雨天の中、三人の少女が空を駆る。
「わっ、わわぁっ……!」
「あんまり暴れないでよルイズ。その分遅くなっちゃう」
飛ぶなんてこと、初めての体験だったルイズは悲鳴を上げながら、時折手足をバタつかせていた。
今まで『
一方、フリーレンの目の前には、ローラから教えてもらった座標を仕込んだ魔法陣が小さく浮いている。それを時折見ながら、上空から地表の様子を見渡していた。
「どう? 見えた?」
後から追いかけてきたキュルケが、マントを顔に被った状態で二人に尋ねる。
丁度フリーレンは移動をやめて空中で静止したため、ようやく追いつくことができたのである。
「ちょ、あんた! それわたしのマント! なに勝手なことしてんのよ!!」
「しょうがないじゃない。自分のなんて使いたくないし」
「ふざけんじゃないわよあんた! 返せ! 返せっ!」
「お願いだから暴れないでよぉ、ルイズ……」
手足をバタつかせてキュルケに向かおうとするも、当然ながら上手くいかずもがくルイズ。
キュルケはそんな彼女にアカンベェをくりだす。そんな二人のやり取りに嘆息しながらも、周囲を見渡すフリーレン。
(案外、こっちがカンネとラヴィーネっぽいかなと思ったけど……、やっぱり、ちょっと違うみたいだね)
喧嘩しながらも息ピッタリだった二人の魔法使い少女を思い出したフリーレンだったが、あの二人とルイズとキュルケをぴったりと当てはめるには、なんか違うとも思い始める。
少なくともあの二人だったら、人命が関わっている状況で、互いに争い合うなんてことしないだろうし。
まあ、人間関係なんて人それぞれである。ルイズ達は家柄の因縁もあるのだろう。そこまで考えたフリーレンはここで、思考を探索へと切り替える。
(ローラの言っていた座標と、時間軸を照らし合わせると大体ここらへんだと思ったけど……)
場所はトリステイン魔法学院の外壁を越え、鬱蒼とした森の中、僅かながらに伸びる細道が見えるのみ。
ただ、この一帯の細道は地盤が緩いのか、土砂がひっくり返ったかのような跡が上空からでも判断できる。木に隠れて見えないが、傾斜が多いのだろう。
もしかしたら、土砂災害に巻き込まれたのかもしれない。だとするならば、細道の中で最も荒れた場所を探していけば……、そちらの方にいる可能性が高い。
「あ、あれかも」
フリーレンは目敏く見つけた。
視界の先、細道をかき消すかのような土砂の跡があった。
「行くよ、二人とも」
フリーレンはルイズを引っ張りながら、下降しつつ土砂の先を進む。
「ちょ、待って! あぁ――――!」
反対にルイズはというと、ただただ振り回されるかのような感触に慣れないまま、情けない悲鳴を出して追随する。
「見つけたのねフリーレン!」
キュルケも、真剣な表情を作って二人の後を追った。
「にしても便利ね。宙を浮きながら色んな魔法が使えるだなんて」
土砂の先を飛びながら探索していたフリーレンに向かって、キュルケは感心したかのような声で言った。
「キュルケの使っている『飛翔』魔法って、結構集中力を必要とする感じなの?」
「ええ。だから当たり前のように色んな魔法を使えるあなたが羨ましいわ。タバサもそう思うんじゃないかしら?」
風使いのタバサでさえ、速く飛ぶのに集中を要するし、別の魔法は使用できないと言っていた。
一方のフリーレンは、ルイズを掴みながらもこともなげに飛び、防御魔法を張った上で探知用の魔法を使ってのけている。
飛行を呼吸するかのように使えなければ、こんな芸当はまず不可能だ。今のフリーレンを見ると、ますますそう思ってしまう。
「ふふん、いつかはこの魔法も会得してやるんだから、キュルケもタバサも見てなさいよね!」
フリーレンに後ろ襟を掴まれたまま、ルイズはキュルケにビシッ! と人差し指を突きつける。
そんな二人をよそに、フリーレンは一言。
「見つけた」
そう告げる。
「森を抜けるよ。その先にいる」
フリーレンは飛行魔法の速度を上げる。ルイズは悲鳴を上げながらついていく。キュルケも急いで後を追った。
森を抜けた先、視界を遮らないほどの広場へと、場面は移り変わる。
地面は結構な深さの沼が展開されていた。自然が作り出した大沼のようだ。
