――平和ボケって怖いな
みんな目的無く闘っているみたいだ
※
たとえばアンタらは考えた事がある?
仲が良かったり、愛し合っていたり、単に気に食わなかったり、敵対していたり、心の底から信頼していた相手が、自分の知りえないところで自分の事を罵っているんじゃないだろうか、って。
どーかしら。
それとも逆かな。
助けを求める手を無視して最初から気づかないフリをしたり、ちょっと鬱陶しいやつに「ごめんね、それは無理なんだ」って嘘をついてみたり。
他人と接するのに、いつも頭のどっかで相手の悪意を警戒して、疑ってなくちゃいけない。
何だか他人事ねえ。
でもそれは仕方がないとも言えるわ。
このわたし、“正体不明の正体”こと封獣ぬえは、それをきちんと理解している。
その人間の本性というものをよーくわかっている。
誰だって自分が可愛い。気の置けない友人ならともかく、他人が傷付くのは本音を言ってどうでもいいし、いつだって我が身は惜しい。自分が痛いのはダメ。苦しいのもすごく嫌ね。うん、わかるよ。すごく、わかる。
でもそれは、仕方がない。何度も言うようだけれど。
人間は悪意を持って生まれてくるからね。人間は他人に優しくない。そういうふうにできているんだからね。時折出てくる善の人は、そうやって数の理で殺されていくわけ。
違うのか。
そんなに絶対数が違うのなら、それはもう“別種”になるのかな。つまり人間は、新たな種に世界を乗っ取られるか否かの瀬戸際で、均衡している、ぎりぎりにいるのかな。
――聞いている自分にしてもそれは主旨がなく、要点の掴み辛い、まさしく彼女の“正体不明”を体現するかのような――
狸狂言語録 奴延鳥の事
一、
そこは居室であり、私室であり、実験室だった。
よくお前は部屋が汚いだろうと揶揄される魔理沙であるが、これはまったくいわれのない悪評であり、彼女の人格を無視した言い様である事は疑いようがない。
生活の場がとッ散らかっているのは落ち着かない性分だったし、まずもって、彼女は汚い部屋というのが堪えられない。この森ではカビやらキノコやらを甘く考えているとすぐに泣きを見る破目になるから、水周りなんかには、とりわけ気を配る必要があるのだ。
しかしさすがに絶えず実験のために魔法を使うその部屋は、一見すると猥雑に見えるのも否定はできなかった。ごちゃごちゃと物が床のすぐ上のスペースを占拠していた。
(……しかし、どーするかな)
袋から「借りた」本を取り出す。ふーっと息を吹いたりして、埃なんかをざっと確認しつつ、魔理沙は内心で少しばかり悩んでいた。
もちろんそれはあの気弱なのっぽの事である。
あいつは何しろ飛び切り厄介な事情、外来人という来歴を抱えているのだ。
ドッピオをどうしてやるべきなのか。小娘の分際で他人の事をどうのこうの考えるなどおこがましい、弁えろと、そういわれてしまうのかもしれないが、一応極々短いながらも、見知った以上は里に放り出すだけでは目覚めが悪い。首を突っ込みたがる気質と責任感の強さは、今では何かしてやれないかという漠然とした気遣いになっていた。
まずもって、このまま放っておく第一の選択肢がある。
もちろんあの貧弱な少年は遠からず食われて死ぬだろう。
ならば次善に、里へ連れて行き、知り合いなりに口利きをして、多少なりとも便宜を図ってもらう。そいう考えもある。現実的には、それぐらいが精々だろうし、それが一番だ。
なにせドッピオは「戻れない」可能性がある。――いや、おそらくその方がずっと高いだろうと。
実に奇妙な話であるし、魔理沙も又聞きでしかないから詳しくは知らぬのだが、幻想郷には忘れられたものがたどり着く事もあるらしい。何度か出向いた無縁塚、半ば紛れていた荒地は、魔理沙の目には酷くわびしいものに映った。いらぬ物、打ち捨てられた物々。すでに意味も価値も失せた品とその残骸たち。
