◆ ◇ ◆ ◇ ◆
レコン・キスタ。
それは、いつまで経っても聖地奪還を目指すことなく、自国の繁栄にのみ目を向け始めた王族に愛想を尽かしたことを発端とする、『国境なき貴族連盟』。
王族が目指さないのであれば、我々こそが『聖地奪還』を果たす。そんな野心を抱く貴族たちによって構成された組織である。
彼らに国境という垣根は存在しない。
ガリア、トリステイン、ゲルマニア、ロマリア。
各国から財力と野心を持つ貴族たちが集まり、次第に組織としての体裁を整え、その基盤を築いていった。
そして当時、王党派と貴族派による内乱の真っただ中にあったアルビオン。
レコン・キスタはその貴族派と接触し、やがて聖地奪還という当初の目的から、アルビオン王権そのものを打倒しようとする方向へ、徐々にその活動をシフトさせていった。
ヒンメルが冒険していた時代、レコン・キスタはまさに最盛期にあった。
構成員は四万を超え、その中には、一国の古き王権を自分たちの手で打倒できるかもしれないという『祭り』にでも参加するかのような熱狂に浮かされた者すらいた。
そして――ヒンメルやオスマンが導かれるようにアルビオンへとやって来た頃には、王権はすでに倒壊寸前。
アルビオンは、内乱によって悲惨な状況へと追い込まれていた。
「んで、今やこの国の女王様たちは、盗賊に身をやつして生活していると」
一連の話を聞いていたオスマンは、目の前の、それなりに豪華そうな椅子に腰掛ける凛々しい女性――ウェールズの祖先でもあるヴィクトリア・テューダーを見つめていた。
「すげぇな。今のアルビオンって、そんなレベルにまで落ちぶれてんのか。仮にも『王権三本』の一角だってえのに……あいで!」
「余計なことは言わんでいい」
ゴーレムによって羽交い絞めにされている彼を殴ったのは、アルビオンでも屈指の名門、ドライグ家の嫡男ことオライオン・ドライグ。
トリステインのヴァリエール家、ゲルマニアのツェルプストー家とも比肩すると言われる名家の出である。
短い金髪に褐色の肌、筋骨隆々とした体躯を持つ男は、つい先ほど覗き見をかまし、そのまま逃走しようとしたオスマンを、不審者を見るような目で見下ろしていた。
「で、こんなおれ様に、あんたらは何をさせようってんだ?」
ドライグに殴られたことなどさほど気にすることもなく、オスマンは尋ねる。
この時点の彼は、王族の裸身を覗こうとした不届き者である。それを考えれば、相当なふてぶてしさであった。
「確かに、今の我らは劣勢です。こちらは三百。対する敵は、推定でも四万以上。盗賊に身をやつしてゲリラ戦を仕掛けていますが、正直、状況は芳しくありません」
ですが諦めるつもりも、また毛頭ありません。
ヴィクトリアは凛とした声で続ける。
「この劣勢を覆し、再びこの国を統治するためにも、今は実力のある者を、メイジ、平民を問わず募っているのです。その力、ぜひ我らにお貸しください」
そう言うと、ヴィクトリアは優雅に頭を下げた。
王族が、よりにもよって覗き見を働いた男に頭を下げる。相当な葛藤があって然るべきだろう。
それでも彼女は、そんな感情をおくびにも出さなかった。
「へ、陛下! おやめください! こやつは陛下の御身を、不埒にも覗き見していた犯罪者ですぞ!!」
ドライグは慌ててヴィクトリアを止めようとするも、それでも彼女は頭を上げなかった。
これには、さすがのオスマンも思うところがあったのか。
「あー……とりあえずだ。そんな畏まらんでくだせえ。おれは本当に、一介の木っ端貴族に過ぎませんから。王様のあんたが、そんな簡単に頭を下げちゃいけねーですよ」
多少なりとも礼節を弁えた言葉遣いで、そう促した。それを聞いて、ヴィクトリアはようやく頭を上げる。