その中心部に、大きな荷台らしきものの一部が、かろうじて顔を出していた。
「あれだね」
沼地に埋まっている荷車を見たフリーレンは、沼の端、しっかりとした地面の上にルイズを降ろすと、自分だけ宙に浮いて荷台の真上へ飛行した。
「もー無理、ギブ」
キュルケも限界が来たのか、飛行をやめてルイズの隣に降りる。
「これ以上飛んだら帰りは徒歩になっちゃうわ」とは、本人の弁だ。
「フリーレン! そっちはどうなの!?」
雨天の中、ルイズは大声で呼びかけた。雨のせいで桃色のブロンド髪がずぶ濡れになっていく。それに構わず叫んだ。
当のフリーレンはというと、荷車の周囲で、沼に埋まっている人々を見つけていた。
その中には料理服に身を包んだ、大柄の男もいた。彼がマルトーだと、フリーレンもあたりをつける。
「お、おめえさん……、エルフか? なんでこんなとこに……」
沼に埋まりかけている周囲はマルトー含め、宙に浮いているエルフを見て、動揺の声を上げた。
「ローラやシエスタに頼まれて、助けに来たんだよ」
フリーレンは淡々と答える。
「今引っ張り上げるから、ちょっと待ってて」
そして今度は、荷車と人々を見渡す。この前ザインを助ける時に使った〝底なし沼から引っこ抜く魔法〟がまた役に立ちそうだ。
でも、今回はちょっと数が多い。全部を引き上げるとなると、少し時間がかかるか。
「ああ、こんな状況で助けてくれるのがまさかのエルフたぁ……、貴族のお偉方が言うことはあてにならねえなぁ……。今度からお祈りするのはブリミルじゃなくエルフにしなくちゃいけねえなあ、いっつつ……」
マルトーは顔をしかめた。どうやら怪我をしているらしい。
「すみません、先にマルトーさんを助けてあげてください!」
「彼が一番、必死になって我々を助けようとしたんです!」
「そしたら、一緒に土砂に巻き込まれて……、あいつらのせいで……!」
周囲の人々も、余裕がない中マルトーのことを先に助けるよう言ってきた。
だが、その中の一人が言った言葉に、フリーレンは耳を傾ける。
「あいつら?」
「ああ、オーク鬼が……、ほら! あっちに!」
荷台の御者が、指さし叫ぶ。
なんと沼の端……、ちょうどルイズ達がいる森の向こうから、オーク鬼たちが鼻息を荒くして、現れたのである。
状況を見る限り、どうやらこの荷車を襲ったのはこの怪物の集団のようだ。
身の丈は二メイル程もある。人肉……、とりわけ子供の肉が大好物という困った嗜好を持つオーク鬼は、珍品珍味の食材に釣られてこの荷車を襲ったのである。護衛も少ないし、この大雨の中なら何とかなると踏んで襲ったのだろう。
まずオーク鬼たちは、助けに来たであろう、目の前の二人の少女……、ルイズとキュルケを見て、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ルイズ、キュルケ。危ないから逃げて!」
フリーレンはルイズ達に逃げるよう告げる。
しかし、二人の少女は逆に杖を突きつけ立ち向かう意思を見せる。
「逃げる!? 馬鹿言ってんじゃないわよ! わたしたちはお荷物になりにここへ来たんじゃないわ!」
「ヴァリエールが立ち向かうってのに、あたしが退くんじゃツェルプストーの名折れよね」
二人とも、貴族としての誇りを胸に『戦う』という選択肢をとった。幸い敵の数は三匹ほど。やってやれない数じゃないのは確かだ。
「食らいなさい!」
ルイズは『
「ルイズだけには負けられないわ……よっ!」
「ブフィィイイイ!!」
頭が燃えたオーク鬼は、必死になって泥と雨で火をかき消す。キュルケは「ほほほ!」と顎に手を当て、女王さながらに高笑いした。
「どう? 『フレイム・ボール』はこうやって撃つのよルイズ?」
「うっ……ぐぐ!」
キュルケの挑発に、ルイズは悔しそうな顔を浮かべた。これでは自分はツェルプストーの引き立て役じゃないか。せっかくフリーレンのおかげである程度汚名返上できたのに、また学院で馬鹿にされるかもしれない。
そうなると、ルイズは焦った。自分も何とか手柄を立てたい。少なくともキュルケに馬鹿にされないような手柄が……。
(見てなさいよ、わたしだって……!)
