さて、ヒンメルがレキシントン城にて戦闘を開始する前のこと……。
レキシントン城塞前に集結していた兵団は、破られた門から一気になだれ込んだ。
この街に住む人々を襲い、家々を略奪し尽くせと命じられた兵たちは、我が物顔で街中を闊歩していた。
「ここまで来ると、王党派が哀れに思えちまうなあ」
兵の一人が、片隅で酒をラッパ飲みしながら、その光景を眺めていた。
まるで、蟻の大群を吸い込む蟻地獄の入り口を見ているようだった。
「ちげーねえ。このまま本当に、アルビオンの歴史に終止符を打っちまいかねない勢いだな」
「六千年、無駄に年ばっかり重ねた老木だったってこったな。メイジとやらも、てぇしたことねえもんだ」
隣にいる兵たちも、同じようにやいのやいのと騒ぎ立てる。
彼らは、どこにでもいる雇われ傭兵の一団だった。
元は盗賊だったが、金がもらえるという理由で革命派に鞍替えし、順調に懐を温めている。
金銭的には余裕があるため、彼らは安全策を取っていた。
我先にと街を荒らす危険な仕事は命知らずどもに任せ、自分たちはハイエナのごとく、『占領された街の残り物』を漁ろうと画策していたのだ。
そして、周囲の誰もそれを咎めようとはしない。
というより、似たような考えの連中はそこかしこにいるらしく、そいつらもまた、彼らほど大っぴらではないものの、人目につかない場所で息を潜めていた。
要するに、それほどまでに兵力が潤沢だということの表れだった。
「さぁて、次なる主、『レコン・キスタ』様は、俺たち傭兵にとってのお得意様になってくれるのかね?」
「君たちみたいな最下層の傭兵じゃ、使い捨てにされるのがオチだろうけどね」
不意に、そんな声が聞こえてきた。
傭兵たちが声のした方へ顔を向けると、そこには気取った様子の金髪の美男子が立っていた。
身につけた服のフリルが少々けばけばしいものの、それを差し引けば、なかなか整った顔立ちをしている。
青年はそのまま、戦場だというのに散歩でもするかのような足取りで、レキシントン市街へと続く、破られた城門に向かって歩いていく。
あの様子だと、奴もこの戦場を漁りに来た同類なのだろうか?
だとすれば、自分たちと同じ穴の狢ということになる。
そんな奴に舐めた態度を取られるのは、我慢ならなかった。
「おい、待ちやがれ、テメエ!」
せっかく気分よく酒をあおっていたところに、いきなり冷や水を浴びせられたのだ。
言いたいことだけ言って立ち去ろうとする金髪のナルシスト野郎に向かって、傭兵の一人が怒りで顔を赤らめ、銃を向けた。
そして、引き金を引く。
弾丸は、真っすぐに美男子の後頭部へと飛んでいった。
しかし、事前に青年は、振り向きざまに白銀の薔薇を模した杖を銃弾へ向け、『錬金』を詠唱した。
次の瞬間、銃弾が砕け散った。魔法によって、あっさりと迎撃されたのだ。
「ひ、ひいっ!?」
「こ、こいつ、メイジか!!」
傭兵たちは一転して、恐怖に顔を青ざめさせた。マントを身につけていなかったため、完全に油断していた。
こいつは、魔法を使えない自分たちが決して相手にしてはいけない存在だったのだ。
しかも、飛来する銃弾を見切り、魔法で相殺してみせるほどの腕前である。相当な手練れでなければ、そんな芸当はまず不可能だろう。
殺される……! そう覚悟し、身をすくませる傭兵たち。
だが、金髪の青年は優雅に、そしてどこかもったいぶった仕草で杖を収めると、何事もなかったかのように城門へと歩みを進めていった。
「きゃあああっ!」
「た、助けてぇっ!」
レキシントン市街の至る所で、悲鳴が上がっていた。
死人に加え、『レコン・キスタ』の軍勢までもが押し寄せている。
