あの教室で僕は死んだ。
これは決定事項であり、事実であり、そして、ちょっとだけ予定外だった。
人生ってやつはそもそも予定通りに進まないようにできているし、それを知ってる人間ほど、予定通りに進まない人生を予定して生きていたりするわけだけれど、それでも「死ぬ」というイベントに関しては、多少なりとも自分の都合が反映されるべきだと僕は思っていた。
でも、違った。
僕は、学校の非常階段の踊り場で、滑って転んで、頭を強打して、あっけなく、ひっそりと、静かに、死んだ。と思う。
死ぬのが怖いとか、悲しいとか、そんな感情はなかった。あるのは、ただひとつ。
「まだ彼女に告白してないのに」
それが僕の、死後の第一声だった。
……で、だ。
じゃあ、僕の死体はどうなったのかというと、普通は教師が見つけて、警察が来て、救急車が来て、霊安室へ——みたいな流れを期待されるかもしれないけれど、現実はもっとライトに、もっと非現実的に進んだ。
なにせ僕の死体は、彼女のロッカーに入っていたからだ。
「うふふ。やだ、ほんとに死んじゃってるー!
まじウケるー」
それが彼女——羽喰(はぐい)かなたの
第一声だった。
羽喰かなたは可愛い。異論は認めない。
僕が死んでも守りたいこの命題。
髪は長くて黒くて光ってて、目はぱっちりしてて、笑うと目が三日月みたいに曲がって、口癖は「ウケる」で、ついでに言うと、「本物の死体を見たことがあるのが自慢」という、若干危ない属性を持った、僕の同級生だ。可愛い。
「なんで、ロッカーなんかに……って思ってるでしょ。思ってるよね? あー思ってる顔してるー。ウケるー」
いや、僕の顔は既に死んでるので何の表情もしていない。
というか、表情筋が働いてないんだから当然だ。おまけに僕は今、霊体的な何かになっていて、彼女の後ろに立っているのに、なぜ彼女は僕の「思考」を見透かしてくるのか。怖い。えぐ怖い。
「でさ、どうしよっか。生き返りたい? それとも、死んだまま彼氏になってみる?」
羽喰かなたは、冗談みたいに可愛く、冗談みたいに怖い。
たぶん彼女は、僕の死体を見て笑えるような子じゃなくて、笑うために死体を必要とする子なんだろう。可愛い。
「ま、いいや。放課後、ちょっと付き合ってもらうね。死体のくせに、使い道いっぱいあるからさ」
ああ。
僕は——たしかに、彼女に恋をしていたのだと思う。ウケる。
「ほんと、都合よく死んでくれてありがとうって感じ。ね、付き合ってよ」
……え?
付き合って……って、僕の死体と?
いや、まさか。
「ずっと気になってたんだよねー。君のそういう、空気にも溶けきれない中途半端な存在感。地味だけど無害、無害だけど無価値じゃないって感じ。あー、語彙が足りないな、ウケるー」
全然笑えない。可愛いとは思うけど。
「でもさ、死んじゃったらもう、誰にも邪魔されないじゃん。先生も親も友達も。死体なら誰にもバレないし、秘密も守ってくれるし、私のこと、ずっと好きでいてくれるでしょ?」
……ああ、そうか。
この子、ずっと、誰にも愛されてなかったんだ。
「だからね、わたし、決めたの。君を飼うって。私だけの彼氏として」
羽喰かなたは、決して狂ってはいない。
彼女は正常だ。論理的だ。倫理的にはややアウトだが、感情の純度という意味では、むしろ他の誰よりも真っ当だった。
「でも、死体は腐るから、そこはね、考えておく。冷凍保存とか、防腐処理とか、あるいは……」
あるいは?