その表情が僅かに安堵したように緩んだのを見て、オスマンにも分かった。
どうやら騙しや方便などではなく、本気で自分を仲間に引き入れるつもりらしい。
「ありがとうございます。苦難の道を歩ませることになるかもしれませんが、相応の礼はするつもりです。勿論、此度の件も不問にいたします」
「い、いいんですか!? こやつは陛下の……!」
「今はそんなことを言っている場合ではないでしょう? ドライグ。ロングビル、彼を離してあげてください」
「女王陛下のお声とあらば」
ロングビルは杖を振り、オスマンを捕らえていたゴーレムを自壊させる。
「おっと……ようやく自由になれたか」
ようやく拘束から解放されたオスマンは、凝り固まった腕をぐるぐると回しながら、さらに問いかけた。
「具体的には、何をさせるおつもりで?」
「あなたの魔法の腕前は、ロングビルより聞いています。ですが……いきなり危険なことをさせるつもりはありません」
ヴィクトリアはそう前置きしてから、話し始めた。
ここより三十リーグほど離れた先に、『レキシントン』という都市がある。
そこはまだ貴族派――いわゆるレコン・キスタの影響を受けておらず、街を治める貴族たちも、女王が信頼を置く者たちで構成されている。
だが、主要都市サウスゴータにも匹敵する大きな街である以上、いずれ貴族派に狙われるのは時間の問題だった。
「あなたにはこれから、ロングビルと共に『レキシントン』へ赴き、連絡役である彼女の補助をお願いしたいのです。それが終わった後は、現地の貴族の指示に従っていただければ結構です」
「なるほど。そうして、いずれ襲い来る貴族派の先兵どもとやり合えってことですかい?」
オスマンが鋭い質問を投げかける。
ヴィクトリアは答えなかった。ただ黙って、オスマンの目をじっと見つめている。
(まったく……「危険なことをさせるつもりはない」とか言いながら、結局は敵戦力への備えとして、おれをぶつけるつもりってわけか。年若くて綺麗だってのに、やっぱり王族なだけはあるねえ)
『ロングビルの補助』というのも、体のいい言葉だ。要は、オスマンが逃げ出さないか監視する意味も含まれているのだろう。
ロングビルは一度、自分を捕らえた実績もある。見張り役としてもうってつけ、というわけだ。
「ま、いいですよ。それで御身を覗いた件をチャラにしてくださるのであれば」
「……ありがとうございます」
とはいえ、オスマンは特に気分を害することもなく、二つ返事で請け負った。
というか、普通に考えれば、女王の裸身を覗くなど、磔刑にされても文句は言えない。それに比べれば、この程度で許してもらえるのだ。
むしろ随分と優しい対応といえるだろう。
「正直に申し上げますと、次の戦場は『レキシントン』になると見ています。ここを突破されれば、私たちにはもう後がありません。このアジトもいずれ突破されるでしょうし、そうなれば『ニューカッスル城』へ退き、そこで死ぬまで籠城するほかなくなるでしょう」
ニューカッスルは、岬の突端に位置する城である。
地理的にも戦略的にも、今すぐ攻め落とす旨味が薄いため放置されているだけで、ひとたびそこへ追い込まれれば、王党派は身動きが取れなくなってしまう。
つまりニューカッスルへの撤退は、王党派の命の灯が掻き消える寸前まで追い詰められることを、意味していた。
「私たちとしても、次の戦だけは、どうしても落とすわけにはいかないのです。どうか、そのお力をお貸しください。重ねて、お願い申し上げます」
ヴィクトリアは、再び深く頭を下げた。
(……本当に追い込まれてんだな)
オスマンはそう思う。
そんな中、ふと脳裏をよぎったのは、共に旅をする仲間の顔だった。
(ヒンメルだったら、この状況……どうするのかねぇ?)