城門を破られた以上、いつまでも敵を食い止められるわけがない。状況を冷静に判断した騎士たちは、すでに『撤退』を叫び始めていた。
「一度退くぞ! 民たちを守らねば!」
「し、しかし! ここで撤退したら、我が軍は!」
そう、もはや王党派には後がない。
ここから退くとなれば、残された拠点は岬の突端にある城『ニューカッスル』しかない。
そこまで追い詰められれば、反撃する手段はほとんど失われる。
まさに、詰みに等しい状況だった。
「それでもだ! 民だけでも何とか逃がせ! ヴィクトリア陛下に連絡しろ! もうこの場所は……!」
必死に命令を飛ばす隊長格のメイジに、一体の死人が襲いかかった。
しかし、彼にはもはや魔法を唱えるだけの精神力が残っていなかった。
無念……もはや、ここまでか。隊長は悲壮な表情を浮かべ、迫り来る死人の杖先を見つめていた。
だが、その時だった。
突如として現れた女神の彫像が、彼を救ったのだ。
死を覚悟した隊長の前に立ちはだかったのは、槍や剣で武装した、甲冑姿の女戦士だった。
「なっ、これは……! 『クリエイト・ゴーレム』か!」
「『
そう言いながら姿を現したのは、先ほど傭兵たちを一瞬で退けた金髪の青年だった。
「あ、あんたは……?」
「申し遅れた。ぼくはアルマン。あてもなく流離うメイジさ」
キラッ、と金髪をなびかせながら、アルマンは名乗った。
その気障な振る舞いに、隊長は少々呆気に取られた様子だった。
しかし、アルマンの背後では、白金に輝く女騎士たちが次々と敵兵を制圧していた。
「最初は『レコン・キスタ』で情報収集をしていたんだけど……やっぱり、彼らとは相容れないってことだけは分かったよ。だから、
アルビオンに行けば、ヒンメルと再会できるかもしれない。
そう考えていたアルマンは、まず革命派『レコン・キスタ』と接触した。
勢いのある組織だけに、人も情報も集まりやすいだろうと考えたからだ。確かに、さまざまな情報は手に入った。
しかし、その内容といえば、『レコン・キスタ』の首脳部が死人を蘇らせる秘術を使っているだとか、それによって敵の上層部を洗脳しているだとか、あまりにもくだらない話ばかりだった。
おまけに、肝心要のヒンメルに関する情報は、何一つ得られなかった。
それならばと、ちょうどレキシントンで大規模な戦闘が始まると聞きつけ、こうして足を運んだ次第である。
「さて、それでは糸につながれた哀れなるマリオネットたちよ。このぼくと、一緒に踊ってもらえるかい?」
アルマンは優雅に一礼すると、襲い来る敵兵たちを舞踏へと誘った。
さて、城下ではアルマンの登場によって戦況が持ち直し始めていたが……。
一方、レキシントン城では、熾烈な戦闘が繰り広げられていた。
ズガン、ドガン、ギィン、ガギィン。
激しい衝撃音が響くたびに、屋根の一部が鋭利な刃物で切り裂かれたかのように吹き飛んでいく。
破砕音が轟くたびに窓ガラスが砕け散り、壁には亀裂が走った。
中庭で、廊下で、城壁の上で、そして城内の至る所で。空前絶後の死闘が繰り広げられていた。
「んだよ、あいつら。城の解体タイムアタックでも始めてやがんのか?」
城内でもひときわ広い玉座の間にも、激しい戦闘の余波が及んでいた。
先ほどまでこの部屋にいたヒンメルと、得体の知れない東方の男は、とっくに姿を消している。
そして次の瞬間、側面の壁が外の景色を望めるほど大きく切り崩され、それを皮切りに、凄まじい衝撃音が城内の至る所で鳴り響き始めたのだ。
二人の姿は、もはやどこにも見えない。
つまり、あの剣士二人は、それほどの速度で動き回っているということになる。
(あんな目にも留まらねえ速さで動くヒンメルも大概だが……それについていけるあいつは、本当になんなんだ?)