再びオーク鬼に杖を突きつけようとして、気づく。爆発で吹っ飛んだうちの一匹が、角笛みたいなものを鳴らすのを。
笛の音が周囲に響き渡った瞬間、今度は十匹以上のオーク鬼たちが姿を現した。
その中にはボス格ともいえるような、五メイル級の親玉もいた。大柄な盾を左手に、人の血で錆びたような、おんぼろながらも物々しい大剣を携えて。己が大将だと主張するかのように、大柄の兜まで身に着けている。
そのボス格のオーク鬼が剣を掲げて雄たけびを上げると、周囲の部下たちも倣って叫ぶ。急な出来事に、ルイズとキュルケは揃って唖然とした。
「もう、だから逃げてって言ったのに」
民間魔法に集中してたかったフリーレンは、この光景をちらと見て「はぁ……」と嘆息する。茂みの奥から数十は超える小さな魔力の揺らぎを、この距離からでも感じ取っていたのである。だから最初からルイズ達に逃げるよう叫んだのだ。
やっぱりカンネやラヴィーネとは違うな。あの二人だったらこんな状況でも、問題なく切り抜けるだろうけど、ルイズ達にはこの危地を切り抜けるだけのチームワークが無い。
魔法が拙くとも、連携が取れていれば任せても良いと思っていたけど、ちょっときついなこれは。
「ルイズ、キュルケ。いいから逃げて。囲まれる前に早く!」
フリーレンの指摘に、キュルケも内心同意する。
そもそも今は大雨なのである。自慢の火力を十全に発揮するには、彼女にとっても最悪の状況なのであった。
「確かにこれは、ちょっときついかもね……」
最後のあがきとばかりに、キュルケはもう一発『フレイム・ボール』を放つ。その火は親玉オーク鬼へと向かったが、敵の方はそれを盾で防いだ。
雨粒が火の威力を削いだこともそうだが、着弾した瞬間、盾が青く光った。そして次には、火の魔法はあっけなく霧散したのである。
(魔法を弾く
こりゃあ確かに分が悪い。
キュルケはすぐさま逃げを選択した。ルイズも一緒に逃げると思っていたが……。
「く、食らいなさい!」
ルイズは逃げず、なんと先ほどの自分と同じように、オーク鬼に向かって『爆発』魔法を放っていた。
「な、なにやってんのよルイズ! あんたも早く逃げなさい!」
キュルケも流石に冷や汗を流して叫ぶ。だが、意固地になったルイズは首を振った。
「いやよ! せめてちゃんと活躍しないと、ここへ来た意味がないじゃないの!!」
もう馬鹿にされるのは嫌だ。
そんな思いで杖を振ったが……、やはり魔法は、先の巨大盾によってあっさりと阻まれてしまう。
「――――あ」
呆気にとられるルイズの真横から、部下の一匹がこん棒をかかげて襲い来る。
「ルイズ! 右!」
「ひゃあっ!?」
キュルケの叫びで何とか反応できたルイズは、かろうじて撲殺という未来から逃れる。
しかし、思い切って体を捻ってしまったため、そのまま地面へ転んでしまった。
当然、オーク鬼たちはルイズを取り囲む。逃げ場すら失ってしまった。
「あ……、ぁ……」
ルイズは震えた。
杖もさっきの衝撃で、どこかへ飛んで行ってしまった。
杖が無いと魔法は使えない。メイジから、一気に無力な少女へとなり下がってしまう。
そのことに気付いたルイズは、オーク鬼という怪物の下卑た笑みを、ただ眺めることしかできなかった。
「ルイズ! ルイズゥ!!」
キュルケも叫んだ。仇敵ではあるが、流石に死んで欲しいとまでは、当然ながら思ってない。助けられるのであれば、助けたかった。