まあ、少なくともここにあいつがいたなら、やっぱり協力していたんだろうな――とは思う。
それに、これほど大きな戦が起こるのであれば、あいつのことだ。
放っておいても、向こうから首を突っ込んでくる可能性が高い。
(だったら、下手に探し回るより……こっちで適当にやりくりしながら、あいつが来るのを待つのも悪くねえか)
そう考えれば、ヴィクトリアの申し出を受けるのも悪くない。オスマンはそんな結論に至るのだった。
(エルフっ娘を連れているアイツが、レコン・キスタの方へ行くわけもねーしな)
最終的に考えをまとめたオスマンは、ヴィクトリアに向かって片膝をつき、頭を下げた。
「分かりやした。その任務、お受けしましょう」
それを聞いたヴィクトリアは、「ありがとうございます」と、改めて礼を告げた。
「では早速。ロングビル、後はお願いします」
「はっ!」
ロングビルが胸に手を当て、頭を下げる。
ヴィクトリアはそのまま立ち上がると、先ほどまでの女王然とした態度から一変。
「おらぁ! 何してる、お前ら! ここがおれたち王党派の正念場だ! 気合い入れろよ、野郎ども!」
「おう!」
急に女盗賊さながらのがなり声を上げ、周囲の者たちを鼓舞し始めた。
女王然とした姿しか見ていなかったオスマンは、そんな彼女の豹変ぶりに呆気に取られる。
「結構、盗賊役とか楽しんでる感じ?」
「見れば分かるだろ? 役にハマるお方なのさ」
隣にいたロングビルはそう言うと、オスマンと共にアジトを後にした。
「しっかし、お若い方だったな。今のアルビオンのトップってのは」
そのままレキシントン街へと向かう道中。
馬を駆りながら、オスマンは先導するロングビルに話しかけた。
彼らが乗っているのは、赤い毛並みが特徴の『レッドラビット種』。
東方から流れ着き、そのままハルケギニアにも定着した馬らしいのだが――とにかく速い。
これなら、それほど時間をかけずに目的地へ到着できそうだ。
「あれでも、かなり苦労されているからね。レコン・キスタもそうだが、その前には先代の王がエルフとの間でね……」
「あの女王様のおとっつぁんか……。何かあったのか?」
聞いてもいい話なのだろうか?
一瞬そんな考えが脳裏をよぎったオスマンだったが、ロングビルは特に気にする様子もなく話を続けた。
「昔っからアルビオンは、エルフとの因縁が絶えない土地なのさ」
当時のアルビオンの回遊ルートは、現代とは大きく異なっていた。
高度三千メイル以上の空に浮かび、海上、大陸上を問わず悠々と移動する浮遊大国。
その回遊ルートには、エルフたちが住まう『砂漠』も含まれていたのだ。
そして、詳しい経緯までは分からないが、ある年を境に、砂漠に住むエルフたちがアルビオンへと渡ってくるようになった。
彼らの主張は『この土地もまた、元は我らの住みし土地である』というもの。
当然、先住のアルビオン人とは反りが合わず、やがて両者は絶えず争いを繰り返すようになったのだという。
「そういう事情があるから、アルビオンは特に、エルフとの確執が他国より深いのさ」
ロングビルが言うには、そんな長年にわたる確執の中で、現女王ヴィクトリアの父である先王も命を落としたのだという。
突然の訃報に王宮が混乱する中、他に王位を継げる者もおらず、王冠を戴くことになったのが、当時まだ十四歳になるかならないかという年齢だったヴィクトリアだ。
それが、今から三年前の出来事だという。
(ん? じゃあ、あのエルフっ娘も、元は砂漠からアルビオンに移り住んだ一派の子だったのか?)
とりあえず、なぜアルビオンにエルフがいるのかという疑問は解消された。
だが今度は、ではなぜその少女をレコン・キスタが狙っているのかという、新たな疑問がオスマンの中に湧いてくる。
「ヴィクトリア様が王位を継いでから、しばらくはエルフとの間に大きな抗争もなかったんだけどね……。その後、突如として台頭したレコン・キスタとの内乱に突入して、今じゃ御覧の有り様ってわけさ」
「まさに泣きっ面に蜂ってやつだな」
「言うな」
オスマンの軽口を、ロングビルがたしなめるように返す。
実を言えば、アルビオンでは過去に女性が王位へ就いた例が一度もない。
他国では前例があるものの、アルビオンでは未だ、男系による王位継承の伝統が根強く残っていた。
そのため、古い慣習に固執する一部の貴族たちは、女性であるヴィクトリアが王位に就くことに難色を示した。