ヒンメルの本気にも若干ドン引きだが、それに追随するあの黒髪の剣士も、なかなか……いや、かなりヤバい。
千人斬ったという話も、どうやら冗談ではなさそうだ。
「よそ見している余裕はないだろう! オスマン!」
その声とともに、雷撃が飛んでくる。オスマンが防御しようとした、その時だった。
目の前に巨岩の壁が出現し、雷撃を遮った。
「っと、すまねえ、ロングビル……」
「いいさ」
巨岩の壁が崩れ去ると、オスマンはロングビルとともにワルドの前に立った。
「なあ、あいつとは知り合いか?」
「……酒の席で一杯やった仲だ」
オスマンは苦い顔をしながら、ロングビルに答えた。彼の背後には、シャジャルが身を隠している。先ほどから、ずっと震えていた。
オスマンはそんな彼女を庇うように背後へ置き、杖を構えた。
「おめえが何を思って『レコン・キスタ』に加担しているのかは聞かねえよ。何か理由でもあんのだろう?」
トリステインの魔法衛士隊の隊員であるワルドが、なぜこんな狂乱の貴族派に身を置いているのか。
疑問は尽きないが、この状況で問いただす余裕など、オスマンにはなかった。
「だが、おれはヒンメルじゃねえ。向かってくるなら、手加減なんざしねえぞ」
「……それでいい。その方が色々と気が楽だ」
少し疲れたような表情を浮かべ、ワルドは杖を構えた。奴の系統は、すでに分かっている。
『風系統』。それも『雷魔法』に特化した戦い方だ。魔法の早撃ち勝負となれば、相手に分がある。
(おい、おれたちがあいつを引きつけている間に、お前だけでもとっとと逃げろ)
オスマンはシャジャルの頭を軽く押し、そう促した。
この状況では、彼女を戦いに巻き込んでしまう可能性が高い。
ヒンメルならば、守り切れたのだろうが……。
(あいつにも言ったが、おれはヒンメルじゃねえ。お前を庇いながら戦えるほど、器用じゃねえんだ)
オスマンの意図を察したシャジャルは、しばし逡巡した後、小さく頷いて踵を返した。
足早に立ち去ろうとするシャジャルに向けて、ワルドが動き出そうとする。
だが、その行く手をオスマンの魔法が阻んだ。
「おっと、行かせねえよ」
「……」
しかし、そうして牽制し合っている間にも、部屋の隅で気絶していたグールヴィルが意識を取り戻していた。
「くそ……あの平民め。この私を誰だと思って……!」
悪態をつきながら起き上がったグールヴィルの目に、ちょうど逃げようとするシャジャルの姿が映り込んだ。
「あいつ! そうだ、あの指輪! もしや奴が……!」
懸賞金をかけてまで捕らえようとしていたエルフ。
限りなく強大な『水の力』が込められた、あの魔道具。
それこそが、グールヴィル、ひいては『レコン・キスタ』が求めていたものだった。
「ええい! さっさと起きんか、このウスノロ!」
グールヴィルは、蘇らせたメンヌヴィル侯爵を蹴飛ばした。
「さっさと追え! 奴を捕らえるぞ!」
そう命じると、グールヴィルはメンヌヴィル侯爵を引き連れ、シャジャルを追ってその場を去っていった。
それを横目に見たオスマンは、舌打ちした。
「ちぃ、待ちやがれ……!」
「お前の相手は、俺なのではなかったか?」
その声とともに、肌を刺すような冷気を感じた。オスマンは身震いしながら、頭上を見上げる。
そこには、空中へ跳躍したワルドの姿があった。
杖には激しい雷撃がまとわりついている。そしてワルドは、その杖を横薙ぎに振り払った。
「……シャジャルの奴、とうとう一人になったぞ」
「エスマーイル総統の読みどおりの結果となりましたね!」
この光景を、城の隅から見つめている集団がいた。
