さて。
時間は再び、現在へ戻る。
ラ・ロシェール最高級の宿泊施設。
王族専用の迎賓館、『始祖の杖先』。その一室で、アンリエッタは黄金細工の椅子へ静かに腰掛けていた。
彼女は王族である。
だからこそ、このような状況であっても――いや、結婚という国家的慶事を目前に控えているからこそ、休む暇などなかった。
各国から集まった重鎮たちとの顔合わせ。
その対応は、夜が更けた今なお続いている。
「此度のご結婚、誠におめでとうございます。アンリエッタ姫殿下」
「まあ、ありがとうございます。ベアトリス姫殿下」
最後の来賓となったのは、クルデンホルフ大公国の姫君、ベアトリスであった。
名目上は独立国。
しかし、その軍事や外交の多くはトリステイン王国に依存している。
故に、普段は傍若無人な彼女といえど、アンリエッタに対して強く出ることはできない。
もっとも、アンリエッタも近くアルビオンへ降嫁する身。
これまでのように、トリステイン国内へ強い影響力を及ぼす立場ではなくなるだろう。
それでも、無下に扱える相手ではない。
互いに礼節を保ちながら、表向きは穏やかな挨拶を交わしていた。
「父アフォンソは激務のため、結婚式当日に到着する予定とのことです。僭越ながら、まずはわたくしが先んじて、此度のご婚儀をお祝い申し上げたく参りました」
「そんなに畏まらなくてもよろしいのですよ、ベアトリス殿下。あなたの御国は、れっきとした独立国なのですから」
では、とベアトリスは片膝をついていた姿勢から静かに立ち上がる。
「もっとも、『我が国』という言い方も、もう少ししたら変わるのかもしれませんね。わたくしも、間もなくアルビオンへ嫁ぐ身ですから」
アンリエッタは、くすりと微笑みながらそう告げた。
……その隣に控えていた、頬のこけた小男が、小さくため息を漏らしたが。
彼女の隣に控えているのは、トリステイン国の枢機卿マザリーニ。
気苦労と激務ですっかり頬がこけ落ちている。その皺の数だけ苦難があったかのような、そんな表情を浮かべる彼こそが、トリステイン国を影で支えている立役者でもあった。
ロマリアから迎えられた者であるが、トリステイン国に対しては純粋な愛国心を持つマザリーニも、この結婚に対して素直に喜べるかというとそうでもない。
なにせ、トリステイン国で王家の血を継ぐアンリエッタがアルビオンに嫁ぐということ。
それすなわちヘンリー王亡き後、空位となっている玉座からさらに王家の血が遠のくことを意味していた。
本音を言えば。
マザリーニはウェールズ皇太子を、ヘンリー王のようにトリステイン側へ婿入りさせたかった。
そうすれば、彼を次代の国王として迎えることもできたからだ。
だが、それをしてしまえば、今度はアルビオン側の王位継承が立ち行かなくなる。結果として、泣く泣くトリステイン側が折れる形となったのである。
もしモード大公が存命であるなら、または彼が子を残しているのであれば、その実現もあり得たのだろうが……。
故にこの件について、マザリーニはアルビオンやトリステイン、双方と幾度となく激論を交わした。
だが最終的には、この形へ落ち着くこととなる。
何より――アンリエッタ自身が、この婚姻を強く望んだのだから。
その強引とも言える押しの強さは、まさしく『英雄王』と謳われたフィリップ三世の血なのだろう。
マザリーニは、そんなことを静かに思うのだった。
(トリステインの女子は、気高いがゆえにこれだと決めた殿方には、何処へ向かおうとも愛を貫き通す……そう聞いておりましたが……)
そういう意味では
さて、アンリエッタがトリステインを去る以上、マザリーニが考えているのは空位となる玉座の事。果たして、誰を次代の王として据えるべきなのか。
「もしよろしければ、わたくしの父などはいかがでしょう?」
不意に、ベアトリスがそんな言葉を口にした。
マザリーニは意識を、今宵最後の来賓たる彼女へ向ける。
どうやら彼女たちもまた、空席となる王座について話をしていたらしい。
一応、ベアトリスも王家の血を引く姫君である以上、トリステイン王位継承の候補には入る。
そして当然、その父アフォンソにも資格はあった。