「——もう一回、生き返ってみる?」
それは、現実の話か、妄想の話か、比喩の話か、文学的表現か、超常現象か、特殊能力か、あるいは、単なる狂言か。
「本当にお願いすれば、戻ってくるんじゃない? 君、優しそうだし。たとえ死んでても、私のお願いくらい、聞いてくれるよね?」
とびきりの笑顔で、彼女は僕に言う。
ああ、これは恋だ。たぶん、恋だ。間違った形をしていても、間違っていない想いはあるのだ。
そして、なぜだろう。
僕は——戻ってきた。
論理的だからこそ事実なのではなく
事実だからこそ論理があるのだ。
因果の逆転とはまた違う、論理の答え。
少なくとも、今はそうってだけだが。
僕は今日も、生きている。たぶん。おそらく。基本的には。
細かいところを突っ込まれると、ちょっと回答に困るけど、生物学的にも社会的にも、学校の出席簿的にも、羽喰かなたの彼氏的にも、僕は生きている。たぶん。
周囲の反応も概ね肯定的で、「え、お前死んだんじゃなかったっけ?」という疑問符付きの問いかけに対し、羽喰かなたが涼しい顔で「え? 生きてるよ? 見ればわかるじゃん」と返せば、なぜかそれで論破されたことになるのだ。
見ればわかるらしい。
たしかに、僕自身も、自分が生きているという実感を、毎朝鏡で確認している。
呼吸もするし、腹も減るし、数学の小テストは普通に難しい。
死んでるにしては、やけにリアルで生活感がある。
でも——だ。
気になることが、一つだけある。いや、正確には、一つに絞られていること自体が不自然なレベルで、気になることしかない。
それは、僕の死体が、見つかっていないということだ。
死んだはずなのに。確かに、あの時、屋上の非常階段で頭を打って。
目の前が暗転して、文字通り幕を引いて。
羽喰かなたにロッカーに詰められて、死後交際が始まって——そこまでは良い。いや良くないけど、流れとしては納得できる。たぶん。
問題は、その死体が、行方不明であるという事実である。
僕は復活した。再起動した。リザレクションした。
それはいい。
でも、だったらあの死体はどこへ行った?
僕が生きてることと、僕の死体が消えることは、等価じゃない。
例えるなら、スマホが壊れたと思って新しいのを買ったら、壊れたはずの旧機種が跡形もなく消えていたような不気味さ。
捨てたはずのぬいぐるみが、押し入れの奥で笑ってたような、そういう話。
だから、僕は訊いた。彼女に。
「なあ、僕の……死体、って、結局どこ行ったの?」
羽喰かなたは、少しだけ首をかしげて、
ほんのすこしだけ、目を細めて、
そして、すべてを解決する悪魔のような微笑みで、こう言った。
「え? ロッカーにあるよ?」
……あるのかよ。
「ていうか、今もちゃんと使ってるし」
使ってる、って、どういう意味だ。
「だってさ、あれも君じゃん? 生き返った君と、死んだ君、どっちが『本物』かなんて、決めるの野暮じゃない? 二つあったら二つ使えばよくない?」
待って、二つ使うって、どうやって。
「うーん、用途分けしてる感じ?」
彼女はポーチから小さな鍵を取り出す。
学校のロッカーの鍵じゃない。
それは、個人的な、もっと私的な、家庭用の冷蔵ロッカーの鍵だった。
「ほら、こっちの『君』は、私が寂しいとき用。
生きてる君は、ちゃんと人前に出す用。バレないようにね?」
それってつまり——。
「便利でしょ? 君って、二人いると、すごく便利」
僕は黙る。喉が震える。
鼓動が早くなる。これが生きてる証なら、そんな証明、したくなかった。
「でもね、ちょっと困ってるの。どっちがホンモノかって話じゃなくて、どっちがいらないかって話なんだけど——君、どっち?」
その瞬間、僕の背筋がぞわりと冷える。
まるで今この瞬間、「冷蔵されていない方の僕」が、冷却処分されようとしているみたいに。
僕は喉を鳴らして、無意識に問い返す。
「——俺って、どっちなんだ……?」
その問いに、彼女は答えない。
代わりに、唇に人差し指を立てて、
「しーっ」
ロン毛の教師が、そこに居た。