エルフの子供たちである。
混乱に乗じて、こうしてレキシントン城の内部へと潜入できたのだ。あとはシャジャルをさらい、指輪を手に入れるだけだった。
「よし、サルカン。この中でも一番有能な貴様に命令する。部下をつけて、奴を捕らえてくるのだ」
死角から様子をうかがいながら、エスマーイルは尊大な態度でサルカンを指さした。
サルカンの父親は、エスマーイルの父からも厚い信頼を寄せられていた。
また、サルカン自身も剣の腕はなかなかのもので、並の傭兵程度なら、たとえ大人が相手でも負けないほどの鍛錬を積んでいる。
「承知いたしました」
サルカンも素直にエスマーイルの命に従った。
親の代から続く主従関係なのだろう。
「結局、ビダーシャルは役に立ちませんでしたね」
「あいつも別の場所に隠れているようだが……まあいい。奴への処罰など後回しだ」
サルカンは三名ほどのエルフを引き連れ、シャジャルを捕らえる隙をうかがった。
遠くから、蛮人のメイジが二人やってくる。どうやら連中もシャジャルを狙っているらしい。奴らがシャジャルに追いつく前に捕らえようと、サルカンたちが動き出す、
逃げていたシャジャルが、城内でもひときわ広い中庭へと飛び出した。
サルカンたちも、グールヴィルたちも、彼女を捕らえようと追いかける。
その時、上空から凄まじい衝撃音とともに、何かが降ってきた。
「うわっ!!」
「な、なんだ!?」
突然の出来事に、エルフも人間も関係なく、誰もが慌てふためいた。
巻き上がった土煙が晴れると、そこにはヒンメルと『ガンダールヴ』の姿があった。
二人は互いの剣を交差させ、激しい鍔迫り合いを繰り広げていた。
「驚いた……ここまでの強さだとは」
「俺も驚いているぞ。よもや、ただの剣士がここまでやるとはな」
軽口を交わす二人。
しかし、その周囲には重苦しい緊張感が漂っていた。
ピシリ、ピシリ。と、二人の足元で、地面に亀裂が走り始める。
それだけでも、互いがどれほどの膂力を込めて鍔迫り合いをしているのか、容易に想像できた。
「ゆえに惜しいな。お前ほどの者なら、もっと良い『剣』があっただろうに」
「……」
「勝敗の行方は、『武器の質』で決まりそうだ」
次の瞬間、『ガンダールヴ』は競り合っていた剣を逸らし、ヒンメルの体勢を崩そうとした。
だが、ヒンメルもそれを読んでいたかのように相手の剣を弾いていなし、素早く距離を取った。
刹那、二人の姿が消えた。
城壁に走る亀裂が、さらに増えていく。
地面にも、斬撃によって生じた亀裂が次々と刻まれていった。
中庭の端で、中央で、至る所で衝撃波が発生する。
周囲にいた者たちは、その衝撃に弾き飛ばされ、時には巻き起こる猛烈な風によって吹き飛ばされていった。
目まぐるしく斬り結んでいた二人は、やがて十メイル以上の間合いを取り、それぞれ城壁の上に立った。
そこから『ガンダールヴ』は剣を横薙ぎに、ヒンメルは大上段に構えたデルフリンガーを、一気に振り抜いた。
双方の剣から放たれた斬撃の衝撃波が、十字を描くように交差し、激突する。
瞬間、烈風がほとばしった。巨大としか形容できない衝撃波が、中庭にいた者たちを襲った。
「ひぅ、ひぃいいいいいいい!!」
「ば、ばばばばけものぉ!」
「こわいよぉ! かあちゃん! とうちゃあん!」
この光景を目の当たりにしたエルフの子供たちは、すっかり萎縮してしまった。
なぜなら、今まさに死闘を繰り広げている剣士二人のうち、片方はかつて自分たちの住処を襲った男だったからだ。
忘れもしない、あの黒髪の剣士。
左手の刻印を光らせ、悪魔じみた強さで大人のエルフたちを……!
