだ。冗談じゃない。あの夜のことを思い出すたびに、俺の腹の底では、今でも黒い炎がごうごうと燃え盛る。そう、あの忌々しいヘルガーの炎みたいにな。
俺の故郷は、まあ、どこにでもあるようなクソ田舎の村だった。名前なんて、もうとっくに忘れちまった。覚えておく価値もない。ただ、そこには、やたらとデカい満月がよく似合う、静かで、退屈で、でも、今思えば馬鹿みたいに平和な時間が流れていた。村の周りは鬱蒼とした森で、昼間でも薄暗い場所がそこかしこにあった。子供たちは、そういう場所を「ポケモンの巣」だなんて言って怖がっていたが、俺に言わせりゃ、本当に怖いのはポケモンなんかじゃなく、腹の中に何を考えてるか分からない大人たちのほうだった。
親父は無口な木こりで、オフクロは日がな一日畑仕事に精を出す、まあ、どこにでもいるような平凡な夫婦だった。俺に対して、特に何かを期待するでもなく、ただ、飯を食わせて、寝床を与えて、それだけ。でも、それが不満だったわけじゃない。むしろ、変に期待されたり、ああしろこうしろと指図されたりするより、よっぽどマシだった。俺は俺で、勝手に森に入って、一人で時間を潰すのが好きだった。大人たちのくだらない噂話や、子供たちの馬鹿騒ぎに付き合うより、よっぽど有意義だったからな。
あの夜も、そんな退屈な日常の一コマのはずだった。やけにデカくて、気味の悪いほど赤い満月が、空の真ん中にどっかりと居座っていた。まるで、これから起こる惨劇の舞台照明みたいに、村全体を不気味な光で照らし出していた。俺は、自分の部屋の窓から、その月をぼんやりと眺めていた。なんだか胸騒ぎがして、妙に落ち着かなかったのを覚えている。子供特有の、根拠のない不安感。だが、あの夜の不安だけは、本物だった。
最初の異変は、犬の遠吠えだった。いや、犬じゃない。もっと低く、腹の底に響くような、獣の咆哮。それが一つじゃなく、いくつも重なって、森の奥から聞こえてきた。村の家畜たちが、一斉に騒ぎ出した。鶏はけたたましく鳴き叫び、牛や羊は怯えたように囲いの中を右往左往していた。オフクロが「なんだい、騒々しいねえ」なんて言いながら窓の外を覗いたが、その顔はすぐに恐怖に引きつった。
「あなた!あれ…あれを見て!」
親父が、いつもは手放さない斧を掴んで、オフクロの隣に駆け寄った。俺も、何事かと窓に顔を押し付けた。そして、見た。
森の暗がりから、ぞろぞろと姿を現す、漆黒の獣の群れ。禍々しいまでに湾曲した角、鋭い牙を剥き出しにした口元、そして、爛々と赤く輝く瞳。ヘルガーだ。図鑑でしか見たことのない、地獄の番犬とまで呼ばれる、あの忌まわしいポケモン。それが、一匹や二匹じゃない。十数匹、いや、もっといたかもしれない。奴らは、まるで訓練された兵隊のように統率の取れた動きで、ゆっくりと、しかし確実に村へと近づいてきた。
「ヘルガーだ…!なぜこんなところに…!」
親父が呻くように言った。その声には、普段の彼からは想像もできないほどの恐怖が滲んでいた。村の男たちが、鍬や鎌を手に、家の外へ飛び出していくのが見えた。だが、そんなもので、あの地獄の獣たちに敵うはずがないことくらい、子供の俺にだって分かった。
ヘルガーの群れの一匹が、先頭に立っていた村の男――確か、隣の家のタナカとかいう、いつも酔っ払って大声で歌っている迷惑なオッサンだった――に向かって、大きく口を開けた。次の瞬間、その口から、業火が迸った。
「かえんほうしゃ」。
図鑑で読んだ知識が、頭の中で虚しく反響した。タナカのオッサンは、悲鳴を上げる間もなく炎に包まれ、あっという間に黒い炭塊になった。生きた人間が、一瞬でただの燃えカスに変わる光景。それが、俺の最初の地獄だった。
「逃げるぞ!カイ!」
