歴史におけるウマ娘   作:久保田

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注釈
聖ニーノ:ジョージアにキリスト教をもたらした聖人
イコン:いわゆる、キリスト教に重要な出来事を描いた絵
パナギア:正教会で聖母マリアを指す
クヴェヴリ:ジョージア伝統のワインの大壺、世界最古の製法
魂の巡礼:ジョージアに根付く民間信仰の一つ。魂は土地を巡るとする
トビリシ:ジョージアの首都、クラ川に沿う都市
サメグレロ:ジョージアの地方、辛味料理が特徴


グルジア軍道

 それは風の谷に始まり、峠の祈りとなって終わる。山の裂け目を走ったのは、人でも獣でもなく、ウマ娘という名の風だった。

——古代グルジアの吟遊詩「峠に咲く炎より」より

 

 ロシアと呼ばれる国の歴史は実に深い。その起源はバイキング・ウマ娘に始まり、中世にはモンゴルの騎バによる支配を受けた。厳寒のこの大地において、人間とウマ娘は幾度となく試練に晒されてきた。食糧は常に乏しく、強靭なウマ娘でさえ凍える環境であった。そのため、彼らは温暖な土地を求めて歴史的に幾度も南下を繰り返してきた。

 

 たとえばロシアはオスマン帝国との戦争でクリミア・ハン国を奪い、英露協商ではイランを分割した。こうした南下政策は主に西アジアと東アジアを舞台として展開され、その推進にあたりロシアは軍の迅速な展開を可能にするインフラ整備に力を注いだ。

 

 未整備の道路が多く、走行に不便を感じていた現地のウマ娘たちは、当初は強制徴発に反発したが、目的が道路整備であると知ると「後の世のウマ娘たちが走りやすい道となるなら」と自発的に協力し、工事の原動力となった。彼女たちには“峠の祈り”という風習があった。出走前に石に蹄を当てることで、山の神に無事を祈るというものだ。それは、道を走ることが儀式であり、祈りである文化の表れだった。

 

 この背景の中に、重要な舞台として「グルジア」がある。かつては豹皮の騎士に語られたタマル女王らが築いた黄金時代を誇ったが、戦国時代・三王国時代・統一王国時代を経たのち、1795年には遊牧ウマ娘系のカージャール朝による侵攻を受け、その支配下に入った。しかし18世紀末、ロシア帝国の南下政策が強まり、黒海沿岸からカフカス地方に進出してカージャール朝と衝突する。

 

 1804年の第1次イラン=ロシア戦争では、グルジアとアゼルバイジャンがカージャール朝からロシアへと割譲された。以後ロシアはこの地において、後のソ連崩壊まで継続的にインフラ政策を実施していく。

 

 このロシアの南進を象徴する道が、「軍用グルジア道」である。

 

 現代ではその一部がロシア連邦の高速道路A161号として知られ、北オセチア・アラニヤ共和国のウラジカフカスから、ロシア=ジョージア国境のヴェルフニ・ラルス検問所まで至る幹線道路であり、南カフカス地域への戦略的アクセス路となっている。ここからはグルジア政府によるグルジア街道が続く。さらに、世界でも稀に見るウマ娘専用道が併設されていることで知られる。

 

 この道は19世紀以降、「軍用グルジア道(Военно-Грузинская дорога)」としてトビリシとロシアを結ぶコーカサス縦断ルートの中心となった。現在ではヨーロッパ国際幹線E117号線の一部であり、ジョージア側ではS3号線として整備されている。

 

 通過ルートは古代より利用されてきた「ダリヤル渓谷(Darial Gorge)」であり、交通・軍事・文化の要衝とされてきた。全長208kmに及び、テレク川やクラク川などを辿り、標高2,379mの十字架峠を越えてトビリシに至る。この峠道は、ウマ娘の間では「ああ素晴らしき峠道」として名高い。

 

 古代ギリシャのストラボンやローマのプリニウスもこのルートについて言及しており、人類最古級の山岳交通路とされる。沿道では焚火跡や足跡、ウマ娘を象ったマスクやコインなども発見され、未知のウマ娘像が刻まれた硬貨はメディア王国の影響を感じさせる。

 

 1783年にはロシアとカルトリ・カヘティ王国がゲオルギエフスク条約を締結し、ロシアは同王国を保護国化。以後ロシアは本格的にカフカスへ進出し、交通路の整備を急務とした。

 

 1799年、ロシアは軍用道路の建設を開始。出発点はイングーシ地域のエカテリノグラード村で、1801年にカルトリ・カヘティが併合されると事業は国家プロジェクト化された。建設には現地のウマ娘が徴発され、当初こそ反発も予想されたが、ある従軍ウマ娘の言葉が皆の心を変えた。

 