だが、その恐怖を復讐心に変えて立ち向かうには、彼らはあまりにも幼すぎた。
むしろ、恐怖の方が勝っていた。
精霊と契約を結んだ大人のエルフでさえ太刀打ちできなかった悪魔。
そして、その悪魔と互角に渡り合う、もう一人の剣士。
どちらも、子供たちにとっては恐怖の対象でしかなかった。
「ひ、ひるむなぁ! ひるむでない! 我々は栄えある『鉄血団結党』――――!」
滝のような汗を流しながら、エスマーイルは仲間たちを鼓舞した。
しかし、誰一人としてその言葉に耳を貸していなかった。
皆、ただ慌てふためくばかり。サルカンでさえ、半狂乱になって右往左往している。
エスマーイルもまた、声をからして叫ぶことしかできなかった。
そして、そのことに気を取られすぎていた。いつの間にか、彼の目の前に城壁の一部が飛んできていたのだ。
戦闘の余波で切り崩された城壁の破片が、自分に向かって飛来していることに気づかなかったのである。
エスマーイルは目を見張った。もう、逃げることもままならない――――!
「――――っと!」
間一髪、エスマーイルを救ったのはヒンメルだった。
恐る恐る目を開けたエスマーイルの前には、片腕で瓦礫を受け止めるヒンメルの姿があった。
「大丈夫かい?」
「――――ッ!」
蛮人に助けられた。
これ以上ない屈辱だった。
だが同時に、「助かった」という、生き物であれば誰もが抱くであろう安堵感にも包まれていた。
一方、ヒンメルも無傷では済まなかった。
平然としているものの、頭からはわずかに血が流れていた。
「周囲にかまける余裕などあるのか?」
「だからといって見捨てるなんて、僕にはできない。ましてや子供だぞ」
ヒンメルは瓦礫を片腕で押しのけながら、憮然として言った。
ガンダールヴは城壁の上から、その様子を見下ろしているだけだった。
「けっ、あんなすました野郎が『使い手』なのかよ……マジねーわ」
「何か知っているのかい? デルフ」
「ああ。この世界を作った大魔法使い、ブリミルが使役した使い魔。あいつは『ガンダールヴ』だ」
始祖の長い詠唱を守ることに特化した『盾』。
一説によれば、大昔の初代ガンダールヴは、左手に『大剣』、右手に『未知の武器』を携え、その力は一騎当千を誇ったという。
「……じゃあ、彼にその力を与えた『主人』がいるってことになるけど」
「『我が主』の仔細については、絶対に語る気はないぞ」
ガンダールヴはそう言うと、再び剣の切っ先をヒンメルへと向けた。
「今のうちに全力で逃げろ」
「は、な、き、貴様……我に命令したのか?」
「いいから逃げろ!」
ヒンメルの怒声に、エスマーイルも思わず「は、はいぃい!」と情けない声を上げ、直立不動になった。
もはや蛮人がどうこうなどと言っていられる状況ではない。
エスマーイルも、他の子供たちも、慌ててその場から逃げ出した。
次の瞬間、ガンダールヴが殺意を込めて突進し、ヒンメルに襲いかかった。
再び激しい衝撃音と破砕音が鳴り響き、周囲は荒れ狂った。
逃げ惑うエルフの子供たちは、理解の及ばない戦闘を間近で目撃し、ただただ恐怖に震えるしかなかった。
「待て! 待ちなさぁああい!」
さて、レキシントン城の廊下では……。
あの中庭からいち早く脱出したシャジャルが、再び逃走を続けていた。
その背後から追いすがるのは、グールヴィルと、彼が操るメンヌヴィル侯爵だった。
シャジャルは息を切らしながら、懸命に足を動かす。だが、子供と大人では歩幅が違いすぎる。
あっという間に、少女は蘇った大男に追いつかれてしまった。
「ふぅ、手間を取らせる」
魔法を使えないとはいえ、死人ゆえに筋力の制限を受けないその身体は、少女の抵抗など容易にねじ伏せてしまう。
死人と化したメンヌヴィル侯爵は、シャジャルの首筋をつかみ、そのまま持ち上げた。
宙吊りにされたシャジャルは、苦しそうに呻き声を漏らした。