クルデンホルフ大公国は、その成立にゲルマニア勢力も深く関わっている。
ゆえにアフォンソもまた、相応の野心を抱いているのだろう。
どうやら、トリステインの玉座を虎視眈々と狙っている節があるようだった。
(……まあ、あの男を据えるくらいなら、私はヴァリエール公爵を推戴するがな)
「ですが、もしトリステインの王としてお迎えするのであれば、わたくしはヴァリエール公爵を推したいですわね。あの方でしたら、きっと国を支えてくださるでしょうし」
偶然か否か。
マザリーニが胸中で思い浮かべていたことを、アンリエッタもまた口にした。
ヴァリエール家とは、幼少の頃より深い付き合いがある。
ゆえに、公爵の人柄についてもよく理解しているのだ。
それを聞いたベアトリスは、一瞬だけ不機嫌そうに口元を引きつらせた。
またヴァリエール。
歴史、格式、実績。その全てが、自分たちクルデンホルフ家を遥かに上回っている。
この名を出されてしまえば、いかにベアトリスといえど、強く反論することは難しい。
だが、昼間の出来事を思い出した彼女は、ふと『意趣返し』を思いつく。
ベアトリスは口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「そういえば姫殿下、ご存じでしたか? そのヴァリエール家、異教徒たるエルフを匿っているという噂がございますの」
アンリエッタの整った眉が、わずかにぴくりと動く。
そしてマザリーニは、ベアトリスの言葉そのものではなく、その反応を見せたアンリエッタの方へ意識を向けていた。
「異教徒たるエルフを匿うなど、ブリミル教徒としては恥ずべき重罪。そんな下劣な噂が立つ者を王へ据えるなど、考え直された方がよろしいのではなくて?」
「――その発言。確かな証拠があってのことなのですか?」
「……え?」
ベアトリスは、思わず冷や汗を流した。
アンリエッタは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。だが、その声音には、確かに冷えたものが混じっていたのだ。
エルフを話題に出せば乗ってくるかと思ったのに、まるで『悪いのはこちらである』とでもいうような圧。
「確たる証拠もなく中傷を口にされるのであれば――それこそ、そちらの方が問題ではありませんか? ベアトリス姫殿下。もう一度お尋ねしますが、確かな証拠はおありなのですか?」
「え、いや……その……」
「……まさか、噂だけを鵜呑みにして、そのような発言をなさったわけではございませんよね?」
「で、ですが……」
声音はあくまで穏やか。それなのに、言葉の圧だけが静かに熱を帯びていく。
ベアトリスは、もはや完全に目を泳がせていた。
一応、王宮内では『ヴァリエール家の三女がエルフを使い魔にした』という話は、それなりに知られている。
学院生へ聞けば、「事実です」という答えも返ってくるだろう。
だが、この時点でのベアトリスはトリステイン魔法学院の関係者ではない。
彼女が掴んでいるのは、あくまで『ヴァリエール家がエルフを匿っているらしい』という、半ば尾ひれのついた噂程度に過ぎなかった。
何より想定外だったのは、アンリエッタ側から、まさかここまで強い反撃が返ってくることだった。
「今日はもう疲れてしまいましたわ、ベアトリス殿下。わたくしも明日に備えねばなりませんので。このお話は、また別の機会になさってくださいな」
もう下がれ。
口調こそ穏やかだったが、その態度は明確にそう告げていた。
ベアトリスの内心は、すでに冷え切っていた。
まさか、ここまで強く切り返されるとは思っていなかったのだろう。
顔は青ざめ、身体は小刻みに震えている。
それでもアンリエッタは、もはや彼女を見ようともしない。
「で、ででは……失礼いたしました……」
精一杯の威厳を保とうとしながらも。
ベアトリスは、生まれたての小鹿のようなおぼつかない足取りで、部屋を後にすることしかできなかった。
「はぁ……」
ベアトリスが去ったあと。
アンリエッタはここで、憂いを滲ませた表情と共に深いため息を漏らした。