その上、ヴィクトリアの父である先王は、エルフとの『融和策』を推し進める穏健派でもあった。
その最期も、エルフとの土地を巡る問題を交渉で解決できないかと、自ら話し合いの場へ赴いた末に起きた惨事だったという。
交渉の席で何が起きたのか、その詳細は今も分かっていない。
ただ一つ確かなのは――アルビオンの王と、アルビオンに住むエルフたちの長が、その場で共に命を落としたということ。
これ以前から、先王とエルフの『徹底排除』を掲げる過激派貴族たちとの間には、深い溝があった。
そして先王の死を契機に、そうした者たちは当時急速に勢力を拡大していたレコン・キスタと結託し、彼らをこの空の大陸へと招き入れ始めたのだ。
さらに、王の死によって広まり始めた『エルフ排除運動』も加わり――やがてそれは、ヴィクトリア率いる『王党派』を追い落とさんとする一大勢力へと膨れ上がっていったのだという。
「なるほどねぇ……随分と根が深いわけだ」
「こんな事情、他国に教えたことはないからな」
「だろうな」
オスマンは小さく呟いた。
そして、そんな内情を一介のメイジに過ぎない自分にまで明かしたということは、もはや機密だ何だと言っていられないほど、この国が追い詰められている。
その何よりの証なのだろう。
(ヒンメルの奴、大丈夫なのかね……)
まあ、この話を伝えたところで、ヒンメルがあのエルフっ子を手放すとはどうしても思えないのだが。
ま、おれたちなら大丈夫だろ。スクウェアクラスまで極めたオスマンだからこそ、そんな楽観的な気持ちも同時に抱いていた。
さて、そうして疾風のごとく駆け抜ける二人のメイジ。
道中、開けた草原には、藁や筵を被せられ、埋葬を待つ死体がずらりと並んでいた。
走っている自分たちでさえ視認できる量だ。流石のオスマンもすこし呆気に取られた。
「……あの死体の山は何だ?」
「……『千人斬り』の犠牲者さ」
「はぁ? 千人斬り?」
「そう言われるほどに戦場を暴れ回る『メイジ殺し』がいるんだよ。アンタも気を付けることさね。そいつに狙われた奴は貴族だろうが王族だろうが、生きて帰ってこないって噂だよ」
どんな噂だ。オスマンは一瞬、ただの誇張かハッタリだろうと思った。
だが、そう語るロングビルの目には、悲しみと怒りが入り混じった、複雑な感情が浮かんでいるように見えた。
本当に大丈夫かね、ヒンメルの奴。
オスマンも少し真剣な表情をして、赤い馬に鞭を入れてより速く駆けるよう命じた。
さて、そのヒンメルはというと。
「あぁ、いやいや、違うな。ここはこう、デルフを高々と持ち上げて……」
「あ、あの……」
「いや待てよ。デルフを地面に突き刺して、杖のように寄りかかる。アンニュイさと力強さを両立させたような、絶妙な傾き! これも悪くないが……いや、待てよ……」
「剣士さん……」
「いっそのことデルフをしまって、両手でポージングするか? いや、だがそれだとやはり手持ち無沙汰だな……。ここは初心に帰って、座り込んでからの髪をかき上げ……!」
「いい加減に決めてくださいませんかねえ!!」
「いや、すまない! もうちょっとだけ、もうちょっとだけ悩ませてくれないか!」
画家を相手に、かれこれ一時間半近くもポージングに悩んでいた。
ここはレキシントン街から程よく離れた『アンソン村』。
この浮遊大陸で最近頻発している『地震騒動』に巻き込まれ、この村も少なからぬ被害を受けていた。
家々は崩れ、道は塞がれ、村人たちだけでは復旧にも相当な時間がかかる。そんな折に、たまたま通りかかったのがヒンメルだった。
困っている人間を見かければ、放っておけないのが彼である。
村人たちに事情を聞くや否や、ヒンメルは復旧作業に加わった。
瓦礫を運び、倒壊した家屋を片付け、時には持ち前の怪力で大の男が何人も必要な作業まで一人でこなし、あっという間に村の復旧を手伝ってしまったのである。
村人たちはてきぱきと復旧作業を手伝ってくれたヒンメルに礼を言い、たまたま村に住んでいた画家に、彼の肖像画を描かせることにした。
流石に銅像を建てるだけの資金は村になかったため、その絵を報酬として贈ることにしたのである。
だが、ここでヒンメルの『ポージングを悩みに悩みまくる』悪癖が見事に炸裂。
絵といえど、一切の妥協をしたくないとばかりに。
ずっと『最上のポーズ』とは何なのかを悩み続けたがために、画家の堪忍袋もとうとう限界を迎え始めたようだ。