「ようやく見つけた。お前だろう? その『指輪』を持った、喋れないエルフというのは」
そこへ追いついたグールヴィルが、この上ない喜悦の笑みを浮かべた。
強力な水魔法が封じ込められた『指輪』を持つ、エルフの少女。
その指輪には、今まさに自分が扱っている『アンドバリの指輪』すら凌駕する力があるという。
さらには、この大陸を襲う震災さえも鎮める力を秘めているとか。
アルビオン大陸を襲う『震災』の原因についても、『レコン・キスタ』の中核を担うグールヴィルが知らぬはずはなかった。
大陸を浮遊させている精霊石の力が過剰暴走し始めていること。このまま対策を怠れば、膨大な力に呑まれ、アルビオン大陸が空中分解しかねないこと。
もっとも、グールヴィルにとって震災など、正直どうでもよかった。領地や人員など、失ったところで後から補充すればよい。
だが、あの『指輪』の力だけは、ぜひとも手に入れておきたかった。
だからこそ、少女に懸賞金までかけたのだ。
生命を自在に操る力を秘めた二つの指輪。
その力を研究すれば、いずれは『聖地奪還』どころか、人工生命体すらも自在に操れるようになるかもしれない。
「お前の両親が、さっさとその指輪を『ガンダールヴ』に渡しておけば、こんな目にも遭わなかったものを」
グールヴィルは吐き捨てるように言った。
両親の話を持ち出されたことで、シャジャルの表情には、さらに深い苦悶の色が浮かんだ。
シャジャルの父は、アルビオン大陸を救おうと『指輪』を携え、この地へやって来た。
その後を追うように、エスマーイルの父もやって来た。人間の居住区を守るためだけに、その指輪の力を使うのはもったいない。そう考えていたからだ。
相反する考えを持つ二人の父親は、この地の人間の王が用意した『交渉の席』で、そろって命を落とした。
あの黒髪の剣士。
交渉そのものを認めない強硬派の大人のエルフたち。そして、穏健派の王に仕える護衛たち。
その三者が入り乱れる騒乱。その当時、シャジャルは席には出席していなかった。
うまくいけばいいな……。そう子供心に願いながら、家で帰りを待っていた。
しかし、そこへ息せき切って戻ってきた母から、事の顛末を告げられた。
そして同時に、『指輪』を託されたのだ。
『いい、シャジャル。これからあなたには、辛い日々が待っているかもしれない。でも、決してくじけないで。誠意を伝えれば、それに応えてくれる人は、必ず見つかるから』
母は何度も、泣きながらシャジャルに謝った。
あなたを不幸にしてしまう私を許してほしい。
こんな結果になってしまって、本当に申し訳ない。そう繰り返しながら。
それでも母は、最後の希望を託すかのように、シャジャルへ『指輪』を渡し、大陸の秘密について語った。
できることなら、この願いを受け継いでほしい。
この地に住まう人々を、助けてあげてほしい。
そんな思いを込めて。
『愛してるわ、シャジャル! 行って!!』
母はそう叫ぶと、精霊の風を使い、シャジャルを外へと逃がした。
シャジャルは、ただ見ていることしかできなかった。
自分を逃がした母の背中に、誰かが迫る。あの黒髪の剣士が、母を背後から刺し貫く光景を。
そして、そのあまりの衝撃に、シャジャルは言葉を失った。
「このアルビオン大陸から逃げたと聞いた時は驚いたが、結局お前はこうして戻ってきた。そして今、こうしてお前と指輪を手に入れた。私ほどツイている者は、そうおらんだろうなぁ」
グールヴィルは、にちゃあ……と口の端を吊り上げ、隠しきれない喜びをあらわにした。
メンヌヴィル侯爵はそのまま、シャジャルを壁に叩きつけようとする。
気絶させ、そのまま連れ去ろうという魂胆なのだ。一方のシャジャルには、抵抗する手段など何もない。
このまま意識を失わされようとしていた、その時だった。