「……やはり、そのご様子ですと。ヴァリエール家の三女がエルフを使い魔としている、という話は事実なのでしょうな」
マザリーニの鋭い言葉に、アンリエッタは思わず肩を跳ねさせる。
「ど、どうしてそのように思われるのですか?」
「何年、姫様のお背中を見てきたと思っておるのです。これくらい、すぐに分かりますぞ。昨夜の件につきましても、老体ながら大体は察しております」
アンリエッタはむぅ……と、少し拗ねたように足を組み替えた。
母マリアンヌが玉座へ就かなかった以上、実質的にトリステインを裏から支えてきたのは彼である。
外様の出でありながら、その手腕によって王国を支え続けてきた功績は計り知れない。
アンリエッタもまた、彼なくして今のトリステインは成り立たなかったと理解しているのだが……、小姑のように細かく口を挟んでくるのは本当に勘弁してほしい。そのような思いもまた両立して抱えているのだ。
なにせ結婚問題ひとつ取っても、ウェールズをトリステインへ婿入りさせるか否か。それが叶わぬなら、婚姻自体を延期すべきではないか。
そんな話で、彼とは何度も何度も衝突してきたのだから。
「古くからの友人を庇うことは、そんなに間違ったことでございましょうか? マザリーニ」
「間違いではございません」
マザリーニは即座に否定した。
「ですが、王位継承に極めて近い立場にある公爵が、異教徒たるエルフを庇っている。それが事実なのであれば、慎重に扱わねばならぬ問題であることくらい、お分かりでしょう」
そして彼は、静かに続ける。
「玉座とは、この国の人間すべての命運を左右するもの。たった一つの言葉、一つの命令で、多くの人生を変えてしまう。それほどまでに重いものなのです」
「……そうでしょうね」
アンリエッタは小さく息を吐いた。
「本当に。女王にならなくてよかったと思うわ」
こればかりはアンリエッタの本心も入っていた。
仮に女王になったら、悲哀に塗れたお涙頂戴劇を始めたりだとか、トチ狂って戦争を起こしたりだとか、ガリアへ単身突撃かましたりだとか、お友達の彼氏を寝取ったりだとか……。
なんかよく分からないけどそんな具体例が想像できてしまうほどの
そんな彼女の自虐混じりの言葉に、マザリーニはまたしても、深いため息を漏らす。
(ヴァリエール公爵家の令嬢が、エルフを使い魔にしている……か。それさえなければ、次代の王候補として公爵殿は申し分ないのだが……)
ロマリア――すなわち『宗教庁』の本拠より迎えられた身であるマザリーニだが、彼自身は別に、エルフという存在そのものへ強い嫌悪感を抱いているわけではない。
ベアトリスのように噂に踊らされることもなく。彼は独自に情報を集め、そのエルフを『脅威ではない』と判断していた。
むしろ、正しく扱えば極めて強力な協力者となる。それが、マザリーニの見立てである。
何せそのエルフは、トリステイン中の宝物庫を荒らし回り、さらには国家転覆寸前にまで発展しかけた大事件。『土くれのフーケ』討伐にも大きく関与したというのだから。
多くの貴族たちが「眉唾だ」と一笑に付す中。
マザリーニだけは、実際に被害へ巻き込まれた村人たちへ聞き取りを行い、きちんと事実関係を調べていた。
だからこそ、そのエルフについても、なるべくこちらへ悪感情を抱かせぬよう、水面下で色々と手を回していたのは、実のところマザリーニだったりする。
だが、それを差し引いても。
国家としてエルフを受け入れるには、今のトリステインはあまりにも保守的すぎた。
まともな王は不在。
貴族たちは好き勝手に振る舞い、国力は年々衰退していくばかり。
そもそも、外様である自分自身ですら、決して民衆人気が高いとは言えない。世間から自分が何と呼ばれているかくらい、この枢機卿もよく理解している。
そんな状況で、『エルフと懇意にしている者が、次代の王の最有力候補です』などと掲げたところで、頭の固い連中が認めるはずもなかった。
特に、法を司るリッシュモンなどは真っ向から反対するだろう。
あの男は、とりわけ頑迷な気質をしている。
では、他に誰が適任なのか。そう考えると結局、ベアトリスの父アフォンソなども候補へ浮上してくるわけである。