「……んで、結局俺の出番は無しってか、あの野郎」
数分後にはヒンメルもようやく落ち着いたのか、石段に腰掛け、片足をもう片方の膝に乗せるようにして脚を組み、白い歯を煌めかせながら微笑む――というスタイルに決まったらしい。
ようやく画家も絵を描き始めた。
さっきまで一緒に担がれたり、鈍い刀身を陽光に光らせたり、切っ先を地面に突き刺されたりしていたデルフは、結局出番がなくなったことにぼやいていた。
「うん、いい出来だ」
数十分後。仕上がった絵を見て、満足げな表情を浮かべるヒンメル。
「やっぱり僕はイケメンだなあ」などと、自己陶酔に溢れた感想を惜しげもなく口にしている。
「スケッチの時間より、ポージングに悩んでた時間の方が遥かに長かったな」
「でも、その甲斐はあったと思ってるよ、デルフ。あ、これ君の分ね」
村から程よく離れた廃墟の一角。
ヒンメルは村の人たちから貰った温かいパンを、連れ添っているエルフの少女に手渡す。
少女は、はむはむとパンを食べ始めた。
故郷を追われて以来となる柔らかなパンの感触を楽しみながら、少女は夢中になって頬張っていく。
その間、ヒンメルはずっと描いてもらった絵を眺めながら、優越感に浸っていた。絵を見る時すら格好をつけているその姿を見て、少女はクスリと笑った。
そうして、二人は再び村を出て歩き始めた。
やがて二つの月が空へと昇り、再び夜が訪れる。
「今日はここで寝るとしようか」
ヒンメルはそう言って、毛布をエルフの少女に手渡した。
エルフを見るだけで怯える人々が多いため、街で宿を取ることができない。アルビオンに来てからというもの、二人はもっぱら野宿を続けていた。
ヒンメル自身はまったく気にしていなかったが、少女はそのことに申し訳なさを感じていた。
「大丈夫だよ。旅をしていれば、野宿なんて当たり前のことだから」
言葉にせずとも、顔には出ていたらしい。先回りするように、ヒンメルはそう言って微笑んだ。
だが……逆に、少女は苦しそうに顔を曇らせる。
自分がいるせいで、彼まで辛い目に遭うのではないか――と。
「何か辛いことがあったら、助けになるよ。僕にとってエルフは、怯えるような敵じゃない。苦しい旅を共に乗り越えた、大切な『友』だったんだから」
焚き火に薪をくべながら、ヒンメルはそう続ける。
聞けば、彼はこのハルケギニアの人間ではないという。
彼のいた地では、エルフは人間と敵対することなく、当たり前のように共存していたということ。
そして彼自身も、エルフの女性と共に十年間も旅をしていたのだという。
だからこそ、自分を見てもまったく恐れることなく、こうして気を遣ってくれているのだろう。
けれど……それが逆に、少女には心苦しかったのかもしれない。
おもむろに少女は立ち上がり、水場のある川の方へと歩いていく。
ヒンメルは引き留めることもせず、その背中を見送ると、竹の水筒から水を一口飲んだ。
「信用はされてるけど、まだ歩み寄るのは怖いって感じかね。あの様子は」
木の幹に立てかけられていたデルフが、鞘の中からカチリと鍔を鳴らした。
「仕方がないさ。事情を無理に聞き出したところで、解決するような問題でもなさそうだしね」
だから、今は待ってあげる。
本当に耐えきれなくなって、誰かに助けを求めたくなった時。
その時、自分が傍にいてあげればいい。
「何があったのかは分からない。でも、喋れなくなるくらいに、あの子は追い詰められている。今は寄り添ってあげよう。それだけでも、少しは気が楽になってくれると信じて……ね」
「ま、そうするしかねえよな……。ところでオスマンは?」
「彼なら大丈夫さ。いずれ、どこかでひょっこり会える気がするんだ」
「それもそーだな」
少女はそのまま、黄昏れるように川辺で膝を抱えていた。
別に用を足しに来たとか、そういうわけではない。ただ、一人になりたかったのかもしれない。
彼と一緒にいると、縋りたくなってしまうから……。
「とうとう一人になったな、シャジャル」
その声を聞いた瞬間、少女は身を震わせた。
すぐさま立ち上がり、声のした方を見る。
川の上流から、一人の子供の影が近づいてくる。少年もまた、両耳を長く伸ばしていた。
つまり――エルフだ。
「……!」
「喋れないのか……。まあ、
少年――密かにヒンメルたちを監視していたエルフ、ビダーシャルはそう言うと、さらにシャジャルへ詰め寄り、告げた。
「お前が『逃げた』所為で、この浮遊大陸は滅びようとしているのだぞ」