「――――がっ!?」
突如、天井の隅から飛び出した影が、メンヌヴィル侯爵の後頭部に蹴りを叩き込んだ。
不意の一撃に大きくよろめいたメンヌヴィル侯爵は、苦しむシャジャルを手放した。
「む、なんだ!」
グールヴィルは慌てて杖を構えた。
なんと、上方からエルフの子供が強襲してきたのだ。
「伏せろ!」
その少年エルフこそ、ビダーシャルだった。
彼の声を聞いたシャジャルは、言われたとおりに身を伏せる。
するとビダーシャルは、指の間に挟んだ小石ほどの大きさの『風石』に力を込めた。
精霊と契約を結んでいないとはいえ、魔石の力を引き出す程度なら、エルフにとって造作もないことだった。
ビダーシャルはそのまま、指先で弾いた風石を蹴り飛ばし、グールヴィルへと放った。
「ぐわあっ!?」
風石が直撃した瞬間、凄まじい暴風が吹き荒れ、グールヴィルは吹き飛ばされた。
「……!」
「これでもう分かっただろう。お前には、その『指輪』の責務は重すぎる」
ビダーシャルは真剣な眼差しで、シャジャルに改めて指輪を渡すよう求めた。
シャジャルは再び、戸惑いの色を浮かべた。この指輪を渡してしまったら、この大陸の人々は……。
「我にも、もう時間がない。妹のムニィラを助けるためにも、その指輪が必要なんだ」
ビダーシャルの言葉に、シャジャルははっとした。
彼――ビダーシャルの父親は、穏健派でも過激派でもない、中立派のエルフだった。
とはいえ、義理堅い性格で、シャジャルの家族とも親しく付き合っていた。
シャジャルも幼い頃から、妹のムニィラとはよく一緒に遊んでいたほどだ。
あの子に何が……? 声を出せないシャジャルは、そう問いかけるような眼差しを向けた。
ビダーシャルは嘆息すると、静かに口を開いた。
「あの日……惨劇が起きた、あの会談。我は家族とともに、その席に出ていた。妹もな。両親は中立の立場で、どちらにも与しなかったが、それゆえに会談の結果はきちんと見届けるべきだと、子供だった我らも連れていかれたのだ」
そして、会談の場で騒乱が起こった。
その混乱に、妹も巻き込まれてしまった。両親は自分たちを逃がそうと戦ってくれた。
しかし、大人のエルフが放った『精霊の火』に巻き込まれ、両親は全身にひどい火傷を負って死亡。
妹のムニィラはまだ、息があるものの、瀕死の重傷を負った一人だった。
「もう、ムニィラの命は五日もつかどうかというところまで来ているんだ」
「……!」
「大陸の『大精霊石』への対処も、我がやる、だからお前は早く、その指輪を渡せ」
ビダーシャルは、心底疲れ切ったような口調でそう告げた。
シャジャルは目を見開いた。彼がなぜ、ここまで執拗に『指輪』を求めていたのか。
それほどの理由があるのなら……。シャジャルが指輪を渡そうとした、その時だった。
「させるか!」
その時、吹き飛ばされていたグールヴィルが起き上がった。
そして、同じく倒れていたメンヌヴィル侯爵が身を起こしかけたところへ、一本のナイフを投げつけた。
「出番だ『地下水』!! その女エルフを捕らえ、男のエルフは殺せ!」
グールヴィルが腰に差していたナイフを、魔法で投擲したのだ。
ナイフはメンヌヴィル侯爵の背中に突き刺さった。
傍目には、グールヴィルが何をしようとしているのか、さっぱり分からなかっただろう。
「……まったく、人使い……いや、武器使いが荒いこって」
遺体を操るのは趣味じゃねえんですがねえ……。
そんな気怠そうな言葉を発したのは、なんと『ナイフ自身』だった。
「そんなことはどうでもいい! お前の暇を潰せそうな奴が登場したのだ! 出番をくれてやっただけでも、ありがたいと思え!」
「ま、そういうことでしたら……しかし、エルフですかい。懐かしいやら、何やら……」
メンヌヴィル侯爵はゆっくりと起き上がると、まず背中に突き刺さったナイフを引き抜き、手に収めた。