あいつは「あれら」の一つなのだ。
幻想郷とそれ以外とを隔てる見えない知らない壁。……境界。
魔理沙自身でさえどうにもならぬ、堅くて遠い、向こう側の領域の話である。
境界をどうにか出来そうなのは、人間かそれ以外か、幾人かはいるだろうが、中でも確実だと思えそうなのはそのものずばり「境界の管理人」。
そして博麗神社だ。
あそこにドッピオをつれていくのは簡単だろう。大した苦労ではない。それこそ、魔理沙は年がら年中、三日とおかずに霊夢の顔を見に訪ねているほどだ。
けれどもし、駄目だったら。
彼がすでに「忘れさられたヤツ」であるといわれた時の事を思うと、魔理沙は一歩踏ん切りがつかないでいた。だったら初めから、あるかないかの希望を捨てて、端ッから里への移住をすすめた方が、いいんじゃないのかとも――思うのだ。
頭を掻き毟って、うああと呻いて、鍋の頃合を見て、だぜだぜ呟いて。
腹が減った魔理沙は、とりあえず夕食にしようと決めた。
二、
魔理沙の隙間ババアくたばれ3分クッキング、はじまるよ。わぁい。
調味料……適当に。材料……も、まあある物で。
手順だって簡単なものだ。
「腹減らないか? 減ったよな」
「え? ああ、う……うん」
宿無しか、文無しか。明日の暮らしも定かではないドッピオに、魔理沙は安心しろとばかりにニカッと笑ってグッと拳を立ててみせた。まァまァまずは腹ごしらえとばかりに、何事か言いたげなそいつをひっ掴んで椅子に座らせた。
マスパの要領で点火した火にフライパンを乗せると、大雑把に油を引いて熱が通るのを待つ。油はひまわりのものだ。里以外ではわりと一般的に使われていた。
「茶碗出しといてくれるか」
次に、あらかじめ細かく切っておいた肉、ピーマン、たけのこをバラバラと投入する。魔理沙は和食派だが肉も食うし魚も好きだ。香霖堂においては朱鷺を鍋にして食うという暴挙に出たぐらいである。
彩りになんとなく早苗の顔を想起しつつ、鉄肌にたっぷりと塩、胡椒をふりかける。鼻先に、じゅうじゅうと熱せられた具材が放つ、香ばしい匂いがただよい始めるのを待って、残ったキノコを入れた。数度鍋を反す。そそり立つ油の熱い香り。そのすぐ後、続けざまに調味料が落とされた。焦がされたしょうゆの、食欲をそそる匂いが広がる。
キノコの類はすぐに風味が飛んでしまうし、へにゃっとなって具合が悪いから(霊夢はへにゃった方が好きらしい)最後にさっと火を通すような、通さないような、そんな感じがいいとアバウトに魔理沙は認識していた。
それらと、おせっかいな妖怪が鍋ごと持ってきた蕗と油揚げの煮物もある。
「煮物は別に食わなくてもいいが」
「そんなコト」
「アイツが持ってきたからなぁ。変なもの入ってるわけじゃあないにしろ、なーんか、あるような、あるかもしれないような」
「……えっと?」
「わかんなくていいぜ」
会話が途切れる。
食卓について、そこから先は二人とも無言だった。
手を合わせて、並べた料理をもしゃもしゃと咀嚼しながら、二人とも、なんとなく口を開くきっかけを見失っていた。
やや冷めた白米を頬張り、蕗と油揚げを一緒に摘んでみる。冷たくなっても良いよう強めに味付けのなされた煮物はとろけるぐらいに柔らかく、噛むと旨みが舌にじんわりと広がった。あまじょっぱい煮汁に自然と箸が進む。
「ヒマワリ油」
「うん。妖怪が作ってるんだがまあ」
黒くってどろりとした汁のたれのかかったキノコ炒め。ご飯にのっけて一緒に口へ運ぶと、熱いたれがご飯に染み込んで、思わず顔がほころびる。つやの出た照り。うっとりするような薫香。