お前も知らんわけではあるまい。
ビダーシャルからその言葉を突きつけられ、少女――シャジャルは身体を震わせ始める。
そして……その手が、自らの指にはめられた『指輪』へと伸びた。
「そう、その指輪だ。そいつを渡せ」
シャジャルが指輪に触れた瞬間、ビダーシャルは手を差し出してそう告げる。
「素直に渡すのであれば、お前は『我が殺した』とエスマーイルには伝えておく。あいつはお前に対して、並々ならぬ憎悪を抱いているからな」
それを聞いたシャジャルは、悲しげに目を伏せた。
シャジャルの父は、アルビオンへと渡ったエルフ一派の長だった。そして彼もまた、人間との共存を望む『融和派』だった。
当時のアルビオン王もまた、エルフとの争いを望まない『穏健派』だったように。
浮遊大陸アルビオンに迫る崩壊を、共に食い止めるために。
「アルビオンを浮遊大陸たらしめる『風石』の力が、徐々に制御の力を見失い、暴走し、そして崩壊の兆しを見せ始めている。このままいけば、近いうちにアルビオンという土台そのものが空中分解する」
アルビオンを浮遊大陸たらしめている最大の要因。
それが、大陸の土台深くに眠る精霊石――『風石』である。
太古の昔に起こった『精霊石の大暴走』。その影響によって大地が空へと浮かび上がり、現在の『アルビオン』が生まれた。
「断続的な地震、突発的な暴風、濃霧の発生といった天変地異は、全てこの大陸が崩壊する序章に過ぎない」
だが、長い年月を経たことで、その『風石』にも異変が起こり始めていた。
かつて大地を空へと押し上げた膨大な力が、時を経るにつれ膨れ上がり、再び『暴走』の兆候を見せ始めているのだ。
その異変に気づいたシャジャルの父をはじめとする『穏健派』の一派は、機を見てアルビオンへと渡り、精霊石の核を『安定化』させようと考えていた。
そして、それを成し遂げるほどの力が――この『指輪』には凝縮されているのだという。
「お前の父は、崩壊の危機に瀕したアルビオンを救う。その見返りとして、この土地の帰属を巡る問題も、蛮人どもとの話し合いで解決しようとしていた。……そう言っていたな。『我々エルフは争いを好みません』などと、まるでスローガンのように口にしながら」
その結果が、あの大惨事。
蛮人の王も、シャジャルの父も。エスマーイルの父も死んで。
そして残されたエルフたちは、人間と争うばかりか、その恨みを目の前の少女にまで向け始めて。
「そもそも、この浮遊大陸へ渡ってきた我々でさえ、ろくに意思統一などできていなかった。エスマーイルの父など徹底した『蛮人差別主義者』でな。『融和など下らぬ。蛮人を滅ぼし、大陸を奪えばいい』と、大っぴらに口にしていたな」
まさしく寄せ集めの一団。
異なる思想、異なる目的を持つ者たちが、一つの大義の下に寄り集まった、欲望と策謀の坩堝。
そして、その歪みが一気に噴き出した結果、シャジャルは家族のすべてを失った。
後に残されたのは、背負うにはあまりにも重い、空虚な『使命』。
そして、アルビオンを救う鍵となる――『指輪』だけが残った。
「一度この大陸から逃げたお前にとって、その『使命』は重かろう? 後は我々『鉄血団結党』が引き継ぐ。お前はどこへなりとも失せるがいい」
言葉こそ乱暴だが、ビダーシャルはシャジャルを見逃してくれるらしい。
シャジャルは、自分の指に嵌まっている指輪を見つめた。
確かに、その使命が呪いのように今の自分を縛っていることは否定できない。
でも……。
『大丈夫さ、シャジャル。彼ら人間だって、この地に住まう以上、何かしらの異変は察しているはずだ。我々は分かり合えるはずなんだ』
『この地の王と接触し、この浮遊大陸を成す《大精霊石》を安定化させる。そうすれば、誰も不幸にはならん。これは、この指輪を大昔より受け継いできた我々が、成さねばならんことなのだ』
この指輪のルーツについて、シャジャルはよく分かっていない。
ただ、限りなく死に近い状態にある生命を蘇らせたり、並の水魔法による洗脳なら打ち破ったりできるほどの、強大な力を秘めている。
アルビオンの精霊石すら安定化させられるというのだから、ただの精霊の力だけでは到底成し得ない力だ。
使いようによっては、いくらでも悪用できる。
それほど危険な力を秘めていることは、シャジャル自身も分かっていた。
いや、でも……逃げたわたしに、もうこの力を使う資格はあるのだろうか?
