歴史におけるウマ娘 作:久保田
流鏑馬とは何か──。歴史の中を駆けるウマ娘たちの矢音をあなたは聞いたことがあるだろうか。
流鏑馬(やぶさめ)は、古よりウマ娘たちが受け継いできた「騎射の儀」である。疾走しながら矢を射る。美技にして武技、信仰にして競技。まるで、時を超えて響く鏑(かぶら)の音そのもののように、多層的な意味を背負っている。
もとは「鏑流馬」とも記された。すなわち、鏑矢を放ちながら駆けるウマ娘のこと。飛距離は、和弓と同様200メートルから、時に1キロを超すものまで。風を切る蹄音とともに、矢が空を裂く――それが流鏑馬である。
鏑矢とは、矢の先に鏑(かぶら)と呼ばれる中空の木製具を装着したものである。その材には朴や桐が好まれ、時に鹿角や竹根なども用いられた。矢が放たれると、その空洞が風を巻き込み、「ひゅう」と空を鳴らす。まるで空そのものが目覚めたように、その音は戦の合図であり、儀礼の始まりであり、時に神々への祈りでもあった。
その古い武芸は現代に息づき、古式技術として親しまれている。今なお、流鏑馬は失われていないのだ。小笠原流、武田流といった古流が受け継ぐのはもちろん、神社の神職、氏子、あるいは学園所属のトレーニングセンター系の保存会たちによって、伝統は守られ続けている。これらの実施形態は、神事であることもあれば、信仰色のない行事(催事)として催されることもある。
──けれど、それはただの保存ではない。かつての技を受け継ぐ者たちは、「技そのものよりも、精神を絶やさぬこと」を使命としているかのように見える。目立たずとも、彼女たちは射場の片隅で静かに矢を磨いている。
近代以降には、武技に加え、スポーツとしての流鏑馬も誕生した。トレセン学園では、それが最も一般的な流鏑馬の形とされ、今では全国各地で競技化されるに至っている。
日本列島において、ウマ娘がいつ頃から矢を射りはじめたのかはよく分かっていない。しかし、ウマ娘がこの飛び道具を扱い出したのは遠い北の地からであったことは分かっている。
ウマ娘による騎射の萌芽は、古墳時代以降の東北地方、蝦夷(えみし)たちの技術に見ることができる。ある蝦夷の少女は、地に耳をつけ、風の流れを読み、蹄の気配を探ったという。彼女たちは短弓を手に、北の森を駆けた。その技は弥生以来の長弓の記憶と交わり、やがて一つの術へと変貌する。これが、弓馬術の始まりであった。
これは、単なる武芸ではなく、突撃力・攻撃力を中世に至るまで高め続けた戦の知恵でもあった。
5世紀の古墳からは、鏃や馬具(もちろんウマ娘専用設計のもの)、甲冑や直刀などがまとめて出土する。これは、ウマ娘に最適化された戦闘文化が一括して導入されていた証左である。
現代とは異なり、この頃はまだ神話の彼方から響くものがウマ娘による騎射、現在の流鏑馬であった。
神事としての流鏑馬は、かつて「馬的射(むまゆみいさせ)」「騎射(むまゆみ)」「矢馳せ馬(やはせむま)」と呼ばれていた。日本書紀には天武天皇の9年(682年)、長柄神社でのウマ娘騎射が記され、また、賀茂祭の日の流鏑馬を禁ずる記録もある。その存在はすでに天皇家の儀礼に組み込まれていたのだ。
流鏑馬の原型とされるのは、欽明天皇の時代、豊前宇佐の地で神功皇后・応神天皇への祈願として行われた一騎射儀。最も弓馬に秀でたウマ娘に、約800mの距離から三つの的を撃たせるという神事である。
あの時放たれた一本の矢が、後のすべての矢声の始まりだった。
貴族文化から武家文化に移行する時代―平安から鎌倉へ―において、貴族のウマ娘から武家のウマ娘へと騎射の引導は渡されることになる。描く時代の曲線は変化し、はんなりとしたものは荒々しいものへと一変した。
『吾妻鏡』には、源頼朝が西行に流鏑馬の指南を受け、配下のウマ娘たちに技術を継承させた記述がある。また、春日大社では「流鏑馬十騎」が大和武士によって奉納され続けている。やがて鎌倉期には、笠懸・犬追物と並び「騎射三物」と称され、武士のたしなみとして社会に定着した。