そして、ぐらりと首を傾けながら、エルフの子供二人を睨み据えた。
「てなわけで、ここからはわたくし『地下水』も参戦させてもらいます。恨まんでくださいよ。これも任務なのですからねえ」
「……インテリジェンス・ナイフか」
ビダーシャルは顔をしかめ、死人と化したメンヌヴィル侯爵が手にするナイフに意識を集中させた。
裏の世界で凄腕のメイジとして知られる『地下水』。その正体は、一本のインテリジェンス・ナイフだったのだ。
魔法によって知性を吹き込まれた武器や道具は、それほど珍しいものではない。エルフの魔法技術においても、基礎中の基礎だからだ。
ただし、人間一人を操れるほどの魔力を蓄え、その肉体を自在に操る魔道具となれば、そうそう存在しない。
かなり昔に作られたものなのではないだろうか……。
そう考えている間にも、メンヌヴィル侯爵はナイフを手に呪文を唱え始めた。
メンヌヴィル侯爵の系統は『火』だが、このナイフの得意系統は『水』らしい。肉体の組成を司り、それを操ることに長けているからだろう。
『地下水』はメンヌヴィル侯爵の『火』に、自身の本質である『水』を組み合わせ、無数の『熱の水弾』を生み出した。
そして、それらを一斉に撃ち放った。
「くっ!!」
ビダーシャルはシャジャルを庇うように前へ出ると、『風石』の魔力を発動させ、簡易的な風の盾を作り上げた。
だが、相手の魔法の方が強く、何発かの水弾が風の盾を貫いていく。
そのうちの一発が、ビダーシャルの身体を直撃した。
「がっ!!」
「――――!!」
熱湯の水弾を浴びたビダーシャルは、五メイルほど吹き飛ばされた。
シャジャルは無事だった。しかし、自分を庇ってくれた少年エルフの姿を見て、驚愕のあまり開いた口を手で覆った。
ビダーシャルの右肩は、真っ赤に腫れ上がっていた。
彼は襲い来る激痛に、歯を食いしばって必死に耐えている。
「ははは! まったく愚かなエルフだ! 親が親なら、子も子といったところか!!」
グールヴィルは大口を開けて笑いながら、悠々とこちらへ歩み寄ってきた。
シャジャルは涙をためた目で、グールヴィルを睨みつけた。
その視線を不快に思いながらも、上機嫌なグールヴィルは言葉を続けた。
「ふっ、その様子だと気づいているようだな。そのとおり。お前たちの『会談』をめちゃくちゃにぶち壊すよう、『ガンダールヴ』に命じたのは、ほかならぬこの私よ」
「……!!」
「エルフと人間の結束など、到底受け入れられぬ。まあ、念のためだ。そんな可能性など微塵も残さぬよう、徹底的に壊せと命じたのだが……まさか、子供がまだ生き残っていたとはな」
グールヴィルの言葉に、シャジャルは動揺と悔しさで身体を震わせた。
こいつが……。
両親を、エルフの集落を、人間との融和を目指した会談を……。
すべて、めちゃくちゃにした……!
「ふん、悔しいか? そうであろうな。だが、どうあがこうとも、もはや貴様に助けの手など差し伸べられぬぞ。恨むなら、その『指輪』を受け継いできた両親と……」
グールヴィルは掲げた手を振り下ろした。
それに応えるかのように、『地下水』もまた、沸騰した水の刃を上空に作り上げていく。
「その先祖を恨むがいい」
グールヴィルが笑みを浮かべると同時に、『地下水』は水の刃を、まずビダーシャルに向けて放とうとした。
その瞬間だった。突如、廊下の壁が粉砕された。
崩れ落ちる瓦礫とともに、二人の剣士が姿を現したのだ。
「なっ、ぐぉおおおおおおおっ!」
巻き込まれたグールヴィルは、これで二度目となる瓦礫の下敷きになった。
「大丈夫かい?」
「……!」
シャジャルが目を開ける。
そこには、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべ、優しくシャジャルの頭を撫でるヒンメルの姿があった。