しかし……ハテ。使ったはいいが、この黒い調味料は、果たして。魔理沙が首を傾げる。これは以前、仕事の対価として譲り受けたものだったのだが。
炒め物なんかに少量使うと味が立つ。そんな感じで使うと良いと聞いていた。
たしかに美味い。
「ペスカトーレ、じゃないのかな」
「知ってるのか」
「魚介を使ってトマトソースで煮込んだやつさ。たぶんコレ、貝じゃないかな」
首をひねりながらドッピオが言う。あまり正確には覚えていないようだ。
正確には、現代でも極々おなじみのオイスターソース、というよりは偽・オイスターソースなのだが、要は魚介系たれの文化間での違いである。日本ではしょうゆの前身であるしょっつるにあたる。それらの広東省、中華料理でのものがオイスターソースとされる。
イタリアのも多分似たようなものでしょ。
しかし、山村たる幻想郷で牡蠣が獲れるかというと不可能に近く、まあ妖怪たちの文化レベルならば淡水での養殖も出来なくはないのかもしれないが、水生妖怪が嫌がるだろう。河童とか。そんな理由によって今魔理沙たちが舌鼓をうっているのは原料をきのこによってまかなったものだった。本来のものの味や風味を、手に入るものを使って再現しようというのだから偽装、もどきのソースになる。もちろん妖怪の間でしか出回っていないため、そこそこ貴重な品だった。
なるほどなるほどと互いに頷き合う。そこからはむぐむぐと食べる事に二人の口が熱心になった。
無言の中、途中に一度ドッピオが「このキノコは?」と尋ねたが、魔理沙は平気な顔して「大丈夫、死にはしないぜ。たぶんな」というものだから、彼は背中にひやりとしたものを感じる事になった。
それでも、腹が膨れて人心地つけば小さな事は大した問題に思えなくなる。
三、
後片付けは手早くちゃっちゃっと済ませておく。神社の宴会の後なんかは手伝う事もある。職業柄か、てきぱきと効率よく物事を進めるのは得意分野だった。
魔理沙は酒を求めて戸棚を漁った。
ランプも点せる酒と、ランプも点せない焼酎とがあった。
「酒しかねーずら。まあ無礼講だ、気にしないでくれ。私は気にしないから」
返事もそこそこに食卓にコップを二つと半分入った焼酎の瓶を置く。
コップは地底で手に入れたものだ。
「だから私は言ったんだな。一人で遊んでも面白くないしな、って」
「……え?」
その時突然、ガシャンと、何か硬質なものが割れる音がした。
ドッピオはその長い四肢を振り回して「わ、わっ」と慌てふためいている。
「ん、ん? ……大丈夫、か? あー、怪我とかしてないか」
「ご、ごめん。怪我はしてない……けど」
「なら別にいいぜ」
コップが床の上で粉々になっていた。原型もわからないぐらい、ばらばらに。
惜しむものではない。驚くほど安価だったし。いわゆる安かろう悪かろうだと魔理沙は思っていた。地底に行った時のついでで買ってきたもので、まだ数はある。適当に、魔法で破片を外へ掃き散らした。その合間に、何気なくテーブルの上に目をやる。
「疲れたのかな。なーんか……んん?」
みしり。
不吉な音が、魔理沙からドッピオから、この住処の四方が一斉に鳴って、そぞろな響きとなった。
「おっ……と。何だか知らんがこりゃマズイ」
「これは……」
魔理沙は目の前で戸惑う顔に説明をしようと口を開きかけて、けれど面倒くさくなったから、手元の書付を一枚捲りあげた。
「ほら、これだ」
その紙切れは簡易的なタリスマン(護符)であり、書かれた文字と円それ自体が力を発揮するタイプのものである。力ある者の名を刻んだ部分が黒く焦げていって、すぐさまちりちりに燃え尽きてしまった。
「お客さんだな。私か、あるいはお前にか。多分私なんだろうけど、あいにく心当たりはないな。……どっちにしろ面倒くさい相手だぜ、あいつは」