だからこそマザリーニは、ウェールズ皇太子をトリステインへ迎え入れ、次代の王として据えたかったのである。
(はてさて、トリステインはこれからどうなってゆくのか……)
いっそのこと、自分もオスマン殿に王になってもらうようかけあってやろうか。
姫君の婚礼へ付き添っている者とは思えぬほど疲れ切った顔で、マザリーニはそんなことまで考えていた。
一方で、アンリエッタは少し気まずそうな表情を浮かべる。
彼女とて、この国への想いが無いわけではない。
できることなら、トリステインには良き未来を迎えてほしいとも思っている。
アンリエッタは、膝の上へ置いた両手へ視線を落とした。その薬指には、淡く水色に輝く指輪が嵌められている。
トリステイン王家へ代々伝わる秘宝、『水のルビー』。
かつて紛失した『始祖の祈祷書』とは違い、こちらは紛れもない本物であった。
「ところで姫様、式で詠みあげる詔ですが……」
「あ、もう頼みました。昨夜、ルイズに」
これを聞いたマザリーニ、また悩みの種が増えたとばかりに皺を寄せる。
「またもう! ちょっと夜遊びを許すとすぐこれだ!! なんでそんな大事なことを事後報告で済ませるのですか!!」
「だって、どうしてもルイズに詔を作ってもらいたかったのですぅ……」
「『ですぅ』ではありませぬぞ! そんな目を向けても駄目です! もうこうなったら夜遊びは一切禁止にしますからね!」
『許してください』といううるうる目を向けても、長年の付き合いであるマザリーニには当然、通用せず。
マザリーニはもう、肩を怒らせ去っていく。彼の気苦労はまだまだ尽きそうにない。
アンリエッタもまた、自分が彼へ苦労をかけている自覚はあるのだろう。少し申し訳なさそうに、その背中を見送っていた。
それでも。やはり、自分はルイズへ頼みたかったのである。
幼い頃から共に遊び、共に笑ってきた、かけがえのない友人なのだから。
「……いいではありませんか。生まれた時から、どこへ行くにも誰かの目があって、言われた通りに振る舞ってきたのですもの」
アンリエッタは小さく息を吐く。
「少しくらい、自由が欲しいのですわ」
ウェールズと結婚できること。
それだけでも、自分は十分幸せなのだと分かっている。
だが、ルイズと一緒に過ごしていたあの頃こそ、自分が最も自由でいられた時間だったのではないか。
アンリエッタは、ふとそんなことを思うのだった。
さて、そんなことが起きていた、ちょうど同じ頃。
「う゛~~~~~っ……」
ルイズはベッドへ突っ伏していた。
頭から湯気まで立ち上っている。
理由は当然、詔の進捗が全然進まないから。
「すっごい魘されているね、ルイズ」
「すっごい他人事のように言いますよね、フリーレンさん」
ぐったりしているルイズの世話を焼いていたシエスタが、本を読んでいるフリーレンへ向かって突っ込む。
ちなみに、彼女が今読んでいるのは、以前ルイズへ妙な影響を与えた『古惚けた本』だった。表面上は何も書いてないページを、ぺらぺらとめくっている。
「だって、どうしようもないし」
「いやまあそうでしょうけど……なんかこう、魔法で何とかならないのですか?」
何度目かの問いかけに、フリーレンは「無理」と言わんばかりに首を横へ振る。シエスタは、可哀想なものを見るような目でルイズを見た。
今や彼女の頭からは、本当に煙が上がり始めている。
瞳など、すでに半分ほど虚無であった。
「いっそのこと、気分転換で外に繰り出してみたらどうだ?」
腹筋をしていたアニエスが、別方面からの案を提示する。
ここで唸っていたところで、まともな詔など生まれるはずはない。そう思ったのだろう。
「そうですね。散歩でもすれば、何か思いつくかもしれませんよ? 何気ない景色を見ることで、突如インスピレーションが湧くこともあるって、父も言ってましたし」
「だってさ、どう? ルイズ」
シエスタやフリーレンも、悪くはないとばかりに頷くが、当人はまだ動かない。
気持ちは分かるけど、そんなんで思いつくのか……と、内心考えているようだ。
しばし、悶々とした沈黙が流れる。それを破ったのは、扉のノック音だ。