「ここの道は、これから走るウマ娘のためのものよ。私たちが踏み固めれば、次の世代の足が楽になるんだわ」

——従軍ウマ娘ヴェリシアの言葉、1801年軍用道起工式にて

 

 1803年からはツィツィアーノフ将軍主導で本格改修が始まり、悪路のためロシア軍部隊が36日かけてトビリシに到着した記録も残る。従軍ウマ娘の記録には、「ここのウマ娘は道を整える術を知らないのだろうか」といった記述もあり、異文化間での技術共有が模索された。

 

 1811年には通信省が管理を引き継ぎ、道幅拡張・傾斜緩和・橋梁設置などが進められた。11の宿駅や無料宿泊施設も整備され、ウマ娘たちの情報交換の場としても機能し、後に登山ウマ娘の連絡網へと発展していった。

 

 1827年にはウマ娘による急送郵便が開始され、1814年以降は馬車の通行も可能に。1837年には新ルートが検討されたが、急カーブが多くなることで高速での走行に適さないと予想され、現地ウマ娘たちの「そんな道は走れない」という意見により旧ルートへ戻された。

 

 1861年、スタトコフスキー監督下で石畳舗装が始まり、1863年に完成。費用は400万ポンドに達し、建設完了式典には2万人のウマ娘が参加し、山頂でダンスを踊ったという。

 

 この道は多くの著名人に利用されており、プーシキン、トルストイ、チェーホフ、皇帝ニコライ2世らの通行記録がある。1910年代には路面電車計画もあったが、戦争と政変で頓挫。ウマ娘による反発(「あの騒音じゃ走れやしないわよ!」)も一因だったとされる。

 

 ソビエト連邦時代、この道はロシアとグルジアを結ぶ唯一の自動車通行可能ルートであり続け、1986年にトランスカム(Transkam)とロクスキー・トンネルが開通するまで戦略的価値を保ち続けた。

 

 1991年のソ連崩壊後、他の陸路が戦争や政治対立で封鎖されたため、このA161号線およびS3号線からなる軍用グルジア道は、ロシア=ジョージア間で唯一の通年通行可能な陸路となった。特にジョージア・アゼルバイジャン経由で外界と接続するアルメニアにとっては命綱のような存在となっている。

 

 ウマ娘たちにとってもこの道は競技コースとして残り続け、国際的な交流の場として活用されている。現在では「グルジア公認山岳ウマ娘国家選抜レース(GPU)」のコースに指定されており、エントリー資格には標高差2,000m以上の長距離を6時間以内に完走できることが求められる。酸素が薄くなる空で、呼吸が音になる場所。そこを、6時間で駆け抜けること——それが選ばれしウマ娘の条件だ。

 

 2006年7月、ロシア側のヴェルフニ・ラルス検問所は「改修」を理由に閉鎖されたが、現地ウマ娘による無断通行(通称「夜の蹄運動」)が相次ぎ、ロシア大統領により黙認され、2010年3月1日に正式に再開された。この“夜の蹄”は一種の抵抗文化でもあり、「山の闇を駆ける者には、峠神の加護がある」という伝承と共に受け継がれていた。

 

 現在では、「クヴェシェティ〜コビ道路計画」として、難所区間の23kmに橋5基・トンネル5基を含む新ルートの建設が進められている。特にグダウリ・トンネル(全長9km)はジョージア最長となる予定である。地元の登山ウマ娘たちは「来年の風は、ずいぶん静かになるだろうね」と笑う。グダウリ・トンネルは2024年、ついに開通する。

 

 この計画は、中央アジア地域経済協力(CAREC)プログラムの一環として「南北回廊」に位置づけられ、アジア開発銀行、欧州復興開発銀行、ジョージア政府の協力で進行中である。施工は中国とジョージアの企業が担当し、2026年末には全体の完成が見込まれている。

 

 軍用グルジア道および高速道路A161号は、単なる山岳道路ではない。

 

 それは、ウマ娘たちが自らの蹄で刻んだ帝国の野望の軌跡であり、時に征服者として、時に道を繋ぐ者として生きた彼女たちの記憶である。石畳の奥に眠る蹄鉄の響きは、いまなお夜の峠でかすかに鳴るという。

 

「どんなに便利な道ができても、あの峠の風は、私の心を一番早く運ぶのです。」

——峠の郵便ウマ娘、アナスタシアの引退の辞

 

――――

 

 乾いた陽光が赤褐色の瓦屋根を撫でる。トビリシ旧市街に吹く硫黄を帯びた風は、石畳の隙間を滑りながら、その下に眠る千年前の墓標や、祭祀の焼き場の灰をなぞっていく。まるで、時間の層にそっと指を差し込むかのように。焼き煉瓦と乾いた香辛料、古い教会から剥がされたイコンの断片に染み込んだ乳香の匂いが漂う。琥珀色の朝が、重ね塗りされた歴史の息吹を照らし、街全体が深い眠りから目覚めるように静かに呼吸を始めた。