酷いヤツなんだといった。狡猾なヤツだぜともいった。非情であるとも、短気であるともいった。
「あとな――なんていうのか。“やぼったい”」
それらの弁はいくらか的を射ていた。
そして、玄関が静かに開いた。
「どうも、今晩は」
戸口には九尾の狐が立っていた。
みしりと森を震わせて、いくらか鬱陶しそうに顔を歪めながら、魔理沙たちの前に突如として姿を現したそいつ。その、見る者を等しく畏怖させる九つの尾。
虚空から這い出した八雲藍は、その艶やかな九尾を悠然とたゆたせ――二人をうっすらとねめつけた。そこに見て取れたのは、人が雀の群れを認めはしても一々数えたりしないで、大雑把に一つの群として捉えるような、「ああ、人間が二人いるなあ」という無関心で傲慢なものがあった。
「いきなり現われて、なんなんだ一体。ここは私の家だぜ」
「――では、ええと、そっちが霧雨魔理沙、だったかしら?」
「いいや違うな。人違いだ」
「おや。家主じゃなかったのか」
「家主は私だ。が、霧雨魔理沙はそっちのヤツだ」
ドッピオを顎でしゃくってみせる。
「いずれにしろ、家主は不法侵入者を追い返せるし、敷地内の狐は獲っていいんだ」
「ふん。あまり調子に乗るんじゃあないよ」
不機嫌そうに藍がいった。ごちゃごちゃ言い合っていてもしようがないというように、スペルカードを三枚、取り出す。完全に臨戦態勢だった。言葉で説得できそうにない――というより、できない。
今のコイツは、そういうふうに式が打ち込まれているのだろうから。
つまりは、このまま後ろのドッピオを庇って藍と戦うか、あるいは何も見なかったことにするか。シンプルな二択だった。
「お前に不法侵入云々という資格はあるのかしら」
「準一級だぜ」
「なら、私が勝ったら不法じゃなくなるんだな?」
「そんときゃ、煮るなり焼くなり好きにして構わないぜ」
「それはそれは」
――魅力的な提案だ。
冷ややかな声だった。何の躊躇いもなく、ケツの穴にツララを突っ込んでくるような温度と雰囲気があった。
もちろん、準一級資格保持者である魔理沙が尻穴を狙われる道理はどこにもない。しかし古来より「無理を通せば道理が引っ込む」という言葉が体現するように、道理のヤツは「アッー!」とヤられてしまうのがお似合いなのである。魔理沙が普段無理をツッ込む側であるというのもまた都合が悪かった。
「……八雲紫はお前が異変に首を突っ込む事をこころよく思ってはいない」
「……んあ?」
「好きにしろ、か。ふん、してもいいけどね」
「三食つくならペットも考える。週末は休みが欲しいな」
「お前を――お前を、お前をもし本当に好きにしたなら、あの悪食の馬鹿が噛み付いてくるからな」
「……」
「狂犬だよ、実際。人間と妖怪とのけじめなんかハナッから無視してかかる奴だ。忌々しい。守矢の風祝の比じゃない」
魔理沙は帽子のつばを掴んでじっと俯いたまま、答えない。
件のお節介焼きをどうも毛嫌いしているようだとか、最初の目的だとか、もうそんなものはどうでもよくなってしまっていた。わけもわからないままムカムカとしていた。腹の底が熱かった。こんなに熱くなったのは初めてキン肉マン2世のオープニングを聞いた時か、実家を飛び出した時以来かもしれなかった。
「あいつの名を……あのクズの名を出すな……」
「おお、怖い怖い」
ぐぐぐっと腕を前に伸ばして調子を確かめるように肩をぐるぐると回せば、藍は心底呆れたというように鼻を鳴らした。右手に愛品の八卦炉を握る。ずしりとした頼もしい重みは魔理沙に多少なりとも落ち着きを取り戻させた。
「人間を――マルクを――残忍に殺しても気づきもしねえそのお高くとまった態度……………」
「そんな事言われても」