だがもう、間に合わない。自慢の炎を撃ったところで、結局防がれるだけなのだから。
だから、叫ぶしかできなかった。
「フゴ、プギィ!」
一方の親玉オーク鬼は、舌なめずりしてルイズを睨む。
いかにも美味しそうな人間の女。しかも普段威張り腐っているメイジの子供ときたものだ。
どんな風に食らってやろうか。そんな下卑た笑みを浮かべながら、幾人もの血を啜った大剣を、振り下ろそうとする。
「――――ッ!」
ルイズは涙を零しながら、目を瞑った。
死んだ。そう思っていたから。
あと数秒後には、あの巨大な剣が自分を真っ二つに変えるのだろう。その時だった。
「―――――〝
一瞬だった。
キュルケが何事かを咀嚼する前に。ルイズが目を見開く前に。
突如中空から放たれる、幾条もの閃光の束が、豚の怪物たちを一斉に襲った。
「プギャア!?」
「フゴッ……!?」
オーク鬼たちからすれば、たまったものじゃなかった。
怪物たちは何事かを理解する間もなく、その閃光をもろに食らっては、身体に風穴を開けられる。
一匹は腹に大きな穴をつけられ、一匹は顔を一瞬で消し飛ばされ、一匹は右半身を綺麗に消失させながら倒れる。
「プギャアビィ!?」
親玉のオーク鬼だけは、何とかこの攻撃から逃れようと、迫りくる閃光を盾で防ごうとした。
行商人を襲って奪った秘蔵の魔法盾。『トライアングル』クラスまでなら、問題なく弾く魔力の盾だ。これを得てからは、メイジ相手にも強気に出られるようになった。この攻撃も魔法ならなんの問題もない――――。
そこまでの思考に至った時にはもう、自分のどてっぱらに巨大な風穴が開いていた。他の部下たち同様に。関係ないと言わんばかりに。
最後に親玉オーク鬼が見た光景。
それは虎の子の魔法盾があっけなく粉々になる光景と、上空で展開される、蒼白く光る六枚花弁の魔法陣。
そして自分達を、まるで
「……えっ?」
ルイズは目を開けた。
その瞬間にはもう、生きているオーク鬼などこの場にはいなかった。
みな、身体を綺麗に貫通されており、なんなら今になって身体を地面に横たえる者もいた。それだけ刹那の出来事であったのだ。
「だ、大丈夫? ルイズ……」
「え、ええ……」
駆けつけてきたキュルケもまた、困惑の色を強く浮かべながら、ルイズに駆け寄る。
「こ、これ……もしかしてフリーレンが?」
「そ、そうね……。多分タバサが言ってた攻撃魔法……」
キュルケは大量の冷や汗を浮かべて言った。雨粒と自分の汗が混じって、変な気持ち悪さを覚える。
それに加えて、先の攻撃魔法の恐ろしさに思わず、鳥肌を立たせていた。
ふと、キュルケはタバサがこの魔法について、このように評価していたことを思い出す。
『〝攻撃〟という一点において、あれは完成されすぎているとさえ思っている』
その意味がようやく分かった。とキュルケは思った。
最初は『ちょっと大げさすぎない?』と内心思ったものだが。この光景を見せられては考えを改めざるを得ない。
あまりにも無法。攻撃という点なら火系統こそが最強。という考えすらもひっくり返される。
〝殺意〟を魔法で表現したらこうなるのではと思わされるほどの攻撃の極致。
(強すぎるなんてレベルじゃないわよこれ……!? こんな魔法が『一般攻撃』って、ホントどういうことよ!!)