「……お客様?」
「また例のお姫さまでも来たのか?」
シエスタとアニエスが怪訝そうな顔をするが、フリーレンは「違うよ」と立ち上がる。
この魔力は覚えがある。誰が来たのか察したフリーレンは、そのまま扉を開けた。
「やっほー、フリーレン、久しぶりー!」
「え? ミス・ツェルプストー!」
「久しぶりって程じゃないと思うけど。キュルケ」
そう、やってきたのはキュルケなのだった。
「へぇぇぇぇ、あなたたち、旅をしているの!?」
しばらくして。
学院を去ってからの出来事を軽く聞かされたキュルケは、目を輝かせながら声を上げた。
「しかも『未踏破の洞窟』を踏破して、タルブではお祭りまで体験して……。なによぉ、それ! あたしを誘ってくれてもよかったじゃないの!」
「ごめんごめん。ここ最近、本当に急なことばっかりだったからね」
楽しげな冒険譚を聞かされ、少し頬を膨らませるキュルケを、フリーレンは適当になだめる。
もっとも、彼女も本気で怒っているわけではないらしい。すぐに視線を、ベッドの上で唸っているルイズへ向けた。
「……で、今のルイズは、アンリエッタ姫の結婚式で読み上げる祝辞を考えて、あんなことになってるわけね」
「考えすぎて、ああなっちゃったみたいでね」
何せ今のルイズは、キュルケが来たことにすら気づいていない。
脳内にある語彙を総動員して、何とか『それっぽい文章』を生み出そうとしている最中なのである。
「み、水は……零れたら戻らないから気をつけること……。つち、土ぃ……? 積もれば山になるんだっけ……? あれ、なんてことわざだっけぇ……」
「駄目そうね」
ブツブツ呟くルイズの詩を聞いて、ばっさりと切り捨てるキュルケ。
てか、仮にも仇敵たる自分がやってきたのにこの無反応は正直頂けない。そう思ったのか、フリーレンにこう尋ねる。
「ねえフリーレン、実はさ、そのタルブにあったという『走る鉄棺』なんだけどね、
「え、あれ動かせるんですか!?」
これを聞いて驚いたのがシエスタだった。
あの、ずっと倉庫の奥で眠っていた謎の鉄塊。物心ついた頃にはすでに存在していて、昔はジェシカや下の子、村の子供たちと、アスレチック代わりにして遊んでいたものだ。
「そうなのよぉ! あたしもびっくりしたんだけど、その……ええっと、走る鉄棺じゃなくて、なんて名前だったかしら……」
「ケネディジープ?」
「そう、それ! それに乗って、ここラ・ロシェールまで来たのよ。散歩ついでにね」
キュルケは興奮気味に身を乗り出す。
「本当に速かったんだから! 少なくとも馬より速いし、乗り心地だって最高! あれ、量産できたら無敵なんじゃないかしら!」
どうやらキュルケは、すっかりケネディジープを気に入ってしまったらしい。
飛べない以上、竜には及ばないだろう。
だが、地上を走る乗り物としては、馬とは比較にならない性能を持っている。
あれを動かせるようにしたコルベールは天才だ――と、熱弁していた辺りから、話は若干惚気混じりになっていたが。
「――ってわけでヴァリエール! あんたもそのジープに乗ってみなさいよ! 本当に、今までの価値観全部吹っ飛ぶんだから!」
キュルケはそう言うと、杖をひと振りした。
次の瞬間、ルイズの身体が強引に宙へ浮かび上がる。
「って、わっ! キュルケ! あんたいつの間に!?」
「……ほんっっとに気づいてなかったみたいね。あたしを前に良い度胸じゃないの」
「なにすんのよ! 降ろしなさいったら!」
空中でじたばた暴れるルイズをよそに、キュルケは早速と言わんばかりに、そのまま外へ連れ出していく。
当然、フリーレンたちも後を追った。
「そういえば、コルベールは?」
「ラ・ロシェールから少し離れた林の方にいるわ。ほら、挙式前でこの辺り、かなり警備が厳しいでしょ?」
キュルケは肩をすくめる。
「そんな中、『走る鉄の塊』なんて持ち込んだら、そりゃ大騒ぎになるわよ」
実物を知っているシエスタは、それを聞いて「それはそうですよね……」と深く頷いていた。
そんなこんなで一行は、ラ・ロシェールから少し離れた、鬱蒼と木々の生い茂る林へやって来ていた。