この浮遊大陸を救う『使命』から、逃げたわたしに……。
シャジャルは一瞬、言われた通りに指輪を外し、ビダーシャルへ渡そうとした。
その時だ。
グゥオオオオォォォ! と。
咆哮を上げながら、上空より一頭の火竜が飛来してきたのである。
「……!」
「なっ!」
これにはシャジャルはおろか、ビダーシャルも面食らった。
火竜は我を忘れたかのように暴れ狂い、口から炎を吐き散らす。
まるで行き場のない苛立ちをぶつけるかのように、そのまま二人のエルフの子供へと殺到した。
だが、その炎を、剣の一振りですべて薙ぎ払う者がいた。
「大丈夫か!」
そう、ヒンメルである。
彼は大剣デルフリンガーを手に、迫りくる脅威へと剣を向ける。
「!」
その時、シャジャルは火竜の『ある部分』を見て、何かに気づいたように表情を変えた。
一方のヒンメルは、再びブレスを吐き散らす火竜をデルフで防ぎながら、どうやって空を飛ぶ相手を地上へ引きずり下ろそうかと思案していたが……。
「――っと!」
「なにしてんだ?」
なぜかシャジャルが、ヒンメルの腕に抱きついてきたのだ。
一瞬、何事かと戸惑うヒンメルだったが、必死になって自分を止めようとするシャジャルの表情を見て、「何かある」とすぐに察した。
「上か?」
シャジャルは小さく首を横に振る。
「翼?」
今度は頷いた。
「よし!」
ヒンメルは近くの木へと跳躍すると、枝を足場にして一気に駆け上がる。
そして高さを合わせるや、そのまま火竜の背中へと飛び移った。
そこまで来て、ヒンメルもようやく理解した。
火竜の翼膜に、数本の矢が深々と突き刺さっていたのだ。
「なるほどね。この矢が抜けねえから暴れてたってわけか」
デルフも得心したような声を上げる。
ヒンメルはすぐさまタイミングを見計らい、突き刺さっていた矢をすべて引き抜いた。
続いて、ヒンメルの背にしがみついていたシャジャルが手をかざし、『指輪』の力を使う。
指輪から放たれた癒しの力が傷口を包み込み、穴の開いていた火竜の翼膜を瞬く間に修復していく。
やがて痛みから解放された火竜は、一瞬、目をぱちくりとさせた。
そして炎を吐くのをやめると、ひときわ強く翼をはためかせる。
ヒンメルはシャジャルを抱えて竜の背から素早く飛び降り、近くの大木の枝へと着地した。
二人が見つめる先で、火竜は悠々と空の彼方へ飛び去っていく。
「ありがとう。君のおかげで、あのドラゴンを退治せずに済んだ。彼は苦しんでいただけだったんだね」
ヒンメルはにこやかにそう言うと、シャジャルの頭を優しく撫でた。
シャジャルは少しくすぐったそうに目を細めながら、その手から伝わるぬくもりを感じていた。
「……いったいなんなんだ、あの蛮人は……」
遠目からその様子を見ていたビダーシャルは、突如現れたヒンメルの実力に、ただただ狼狽していた。
トロール鬼の群れを退治したその実力は見ていた。
だが、まさかドラゴンを相手にしても一歩も引かぬどころか、あまつさえシャジャルと共に退けてしまうとは。
蛮人には『魔法を使える者』と『使えぬ者』がいて、魔法を使えぬ者は、使える者たちからも蔑まれるほど弱い立場にあると聞いていたが……。
魔法も使わず、ただの剣技と跳躍だけで竜を追い払える者など、聞いたことがない。
「で、君はいったいなんなんだい?」
そんなことを考えているうちに、ヒンメルはビダーシャルのところまでやってきた。
「彼女の知り合いかい? できれば詳しい話を聞きたいんだけど……」
ビダーシャルは身構えた。
『蛮人』は誰もが自分たちエルフを恐れるものだと聞いていたのに、彼にはまったくそのような様子が見られない。
むしろ、こちらを心配しているかのような声色だった。