藍が困ったようにきゅうと鳴いた。狐のさまだろうか。
ところで一つの疑問なのだが八雲藍は白面金毛の九尾、つまりはキツネ。イヌ科である。一方の橙は黒猫、猫である。にゃーん。
犬と猫であるというのだが、その形はどういった具合なのだろうか。小さい頃から慣らして飼えば仲良く育つ二種族であるし、実際イメージされるぐらいまで悪い関係では決してないが、それでも二次創作の類ではほぼ相思相愛である。
それか、あるいは、勢いで式にしたものの橙に怖がられて威嚇とかされて涙眼になる藍の短編とかないのだろうか。
「――例えば、だ」
仕切りなおすような藍の声だった。
藍の尾は九本それぞれが自ら光を放っているかのように力と生気に満ちていた。一撫でするだけで人間をも容易く穢して腐らせてしまうような。しかし同時に目にした者を惹きつけてやまない艶やかさを持っていた。それらが空気を孕んで広がって、藍のめかたが五割増にも見えた。
「囚人のジレンマという話がある」
藍はそこで一度言葉を止めた。魔理沙をじっと見て、それから視線を右にずらした。
「どうしてそこまで庇い立てする? 脳ミソがクソになってるのか?」
心底、わからないという疑問が透けていた。
「そりゃ、人間の本質が裏切りじゃないってだけだろ」
藍はその惚けたような答えに対し、
と言った。「それは違う」と、そう返した。
魔理沙は確かにそう言われた。そのはず、であるのに。
「お……おいこりゃ、あいつら」
まだ自分が夢の中にいるのかと咄嗟に思ったほどだった。
ドッピオと藍の二人はまるで始めから存在していなかったように何の余韻も残さず、その場からいなくなっていた。家から飛び出して、夜陰に紛れたとかそういうレベルでさえなかった。カンバスに白いペンキを乱雑な筆遣いで塗りたくったみたいに、完璧にいなくなっていた。
咄嗟に、箒を手にとって、ばっと夜の中へ駆け出した。
幻想郷の時空間は酷くあいまいなところがあって、そこら辺の妖精でさえも、たまにワープしていたりする。現実に重なっていて、しかし同時に酷く圧迫されて隙間に追いやられているふしがある幻想郷では、自分の居場所だとか立ち位置というようなものなど、向こう側が透けて見えるほど脆くて薄い概念であった。ふらふらしてる奴が多い原因もその辺りにあるのかもしれなかった。
家からの明かりが、背後から差している。魔理沙の影が踊って、その光の届かぬ先からは、急に黒い色が深くなっているようでもあった。
「おい、おい……」
魔理沙の中にはまだ情というものが燻っていた。その厄介な感覚は、このまま事件を放り出せば、どう転んだところであいつは良い事にはならないだろうと察しがついていた。
次の瞬間、再び魔理沙の視界から全ての光が消えて何も見えない夜が覆い被さってきた。吸った息が吐けなくなる。
咄嗟に魔理沙はその場から跳ね退いて、ばっと箒で飛びだした。この状況が何者かの攻撃だとするならば、同じところに留まっているのは良い的であるからだった。
抱いた疑問はそのままで、急速に頭が弾幕をぶつ時のあの感覚へと切り替わる。動いて、観察して、対策を練っている。
箒を走らせるその目に怯えはなかった。あるのは感情を自分自身で乗りこなし、冷静に事態を判断しようとしている魔法使いの眼差しだった。
彼女とて、幾多もの異変を解決してきた――重度の、弾幕狂なのだった。
その魔理沙の耳に、聞き慣れた音が届く。グレイズを稼ぐ特有のあの心浮き立つ効果音。近い。ぐるんと飛翔ルートを反転させて出所へ向かう。徐々に徐々に目が闇に順応してくる。そう、この暗さは、人が急に暗所へ入った時のものだった。夕暮れから一気に真夜中の、しかも地下室にでも放り出されたら、丁度こんな感じになるだろうか。
暗いところへ……突然?