「おお! これはこれは、お久しぶりですなミス・フリーレン! ミス・ヴァリエール!」
夕暮れに差しかかった林の中。
宙へ灯りの魔法を浮かべながらジープを整備していたコルベールは、フリーレンたちを見るなり嬉しそうに声を上げた。
「キュルケにも言ったけど、『お久しぶり』ってほどでもないと思うよ? 会ったの、ついこの前でしょ」
そんなことを呟きながら、フリーレンは『走る鉄棺』ことジープへ視線を向ける。
「へぇ……これが例の」
「そうなのですよ!」
コルベールは興奮した様子で身を乗り出した。
「いやはや、この丸い部品……『タイヤ』でしたかな? あの板、『ペダル』を踏んだ瞬間に回転し始めた時は、もう本当に驚きましたぞ! 世界はやはり広い! こんな巨大な鉄の塊が、たったこれだけの操作で自在に動くなど!」
もはや世紀の大発見を前にした学者のような勢いで、コルベールはまくし立てる。
ちなみに、基本的な運転方法や各部名称については、事前にオスマンから教わっていたらしい。
さらに燃料たる『ガソリン』も、『錬金』によって生成可能となったことで、ついに実用化へ漕ぎ着けたのだという。
「本当に、このジープと巡り合わせてくださったこと、感謝しておりますぞ!」
そう言って、コルベールはシエスタへ深々と頭を下げた。
「い、いえ! こちらこそ、動かせるようにしていただいて、本当にありがとうございます!」
シエスタもまた、嬉しそうに頭を下げ返す。
「ねえ、フリーレン……。これ、本当に動くの?」
一方、ルイズは怪訝そうな顔でジープのフロントガラスを軽く叩いていた。
ちなみにフリーレンは今、左手のルーンを淡く光らせながら、ジープのあちこちへ触れて回っている。
そして、そのまま自然な動作で操縦席へ腰を下ろした。
「これが『アクセル』……これが『ブレーキ』。ギアチェンジのレバーに、バックミラー……へぇ……」
ハンドルへ両手を添えながら、フリーレンは静かに思案する。
「やはり興味深いでしょう? ミス・フリーレン」
「うん。これは面白いね」
しばらく考え込んでいたフリーレンは、不意にコルベールへ視線を向けた。
「ねえ。ちょっと運転してみてもいい?」
「えっ、できるの!?」
ルイズは唖然とした表情で尋ねる。まだ触って数秒しか経ってないのに……。
「さっき、『ガンダールヴ』でどう動いているのかを解析してみたからね。たぶん運転くらいならできると思う」
「……よく分からないけど、そのルーン、本当に便利よね」
ルイズは複雑そうな表情で、自分で刻んだはずの、使い魔の印を見つめる。
サイトの世界の武器や道具を自在に扱えるようになる。そんな契約効果など、聞いたこともないからだ。
一方のフリーレンもまた、この乗り物が『扱い方次第では兵器になり得る』ことを理解していた。
ゆえに、『ガンダールヴ』が反応したのだろう――と、内心で分析している。
もっとも、今はそんなことはどうでもよかった。
「せっかくだし、ルイズも乗ってみなさいよ」
キュルケに半ば強引に押し込まれる形で、ルイズは後部座席へ座らされる。
「シエスタくんもぜひ。実際に動く姿を見ていただきたいですからな!」
「あ、ありがとうございます!」
シエスタも嬉しそうにルイズの隣へ腰掛けた。
と、ここで、一同は気づく。
「あれ? これ、四人までしか乗れませんよね? 詰めれば何とかなるかな……?」
「私は構わん。まずは貴殿らで楽しんでくるといい」
アニエスはそう言って、軽く手を振る。
「あたしもいいわ。ジャン、付き合ってあげて。フリーレンだけじゃ、ちょっと不安でしょ?」
キュルケも、コルベールの背中を押しながらそう言った。
「ええ。では、お言葉に甘えて……」
コルベールが助手席へ乗り込もうとした、その時だった。
ふと彼は、アニエスの顔を見て動きを止める。
「……失礼。あなたとは、どこかでお会いしたことがありませんかな?」
「いや……私は覚えがないが……」
そう答えるアニエスもまた、胸の奥が微かに疼くような感覚を覚えていた。
しばし。互いに神妙な顔で見つめ合う二人。
その様子を、少し離れた場所からキュルケがジト目で睨みつける。