親父が俺の腕を掴み、オフクロは俺の背中を押した。家を飛び出し、どこへ向かうという当てもなく、ただ、ヘルガーのいない方向へと走った。村は、既に阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。ヘルガーたちは、まるで狩りを楽しむかのように、逃げ惑う村人たちを追い詰め、次々とその牙と爪の餌食にしていった。
「ギャアアアアア!」
「助けて!誰か!」
「いやあああああ!」
悲鳴、絶叫、懇願。それらが、ヘルガーの低い咆哮と、家々が燃え盛る音に混じり合って、悪夢のような不協和音を奏でていた。俺は、走りながら、何度も振り返ってしまった。見たくないのに、見てしまう。それが人間の性(さが)というやつなのか。
若い女が、ヘルガーに足首を噛み砕かれ、引き倒された。その上に、別のヘルガーが覆いかぶさり、腹を食い破った。赤い血飛沫が、月明かりに照らされて、黒く見えた。老人が、杖を振り回して抵抗しようとしたが、ヘルガーの一薙ぎで首が飛び、コロコロと地面を転がった。その首を、別のヘルガーがサッカーボールみたいに弄んでいた。子供の泣き声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、肉が引き裂かれる生々しい音と共に、それは途絶えた。
クソッたれ。これが現実なのか?これが、俺たちの日常の、すぐ隣にあったものなのか?神も仏もあるもんか。もしいるなら、こんな地獄を黙って見過ごすはずがない。
俺たちは、村の広場まで逃げてきた。そこには、まだ十数人の村人が集まっていたが、皆、恐怖に顔を引きつらせ、ただ震えているだけだった。ヘルガーの群れは、じりじりと包囲網を狭めてくる。もう、どこにも逃げ場はなかった。
「カイ、こっちへ」
親父が、広場の隅にあった古井戸を指差した。それは、もう何年も使われていない、枯れ井戸だった。
「ここに入れ。いいか、絶対に声を出すな。何があっても、ここから出るんじゃないぞ」
「いやだ!父ちゃんも母ちゃんも一緒じゃなきゃ!」
俺は泣き叫んだ。当たり前だ。こんな状況で、一人で井戸の中に隠れろなんて、正気の沙汰じゃない。
「馬鹿を言うな!お前だけでも生き延びるんだ!」
親父が、俺の胸倉を掴んで怒鳴った。その目は血走り、しかし、そこには確かな愛情があった。オフクロは、ただ泣きながら俺の頭を撫でていた。
「カイ…いい子だから…言うことを聞いて…」
その時だった。ヘルガーの一匹が、親父の背後から飛びかかってきた。鋭い爪が、親父の肩を深く切り裂いた。
「ぐあああっ!」
親父が苦悶の声を上げ、地面に倒れ込んだ。オフクロが悲鳴を上げて親父に駆け寄ろうとしたが、別のヘルガーが、その細い喉に牙を突き立てた。ゴボリ、と嫌な音がして、オフクロの口から大量の血が溢れ出した。彼女は、俺の方を見て、何かを言おうとしたが、言葉になる前に、その瞳から光が消えた。
「母ちゃん…!」
俺は叫んだ。しかし、声は出なかった。あまりの恐怖と絶望に、喉が凍り付いたように動かなかった。
親父は、肩から血を流しながらも、最後の力を振り絞って立ち上がろうとしていた。そして、俺に向かって叫んだ。
「逃げろ…カイ…!生きろ…!」
それが、俺が聞いた親父の最後の言葉だった。数匹のヘルガーが、親父に一斉に襲いかかった。牙が肉を食い破り、爪が骨を砕く音が、やけにはっきりと聞こえた。親父の体は、あっという間に赤い肉塊へと変わっていった。ヘルガーたちは、まるでご馳走にありついたかのように、貪るように親父の体を喰らい始めた。
俺は、その光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。目の前で、両親が、獣に喰い殺される。そんな悪夢が、現実のものとして、俺の網膜に焼き付いた。
