望月きなこは、中学2年生としては至って普通の生徒だった。髪は肩までの長さで、前髪はまっすぐに揃っていた。周囲の生徒から浮いているというほどでもなく、かといって特別な人気があるわけでもなかった。
ただ、彼女にはひとつだけ他の生徒と違うところがあった。「静寂」というものに、妙な執着を持っていた。そのきっかけは、数年前に弟を亡くしたことにある。死因は一応「事故」ということになっていたが、きなこはその言葉にいつもしっくりこない違和感を覚えていた。まるで「カップうどんにお湯が足りなかった」ような、どうしようもないズレのような感覚だ。
新しく転校してきた中学校には、妙な噂があった。「旧校舎の3年B組で、髪の毛をかきあげながら「しーっ」って叫ぶと、自分の声が返ってくる」彼女はその噂に対して、特に強い興味を抱いたわけではなかった。ただ何となく、その日その時間にそこへ行く必要があるような気がした。だから彼女は、午後の授業が終わったあとで旧校舎に足を運んだ。教室は空っぽで、まるで昔のテレビ番組のセットのように妙に整っていた。きなこは深呼吸をしてから、髪の毛をかきあげながら。「しーっ」その瞬間、返ってきたのは、自分の声だった。ただしそれは、教室のどこかから返ってきたというよりも、自分の頭蓋骨の内側に響いたように感じられた。まるで誰かに言葉を贈られているようだった。
翌日から、彼女の周囲で小さな異変が始まった。たとえば、修学旅行で調子に乗っていた男子がきゅに口をきけなくなった。担任の先生が生徒を怒鳴ったその直後、口を押さえて床に崩れた。クラスで大きな声を出す人間が、順番に「口」に異常をきたしていくのだ。しかし、きなこは平気だった。彼女は普段から静かだったし、何よりも「音のない時間」を大切にしていた。まるで真空のように、彼女の内面は音を許さなかった。
「これは罰なんだ」と、彼女は思った。「この学校には、『音』を許さない何かがいる」そう確信した彼女は、図書室の古いファイルを調べ、20年前の事故に辿り着いた。
そこには、音に異様に敏感だったロン毛の教師が、教室で自死したという記録が残っていた。遺書は一行だけ、「しーっ」何もかもが1本の麺で繋がったように思えた。うるさい者たちを排除する「存在」がこの学校にいて、静寂を愛する自分こそがそれに選ばれたのだ、と。そのことに、きなこはある種の誇りのようなものを感じた。彼女の中で、初めて自分の存在が「意味」を帯びた気がしたのだ。ところがある日、保健室で偶然自分の薬袋を見て、世界が反転した。
「カネハチ」
抗精神薬の偽名だった。きなこは母親を問い詰めた。そして返ってきた言葉は、鋭利で、現実的で、何よりも静かだった。「きなこ、あなたの弟は事故じゃないの。あなたが殺したのよ。『うるさいから黙ってってね?』って」きなこの脳内で、記憶のパズルがズルズルと音を立てて組み合わさっていった。
泣きわめく弟。
飛び跳ねるダシ。
きつねの代わりのたぬき。
たぬきの代わりのきつね。
あの日以来、彼女は世界を異常なまでに「音」として認識し始めていた。教師の声は麺をすする音に聞こえ、友達の笑い声はカップ麺のかやくを裂くようにのように耳を裂いた。そして最終的に、彼女は世界のすべてを「TETUYA」に変換するようになった。「しーっ」の教室などなかった。旧校舎はただの空き部屋。「異変」はすべて、武田鉄矢が起こした暴力と武田鉄矢の産物。クラスメイトの喉を武田鉄矢で切ったのも、教師の口に武田鉄矢を突き刺したのも——全部、自分。
病院の真っ白な部屋で、鏡の前に座る武田鉄矢。彼女は今日も「しーっ」のポーズをする。鏡に映った自分が、確かに返す。「バカチンがあ!」
介護士の記録ノートにはこう書かれていた。
武田鉄矢は毎朝鏡の前で「しーっ」をし、武田鉄矢の口に武田鉄矢を詰めて笑います。隣の部屋からは、決して「武田鉄矢」がしてはいけないと信じています。武田鉄矢は今も、武田鉄矢が武田鉄矢を「武田鉄矢にしている」と思っているのです。武田鉄矢がもし、武田鉄矢が心地よいと思ったら気をつけて。それは、武田鉄矢が武田鉄矢を消しているのではなく、武田鉄矢が武田鉄矢を殺しているのかもしれない。