うっすらと自分の家が見えた。やっぱり、場所は大して変わっていない。それは確かなようだった。疑問は再び同じ疑問へ回帰するが、今はまずやる事がある。
ぐっと柄に伏せた身を切って木々を危なげなくかわしていく。目が慣れれば月明かりに薄く木々が見えてくる。
怖いものなんて、なんにもなさそうな。
夜の中を疾走するその姿は、まさしく彼女を体現するかのような一筋の流星だった。
騒ぎの場は、少しずつ移動しているようだった。しかし当然、彼女のが速い。音がますます鮮明になってくる。やがて、藍が次々に地表すれすれを撃ち抜いているのが見えてきた。
しかし、追われているのは――あれは本当にドッピオなのだろうか? イヌか何かじゃあないのか?
よく見ようと、魔理沙が帽子を掴んで顎を持ち上げ、閃光のようにパッパッと明滅する光景に目を凝らす。
次いで、ふわりと体が宙に浮いた。
「えっ?」
地面に熱いヴェーゼをかました。
気が付いた瞬間、箒から転げ落ちて空に飛び出していたのだ。
激しく着地した勢いでがふッと声が、押し潰されたような呻きが漏れた。うげ、げほっ……と咳き込み、箒を探す間もなく、魔理沙の周囲にばら撒き弾が矢継ぎ早に着弾して土煙が上がった。焦る魔理沙がばっと身を翻してそれらから安地へと抜け出す。ごろごろ転がって、樹の一つにぶつかって止まった。心底悔しそうに、再びかッと叫んだ。この日、どうにも魔理沙は地面に倒れこむ厄日であるようだった。
「ひどいぜ、ひどいのぜ、私疲れてんのかな……むっ」
前後にふらつく魔理沙の前に、ふよふよと藍もやってきた。
どうやら今の一瞬で、ドッピオか何かを見失ったらしかった。どうにも腑に落ちないという顔をしていた。ありありと怒りを顕にする魔理沙を一瞥して、どこへ行ったというようにきょろきょろと首と尻尾を振る。
「ちくしょう、ちくしょう、よくもやってくれたな。アイツはどこだ? 隠すとひどいぜ。ひどいヤツだぜ、お前は。まったくなんてひどいヤツだ」
「まだ何も言ってないだろう……」
胡乱気な目で藍が言った。
なんだか、泥にまみれて小汚いから、あんまり近づくなといっているようにも見えた。
「それに、さて、私の方こそ知りたいぐらいだ」
「アアん? だらしねえな――」
魔理沙は、藍が近づいてきた時からずっと構えていた八卦炉を下ろした。いつまで経っても相手がスペルカードを出さないからだ。その代わりに、疑問が口から飛び出した。
「ならなんでアイツを追うんだ? そーゆー趣味なのか?」
「さてね」
はぐらかしているのを隠す気もない返事だった。
「さてさて。サービス残業もこのぐらいにしておくかな?」
「……あっ」
待て、とか、逃がすか、などと魔理沙が叫ぶよりも早く、八つ目、九つ目の尾がするりと虚空の中へ埋もれるようにして消えた。
それを見た魔理沙に、ふと一つの疑問が浮かぶ。
そういえば……さっきのも、丁度今みたいなヤツだった気がするような……。
気のせいだろうか。
「……なんなんだよ」
彼女の呟きに答える声は、ない。あのおどおどとした少年はもう、影も形もなかった。
鬱蒼としたこずえを透かして見る夜空には、目の奥にちかちかと突き刺さるような月が輝いている。