ふと、ヘルガーの一匹が、俺に気づいた。その赤い瞳が、俺を捉えた。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。死ぬ。俺も、あの獣たちに喰われるんだ。そう思った瞬間、俺の足は勝手に動き出していた。どこへ?分からない。ただ、あの赤い瞳から逃げたかった。
燃え盛る家々の間を、夢中で走った。熱風が肌を焼き、煙が目に染みる。どこかで、梁が焼け落ちる轟音が響いた。俺は、それに気づくのが遅れた。
頭上に、巨大な影が迫ってきた。見上げた瞬間、燃え盛る梁が、俺の真上に崩れ落ちてきた。
「う…あ…」
衝撃と痛みで、息が詰まった。全身が、焼け付くような熱さと、圧し潰されるような重みに包まれた。瓦礫の下敷きになったのだ。動けない。声も出ない。視界が、だんだんと霞んでいく。
(ああ…これで…終わりか…)
薄れゆく意識の中で、俺は思った。親父、母ちゃん、ごめん。俺、生き延びられそうにないや。
煙と熱気で、呼吸すらままならない。もう、何もかもどうでもよくなってきた。このまま、眠ってしまいたい。そう思った時だった。
瓦礫の隙間から、ふと、白い影が見えたような気がした。
それは、とても小さくて、儚げな影だった。白いドレスのようなものを着ていて、赤い、何か宝石のようなものが胸で輝いていた。その影は、俺に向かって、そっと手を伸ばしているように見えた。
(誰だ…?)
助けに来てくれたのか?それとも、死神のお迎えか?もう、判別する力も残っていなかった。ただ、その白い影が、この地獄の中ではあまりにも不釣り合いで、どこか幻想的な光景に見えたことだけを、ぼんやりと覚えている。
次に俺が意識を取り戻した時、空は白み始めていた。忌々しい満月はどこかへ消え失せ、代わりに、薄汚れた灰色の空が広がっていた。俺は、奇跡的に瓦礫の隙間で生き埋めになるのを免れていた。いや、あるいは、あの白い影が、何かをしてくれたのかもしれない。分からない。
身体中の骨が軋むように痛んだが、なんとか瓦礫を押し退けて這い出すことができた。そして、俺は見た。変わり果てた故郷の姿を。
そこには、もう、俺の知っている村はなかった。豊かな自然も、ささやかな家々も、笑い声も、全てが消え失せていた。ただ、黒く焼け焦げた大地と、燻る煙、そして、無数の黒い炭塊――かつて村人だったもの――が転がっているだけだった。ヘルガーの姿は、どこにも見当たらなかった。奴らは、全てを破壊し、喰い尽くし、そしてどこかへ去っていったのだ。
俺は、その焦土の真ん中に、ただ一人、立ち尽くしていた。
涙は出なかった。悲鳴も上げなかった。ただ、腹の底から、焼け付くような、どす黒い感情が込み上げてくるのを感じていた。それは、悲しみでも、絶望でもなかった。もっと原始的で、もっと暴力的な何か。
憎悪だ。
あの忌々しいヘルガーどもに対する、骨の髄まで染み渡るような、激しい憎悪。そして、こんな理不尽な暴力を許した、このクソったれな世界そのものに対する、底なしの憎悪。
この日、俺の世界から、色彩というものが完全に失われた。見えるもの全てが、モノクロームの、冷たくて、無価値なガラクタにしか見えなくなった。そして、俺の心には、決して消えることのない傷と、ポケモンという存在に対する、狂おしいまでの憎悪が、深く、深く刻み込まれた。
それが、俺の人生の始まりだった。いや、あるいは、終わりだったのかもしれない。どっちだって、もうどうでもいいことだ。
ただ一つだけ確かなことは、あのヘルガーの夜が、俺という人間を形作ったということ。そして、その呪いは、今もなお、俺の魂にまとわりついているということだ。まったく、冗談じゃないぜ。