「ほら! なに見つめ合ってんのよ! さっさと行ってきなさいっての!」
キュルケに急かされ、二人はそこで視線を切る。
そしてコルベールは、少し後ろ髪を引かれるような顔をしながら、助手席へ乗り込んだ。
「大丈夫? フリーレン……」
「まあ、任せてよ」
「動かす際は、足元の『アクセル』を踏むのですぞ」
「うん。じゃあ、行くよ」
フリーレンはそう言うと、キーを回してエンジンを始動させた。
低く唸るような振動音が、車体全体を震わせる。
「ひゃっ……!」
ルイズとシエスタは驚き、思わず互いの身体を寄せ合った。
「動くよ。落ちないようにね」
とても初めて触るとは思えない滑らかな動作で、フリーレンはギアを後退へ切り替える。
ハンドルを回し、ゆっくりと車体を後ろへ下げる。
ジープは左へ弧を描くように後退し、向きを整えた。
「じゃあ、ちょっと散歩してくる」
「はいはい、楽しんでらっしゃい」
キュルケとアニエスへ軽く手を振ると、フリーレンは再びギアを切り替える。
ガコン、という小気味よい音が車内へ響いた。
次の瞬間。アクセルが踏み込まれ、前輪が勢いよく回転する。そのままジープは、雑木林を飛び出した。
「きゃっ、きゃああああああああっ!!」
あまりの加速と振動に、ルイズとシエスタは揃って悲鳴を上げる。
「す、素晴らしい! ミス・フリーレン! 私ですら、まだここまで滑らかに扱えないというのに!」
「あー……懐かしいなぁ。ヒンメルと馬鹿やった時のこと思い出すぜ」
シエスタの隣へ立て掛けられていたデルフリンガーも、目を覚ましたのか、しみじみと呟いた。
そのままジープは、ラ・ロシェールを離れ、緩やかに広がる草原地帯へ飛び出していく。
草を食んでいた馬や小竜、色とりどりの幻想獣たちが、一斉に見慣れぬ轟音へ耳を向けた。
道を行き交う商人たちもまた、走り抜ける鉄の塊を見て呆然としている。
「……本当に、走るんですね」
ようやく硬直から立ち直ったシエスタが、ぽつりと呟く。
「ええ……。びっくりだわ……」
ルイズもまた、勝手に走る鉄の塊と、それを平然と操るフリーレンの背中を見つめていた。
これでもフリーレン曰く、「まだ三十キロも出していない」らしい。
道が多少荒れているため、速度を出しすぎればルイズたちが座席から吹き飛びかねない。それを考慮しているのだという。
「本気を出せば、この三倍以上は出せるよ」
その言葉に、ルイズとシエスタは揃って口を開けた。
「わたしのご先祖様も……こういうものに乗って来たのでしょうか……」
シエスタは、『竜の羽衣』の伝承を思い出したのだ。
空を飛ぶ鉄の船など、ずっと御伽噺だと思っていた。
だが、この光景を見せられると、少しだけ信じられる気がしてくる。
「本当、世界って、わたしの思った以上に広いのね……」
流れていく景色を見つめながら、ルイズはぽつりと漏らした。
魔法すら使わず、こんなことができる。
十七年間、自分が信じてきた常識が、根底からひっくり返されていくような感覚だった。
「サイトに会えたら、もっともっと面白いものが見られるかもしれないよ」
「ええ……そうね」
フリーレンも楽しそうに笑う。
「サイト? それは誰ですかな?」
助手席のコルベールが興味津々といった様子で尋ねてきたため、ルイズたちは簡単に説明する。
「ほうっ! このような乗り物を数多く生み出せるほどの技術力を持つ国から来た青年、と!」
案の定、コルベールは目を輝かせた。
「実に興味深い! ぜひ一度、その世界をこの目で見てみたいものですな!」
自らの研究を突き詰めた先にあるかのような文明。そんな国が存在するなど。
興奮を隠しきれないコルベールをよそに、フリーレンはふとルイズへ視線を向けた。
「どう? ルイズ。少しは気が晴れた?」
それを聞いたルイズは、少しだけ考え、ふっと微笑む。
「ええ。……ねえフリーレン。もう少し飛ばしてみせてよ。どれだけ速いのか、見てみたいわ」
その言葉に、フリーレンは小さく頷いた。
しばらくの間。
広大な草原の中を、鉄の乗り物は自由に駆け抜けていった。
ほのぼのタイムはここで一旦終わりだぁ。
ここから地獄の一丁目が始まるぜぇ。