このころ、騎射様式は「正面打起し」として確立。鐙や鎧もウマ耳や尾に配慮した設計へと進化し、ウマ娘の体に自然な形で技術が融合するようになっていく。
さて、このようにウマ娘が戦場で弓を扱った場面を考えるとき、ついつい前口上から始まる、作法に則った礼儀正しいものを浮かべがちであるが、実態は異なったものと考えられている。
一騎討ちの騎射戦は、絵巻や物語に残るわずかな記録を除けば、現実には集団戦の中で生まれる例外に過ぎなかった。『今昔物語集』では源アツルと平ヨシフミが騎射による一騎討ちを行ったとされ、『前九年合戦絵巻』には一騎討ちの直前が描かれている。戦いの中で的に向かって突進しながら放たれる「馳射」や、追撃しつつ後方から放つ「押し捻り」(パルティアンショット)など、そこには実戦の合理と美が共存していた。
江戸時代においても、騎射は武士階級のウマ娘の重要な修練であったが、そのためには高い禄が必要であり、旗本以上の家系に生まれた者のみが本格的な修練を受けることができた。
徳川の治世は平和の時代であり、戦場での技術である流鏑馬は廃れかけてしまった。しかし、流鏑馬の再興に成功する。
徳川吉宗は享保年間に小笠原流の小笠原常春に命じ、再び流鏑馬の儀を制度として整備させる。高田馬場での奉納は、その後の絵巻としても残されており、ウマ娘による祭祀と武技が結びついた代表的事例である。
「病を癒すための祈りに、風を裂く矢を。」それは、言葉よりも確かな、矢の約束だった。
なお流鏑馬には現在、「小笠原流」と「武田流」の二系統が存在する。
小笠原家では、戦国期に家を二分し、礼法・弓馬の道統を別家に託すことで伝統を護った。弓馬礼法の家は徳川将軍家に仕え、代々ウマ娘の射術を指導。明治神宮や靖国神社をはじめとした各地で、今日に至るまで式を執り行っている。
なお、小笠原流の射法は「正面打起し」。これは日置流の「斜面打起し」とは異なり、騎射由来の礼射系流派としての美学を体現している。
そして、いま──矢の音は未来へつながろうとしている。
近代の混乱、二度の衰退期を経ながらも、流鏑馬は再び甦った。今では日本各地で開催され、観光行事として、また競技として、「矢を放つウマ娘」の姿は未来へと継承されている。
文明は蹄音を失い、街灯の明かりで夜を征した──けれど、その光の中で、ウマ娘は今日も静かに矢をつがえる。
「便利になって、効率よくなって、それで何が見えなくなったか──」
そう言いたげに、彼女たちは風を射る。
トレセンの端にある小さな射場では、名もなき学生ウマ娘たちが、授業中、練習を続けている。的の木は何度も新しくされたがそこに刺さった矢の痕は、誰の記録にも残らない。でも、風の音は知っている。毎日、誰かが矢を放っていたことを。
消えゆくものの名を、矢にして。まだ届かぬ明日へ、音もなく放ち続けている。
――――――
2009年、春がまだ目を覚まさぬ関東平野の北端。八戸駐屯地は、夜の霧をそのまま朝に引き継ぎながら、眠りの名残を漂わせていた。大地は芽吹きを拒むかのように沈黙し、空気は微かに土の匂いを含んでいた。
ツキミソウ二等陸尉は、霧のなかに蹄の音をひとつ、置いていた。迷彩服の胸元に貼りつく封緘辞令が、氷のように無言の重さを放っている。
その命令は、あまりにも簡潔だった。
「やぶさめ戦技研究小隊へ転属を命ず」
憧れだった普通科所属は、わずか一年で終わった。代わりに命じられたのは、未知の領域──「実験部隊」。しかも“やぶさめ”。風習か競技か、神事か戦技か。彼女にとっては、定義不能の不安そのものだった。
ツキミの尾が、音もなく風を払った。耳は霧の粒を拾いながら、空虚な波を彷徨っている。表情は硬く、しかしその手袋の下では、微かに手が震えていた。
彼女の掌が、記憶の蹄音を呼び起こしていた。
「……また、あっち側か」
その声は、風にも届かぬほど小さかった。声というより、断絶された過去の残響。
流鏑馬──彼女の記憶では、それは軍事訓練ではなく、祈りに似た何かだった。