キュルケでさえそう思わせるだけの力が、この魔法には込められていたのであった。
さて、二人のメイジの価値観を揺るがした当人、フリーレンはというと。
「ようやく、全部引っこ抜けそうだ」
ルイズとキュルケ、二人の間に着地しながら、そう言った。
彼女の視界の先では、沼に埋まりかけていた人々と荷車が宙を浮き、自分たちの側へと移動していく。
「あ、ありがとうフリーレン、おかげで助かったわ」
キュルケがまず先に、お礼を述べた。
「ね、ねえ。さっきの魔法がタバサも言ってた……」
「そう、〝一般攻撃魔法〟もとい〝
魔族がいない以上、違いを語ってもしょうがないとばかりに、そこは省くフリーレン。
そしてまず最初に、『死体が残ったオーク鬼』を見る。
自分の世界の魔物であれば、倒した瞬間魔力の残滓となって消えゆくのだが、この豚の怪物たちはそういうわけでもなく死体は残ったまま。つまり自分の知る魔族ではないのだろう。
そう思ったフリーレンは、次いで、
「それよりルイズ、なんで逃げなかったの?」
まだ蹲っているルイズを見据えて尋ねた。
「私言ったよね、危ないから逃げてって。キュルケの魔法が通らなかったのはルイズも見てたよね? なんでキュルケと一緒に逃げなかったの?」
表情一つ変えず、淡々と質問する。
怒りとか失望とか、そういう色を滲ませない。本当に疑問符を浮かべて尋ねてくるのだが、それが逆に怖さを助長する。
とてもさっきまで「タマネギ嫌い」と、しょぼしょぼ顔を晒していた人物と同一とは思えない、歴戦の冒険者たる貫禄を、今のフリーレンは漂わせていた。
母に詰問されるのと同じ迫力を感じたルイズは……、やがて震え声で返す。
「……ぞく、だから」
「なに?」
「貴族……だから、だから逃げたく……なかったの……」
「貴族は逃げちゃいけない決まりでもあるの? でもキュルケはちゃんと逃げたよ。私がいなかったらどうしてたの? ルイズは死んでたよ」
反論を丁寧に潰すフリーレンの問いに、ルイズはがばっと立ち上がる。
「ええそうよ! 死んでた! でもねフリーレン! それでもわたしは貴族なの! いい!? 魔法が使える者を貴族と呼ぶんじゃない、敵に後ろを見せない者を、貴族と呼ぶのよ!」
ルイズの言に、フリーレンは首を傾げ、キュルケはやれやれと首を振った。
内心、キュルケは(だからトリステインは戦下手なのよ……)とも、呟いていた。
「貴族は、どんな苦境であろうと敵に背中を見せちゃいけないの! 後ろにいる弱き民を守るために、敢然と立ち向かわなきゃいけないのよ! 逃げ出すなんて臆病者のすることだわ!」
ここは譲れないとばかりに、フリーレンに訴える。
「……逃げ出すことが、そんなに悪いことなの?」
「ええ、そうよ!」
「でも私達勇者一行は、よく逃げたよ。分が悪い状況や戦いなんて、それこそ数えきれないほどたくさんあった」
フリーレンの告白に、ルイズは一瞬、息が詰まった。
「アイゼンは自由落下程度では傷一つつかない、竜を殺す毒矢も効かないほど強靭な戦士だったけど、それでも強敵と戦う時はよく『怖い』って武者震いしていたよ。分が悪いと思った時、ハイターは泣きながらそんなアイゼンを抱えて逃げていたし、ヒンメルだって逃げる時は必死の形相で、私をよく担いでくれてた」
記憶を思い返しながら、淡々とフリーレンは語って聞かせる。
勇者の旅路は、来る敵来る敵全てを薙ぎ払い進んでいくような、覇道の路では決してなかったと。
むしろ悲鳴を上げながら、強大な竜や魔物の群れ、綿密に仕掛けられた罠から逃げることだって、少なくなかったのである。