「……今日はこれで失礼する。シャジャル、よく考えておけ。その指輪を持つ意味について」
ビダーシャルはそう言い残すと、闇夜に紛れて姿を消した。
ヒンメルが来た以上、これ以上ここにいれば話がややこしくなる。そう判断したのだ。
一方のヒンメルも、無理にビダーシャルを追いかけようとはしなかった。
「知り合いかい?」
ヒンメルは代わりに、シャジャルへそう尋ねた。
シャジャルは「う~ん」と、なんとも言えないような表情を浮かべる。
「彼は君の指輪を求めているみたいだったけど……」
ヒンメルも、ビダーシャルが残した言葉から色々と推測していた。
指輪を持つ意味――。確かにこの指輪は、死人のように何度も復活する者たちをも鎮めるほどの力を持っている。
なんとも不思議なアクセサリーだ。
この指輪を巡って、何か揉め事でも起きているのだろうか?
疑問は尽きない。
だが、当のシャジャルが喋れず、また自分から事情を伝えるつもりもない以上、すべては憶測に過ぎない。
「分かった。最後に一つだけ、聞かせてくれ」
ヒンメルも、ここで無理にシャジャルを問いただそうとは思わなかった。
だから最後に、どうしても聞いておきたかったことだけを彼女に問う。
「君の名前は『シャジャル』でいいんだね? 僕もそう呼んでいいかい?」
その質問を聞いたシャジャルは、少しだけ微笑みを浮かべながら、小さく頷いた。
「大丈夫。伝えたくないのなら、無理に聞くつもりはない。……ただ、これだけは言わせてくれ」
焚き火をしていた場所へ戻りながら、ヒンメルはシャジャルにこう言った。
「何があろうと、僕は君の味方だよ」
それを聞いたシャジャルは、嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その表情にはどこか、拭いきれない後悔の色が滲んでいる。
それでも彼女は――ヒンメルに向かって、小さく頷いた。
「ビダーシャルが『例の蛮人』と接触したようです」
「それで、成果は? 指輪はどうなった?」
「失敗した模様」
「やはり奴は使えんな! 妹がどうなってもいいのか!?」
この一連のやり取りを、さらに遠くから見ていた一団が、喧々囂々と議論を始める。
「まあいい。奴らの足取りからして、次に向かうのは『レキシントン』だろう。あそこでは近々、蛮人同士による大規模な『戦』が始まろうとしている。狙う隙はいくらでもあろう」
「ビダーシャルはどうします?」
「放っておけ。そのまま指輪を持ってくれば良し。使えぬようなら、
そんな物騒な議論を交わしているのは、ビダーシャル除く、生き残ったエルフの子供たち――『鉄血団結党』の一団だった。
「『指輪』さえ手に入れば、後はこちらのものだ。蛮人どもの住む場所だけを地に堕とすことも、浮遊大陸の地図を書き換えることもできる。それほどの力が、あの指輪には凝縮されている。シャジャルなどにはもったいない代物だ」
その子供たちの頂点に立ち、ガキ大将のごとく君臨する『鉄血団結党』のリーダー、エスマーイルは、欲望と憎しみを滲ませながら凄絶な笑みを浮かべた。
「とにもかくにも、次の決着は蛮人どもの言う『戦場』でつける。準備は怠るな」
「はっ!」
翌朝、ヒンメルたちは予定通り、『レキシントン城塞都市』へと向かっていく。
その後をひっそりと追うビダーシャル。
そして、さらにその後方では――『鉄血団結党』のエルフたちが蠢いていた。
こうして、誰もが同じ場所を目指していく。
『レコン・キスタ』と『王党派』。
『エルフの穏健派』と『武闘派』。
人間とエルフ、それぞれの思惑を抱えた勢力が一堂に会し、激突する場所。
――『レキシントン城塞都市』へと。