東京・八王子の実家で幼少期に見た光景。母の背で学んだのは、戦術ではなく神事だった。矢は武器ではなく、願いの媒介。放たれた矢は、何かに届くと信じられていた。
だがツキミソウは、そのすべてを棄てた。科学が支配する「答えのある」世界。彼女が選んだのは、数式によって補正される照準、最適化された動線──つまり、計算可能な現実だった。
それなのに、命令は彼女を再び“原点”へと引き戻した。
そして今、背後で鳴る蹄鉄の音が、皮肉の句読点のように響いた。
「風は数値化できない。だが、感じる者がいる限り、“武技”は絶滅しない」
その言葉は、桐雨之道一等陸尉のものであり、ツキミの耳ではなく背骨を通して心臓に届いた。
やぶさめ戦技研究小隊──それはもはや「戦術」ではなく、「再定義」の場だった。GPSも電子照準も機能しない妨害環境下で行われる、目と音と身体とのみで成立する戦い。
風を読み、命令のかわりに矢を放つ。視覚に頼らず、音と身体だけで構成される非言語戦。
──ツキミは、その理論破綻の渦中に立たされていた。
夜明け前の訓練場。蹄が滑る訓練台に立ったツキミソウの長耳が、風を裂く音にかすかに揺れた。
耳が捉える“風音のスペクトル”──それは、ウマ娘特有の第六感。
だが、彼女はその感覚を信じ切れずにいた。
そのとき、彼女は“マキシマム”と出会う。
白銀のたてがみ。呼吸までも律されたような、鋭利な静けさを纏う少女。矢をつがえる動作に宿るのは、戦術ではなく対話だった。
そして、矢が放たれた。
風が道となり、矢はその問いに応じ、大気に言葉を刻んだ。数値も照準も不要。ただ音があった。
「矢は問う。矢は聴く」
マキシマムの言葉に、ツキミの皮膚がわずかに総毛立つ。──否応なく、身体がその意味を知っていた。
風を読む訓練。音で標的の位置を知る演習。跳ね、旋回しながら放つ跳躍射。人間の身体では不可能な技を、ウマ娘の身体能力が実現する。
さらに、蹄鉄に埋め込まれた共鳴素材によって、通信不可能下でも「蹄音による合図」が可能になった。
音が、言葉となった。
だがある日は、矢が折れる日、音が生まれる日だった。
春の合同演習に向けた風圧試験。
その日、ツキミの世界は無音となった。
矢をつがえ、風に耳を澄ます。だが、風が暴れた。感覚は乱され、矢は小刻みに震えた末に──落ちた。
矢音は、なかった。
それは、ただの棒だった。
演習記録は急落。上層部の報告には、「技術未成熟」「適性再評価」の文字が並んだ。
ツキミは、再び孤独な夜へ戻った。
彼女は、感情を殺してきた。母の祈りを理解できなかったあの日から、弓を科学へと翻訳し続けた。
だが──マキシマムは、ただ静かに言った。
「音を消すんじゃなく、音を自分の矢にするの」
そして、ひとつの矢が放たれた。わざと外れたそれは、壁に当たり、射場全体に反響を巻き起こす。
震えが伝わった。
風が彼女の耳を洗うように通り過ぎた。
ツキミは目を閉じ、もう一度矢をつがえた。
──空気が、割れた。
風がその進路を祝福した。
音が、彼女の中に残った。
それは、母の声だった。
「これは祈りでもあるのよ。あなたの音は、誰かに届くから」
北海道の道演習場。雪解けの大地はまだ冷たく、都市型模擬区画は煙幕に包まれていた。電子妨害下、GPSも通信も遮断。
ツキミソウは“音”で戦っていた。
風のうねり。足音の反響。敵兵の呼吸。
彼女の耳は、すでに世界そのものと呼吸していた。
右斜め前、白煙の影──照準よし
同班のスミヨシメイチが、蹄音コードで合図を送る。
都市型走射術の達人。背面射で敵を翻弄する彼女は、「走る矢音」を具現化する者だった。
ツキミソウは、跳躍と共に矢を放った。煙幕のなかを抜け、目に映らぬ敵を貫いた。
やぶさめ──それは、ただの技ではない。
音が言葉になり、矢が祈りとなり、走ることが生きることになる場所。
風は、すべてを知っていた。
それから時は経ち、3月。スミヨシメイチは笑った。
「ツキミ先輩、あんたの記録、私が継ぐで。矢音、絶やさへん」