「もし今のルイズのように、意固地になって逃げずに戦い続けていたら、魔王城につく前にどこかで野垂れ死んでいただろうね。もう一度聞くけどルイズ、そんなに逃げることは悪いことなの?」
「……うぅ」
とうとう、ルイズは何も言えなくなってしまった。
精一杯の反論すら、丁寧に踏みつぶすフリーレンの言葉。経験則から来る事実に対し、抗う術をルイズは持っていなかった。
拳を震わせ、立ちすくむ。しばし大雨の水滴音だけが、周囲に響き渡っていた。
「お嬢様がた! 揉めてるとこ悪いんですが! こっちをみてやってください!」
助けられた御者の声に、キュルケとフリーレン、遅れてルイズが反応する。
「どうしたの?」
「マルトー料理長が……! オーク鬼からあっしを庇って、腕に傷を負わされたんです!」
話を聞くと、オーク鬼に襲われていた時にマルトーが、フライパン片手で加勢しに来たという。
護衛の平民剣士たちと一緒になって、なんとか奮闘するもその時に腕に傷を負い、更にあの親玉オーク鬼が起こした罠、土砂崩れに巻き込まれてこの沼地にまで追いやられたという。
「よく生きてたわね、あんたたち」
思った以上に危機的状況だったと知って、感心するかのような声でキュルケは言った。
「皆を乗せて必死になって逃げましたから。……それよりも、旦那の傷をどうかみてやってください!」
周囲の頼みに、フリーレンは頷くことで応える。
マルトーが乗っているという荷車の中へ行こうとした時、ふとフリーレンはルイズに振り返ってこう言った。
「ルイズ、私が言ったこととあなたがさっき言ったこと、よく考えてからもう一度答えを聞かせて」
言われたルイズは一人、雨に打たれながら佇んでいた。
沼から脱した荷車の中へ入っていくと、横になって呻くマルトー親父の姿がまず先に目に入った。
マルトーの右腕に大きな裂傷ができていた。刃物で切られたかのような傷だ。
当然出血しているのだが、それ以上に傷口周りが紫色に変色している。医術に詳しくないキュルケ達から見ても、危ないと思わせる症状だった。
「刃物に毒か何か塗っていたのかな」
鞄から聖典を取り出し、フリーレンはマルトーの胸に手を当てる。しばらくして、彼女の掌が仄かに光り始めた。
「それで治るの?」隣で見ていたキュルケは尋ねる。
「いや、毒の種類を見ているだけ」フリーレンはあっさりと否定する。
「そもそも治癒魔法は
女神の魔法は基本、僧侶のような神学に身を預けた者にしか許されぬ力なのである。そして回復魔法の大半がその女神の領分となっている。
フリーレンにはハイターやザインのような才は無い。聖典は多少あれど、回復魔法はほとんど使えないのである。
だからフリーレンは、この学院で授業を受けられると聞いてから、真っ先に『治癒薬』に関する本を漁った。その甲斐あってか、そこいらの水系統メイジよりも、詳しい治癒知識を身に着けていた。
「良かった。毒の判別は何とかなった。けど……」
「けど?」
「あまり状況は良くないね。とにかく安静にできる場所を探さないと。近くに休めるところはある?」
「ここから数十メイルほど先に、学院の詰所があります!」
「じゃあ、そこへすぐ向かおう」
幸い、足となる馬は怪我していなかった。馬車はすぐ動かせる。
フリーレンは最後にまだ、外で佇んだままのルイズに呼びかけた。
「ルイズ、マルトーが危ない。詰所に向かうから早く乗って」
「えっ?」
「マルトーが毒を受けたらしい。早く解毒しないと手遅れになる」
「な、なによそれ! 早く言いなさいよ!」
ルイズは慌てて、馬車の荷台に乗った。