ツキミは、静かに微笑んだ。
任期を終え、離隊した。
新たな就職先は、上山トレセン。これまで一度も立ち入ったことのない、未知の舞台。
そして最後の一矢を、入学式の空へ放った。
それは──開幕の一矢だった。
どれほどの生徒が、流鏑馬を選ぶかは分からない。
だが、音はきっと未来へ届くと、彼女は信じていた。
――――――
✦ 特集:未来へ継がれる祈りの音
――ツキミソウ教諭に訊く、“流鏑馬”という教え
取材場所:上山トレセン校内射場
記者:青葉 智弘(あおば・ともひろ)
小さな射場。
午後の風が、何も語らぬ的の前を通りすぎる。
その場所に、一本の矢が残されていた。
痕跡はない。だが、音はまだ風の中に残っていた。
この春、上山トレセンの体育科に正式着任したツキミソウ教諭は、自衛隊に所属した経歴を持ち、流鏑馬の再定義と再興を担ってきた風を射る者である。
私たちは彼女に訊いた。
「いま、なぜ流鏑馬なのか」
「教えるということの意味とは何か」
──まず伺います。あなたにとって流鏑馬とは何ですか?
「昔は、音にして届かせることだと思ってました。
でも今は、もう少し違っていて…届かないかもしれないものを、それでも放つこと、と思っています。
教員になって、射場に残る誰かの音を毎日見るようになって。
矢の当否や点数より、放とうとした意志の方がずっと深く残ることに改めて気づいたんです。」
◆ 教師として、「技術」を超えて伝えたいもの
──現在、上山トレセンでは流鏑馬を授業として教えておられますね。近代的な競技体系の中で、このような伝統武技を教える意義とは?
「よく、いまどき流鏑馬なんて古臭いって言われます。
でも、私にとって流鏑馬って、自分と世界を繋ぎ直す技術なんです。
弓の弦って、ごまかせない。射場って、心が震える場所なんです。誤魔化しが効かないからこそ、生徒たちは素で向き合わざるを得ない。
成績のいい子も、そうじゃない子も、等しく何かを放とうとする──その瞬間が、美しいんです。」
◆ 数値じゃ測れないものを教える
──「効率」や「答え」が求められるこの時代に、それはかなり逆行しているようにも見えます。
「逆行してる、かもしれませんね。でも、必要なんです。
今って、GPSがあって、レーザー照準があって、風速計もある。でも、風を感じて放つ矢は、どれにも置き換えられない。
私が教えたいのは、当てる矢じゃなくて、届く矢。『当てるな、届かせろ』ってよく言うんです。外れてもいい。祈りが込められていれば、矢は生きてる。」
──流鏑馬を祈りと捉える視点は、非常に印象的です。
「……自衛隊にいた頃、風が暴れて、矢が無音で落ちたことがありました。
技術は正しかった。でも、音がなかった。
その時、私はここにいるって実感が一瞬で消えたんです。
それ以降、私は矢に音を乗せることの意味を探し始めた。技術よりも、祈りや、感覚や、母の教えの方がずっと強かった。
いま、生徒たちに教えているのは、ある意味でその矢の続きです。」
◆ 「風は知っている」──未来へ矢を託す
──教員として、今後の流鏑馬教育にどのような希望を持っていますか?
「この射場で、毎日誰かが矢を放ってる。
的の木は新しくなっても、残るのは音だけ。
記録にも残らない矢。でも、風は知ってる。あの子がここで、矢を放ったってことを。
だから、私は教え続けたい。便利でも、効率的でもなくても、矢が祈りになれる場所を教えてあげたいんです。」
◆ 最後のひとこと──生徒へ贈る言葉
──これから流鏑馬を学ぶ子たちへ、ひとことお願いします。
「当たらなくてもいいと思う。音が残れば、それでいい。
風は、ちゃんと聴いてくれてますから。」
✦ 編集後記
ツキミソウ教諭は、矢を放つ姿勢で語る人だ。
言葉より静かに、けれど確かに、未来へ語りかける力がある。
それはきっと、かつて矢が祈りだった時代と同じだ。
上山トレセンの射場では、今も誰かが、風を射ている。
文明が蹄音を失っても──、流鏑馬は、生きている。