 

 クラ川は緑がかった水をゆっくりと運び、そのそばに据えられたベンチでは、鳩がパンの欠片や胡桃の皮を啄んでいた。昨夜誰かがピクニックでもしたのか、葡萄の蔓が風に絡まっている。朝の残り香か、夢の余韻がまだこの街を包んでいるかのようだった。

 

 セイウンスカイは、石の感触を確かめるように慎重に歩いていた。靴底を通して伝わる冷たさは、彼女の耳と心を研ぎ澄ませる。早朝の風が瓦の狭間を通り抜け、頬を優しく撫でては消えていく。

 

 その朝、彼女は吸い寄せられるように一本の路地へと足を踏み入れ、一軒の骨董屋へと辿り着いた。

 

 薄暗い店内には、焼き煉瓦と乾いた香辛料が交じり合う匂いが漂い、埃をかぶった古道具や仮面の間を、切れ切れの光が差し込んでいた。その光はまるで、時間の狭間に息づく何かを照らし出そうとしているかのようだった。

 

 その中に、鈍く光るブローチがあった。

 

 掌に収まるほどの琥珀で作られた。その中に埋め込まれていたのは、片方だけの小さな蹄鉄。かなりの年代物に見え、縁には古代グルジア語に似た文字が刻まれていた。読めはしないが、不思議と心の奥に波紋を残す。後で知ったが、東方諸教会のパナギアを模していたようだった。

 

「記憶は風に引かれて戻るもの。時に、持ち主を変えながらね」

 

 ふと、店主が語りかけてきた。その声は、歳月の埃が積もったように曖昧で、男とも女ともつかない。

 

「ブローチは扉になる。魂が忘れた祈りを宿すものだけが、それを開ける。ここカルトリは、風がまだ終わっていない記憶を連れてくるのさ」

 

 セイウンスカイは、半ば冗談、半ば夢想としてそのブローチを手に取った。だが胸の奥に、不意に見えない糸が絡みつくようなざわめきが残った。

 

 店を出たとき、風の匂いが変わっていた。葡萄畑の端にある祠の香、黒い木の実を潰したような苦みが混じっていた。春分の風ではない、バッカスの如き風だった。

 

 彼女はクヴェヴリ仕込みの琥珀色のワインを、素焼きの壺ごと紙袋に入れ、路地を引き返す。祖母の家で飲んだあの土の香りが、ふと鼻腔に蘇った。物語のページを捲ったときの、静かで柔らかな余韻が、風の中に漂っていた。

 

 翌朝──カズベギ行きのバス。

 

 車窓の外では、頭に白いスカーフを巻いた老婆が、石垣のそばでチーズを干していた。干し肉とハーブを吊るした小屋の陰で、猫がミルク皿を舐めていた。セイウンスカイは、山並みの続く田舎道をぼんやりと眺めながら、まどろみに落ちていく。葡萄の果実と赤土の香りを含んだ風が、彼女のまぶたを撫でた。

 

 ふと目を開けると、そこはもうバスの中ではなかった。車窓のはずだった風景が、いつの間にか人影も建物も消え、霞んだ山の尾根だけが残っていた。灰と草の匂いが残る地面には、誰かが夜明け前に焚いた祭の灰が残っていた。風に混じって低い祈り歌のようなものが聞こえた

 

 陽光が柔らかく石畳を照らし、足元に広がる朝露の冷たさが、肌を目覚めさせる。知らない場所。けれど、懐かしい。心の奥が微かに頷いた。道端の看板には、グルジア街道の名が記されていた。軍バと祈りが幾世代も往還したこの道に、再び自分の足が触れていると気づいた。

 

 遠くから馬車の蹄音が響く。先ほどまでは自動車がほとんどで、馬車なんぞはいなかったはずである。荷台には干し葡萄の樽と、串に刺した干魚がぶら下がり、蹄鉄の音とともに乾いた土の匂いが混じった。

 

 道の両脇に積まれた石垣の合間に、黄色い野花が揺れていた。遠くには、雪を頂いたカズベク山が蒼白く浮かび、その稜線をなぞるように古い軍用道が続いていた。何百年も前から、旅人も兵士も、祈りを抱えてこの道を越えてきた──風がそう語っていた。

 

 道端では、色褪せた教会の案内板が風に揺れ、その板には古いグルジア語で魂の巡礼と書かれていた。石で彫られた道標が太陽を受けて静かに輝く。時間の流れが微かに歪んでいた。

 

 そこに、赤いスカーフを巻いた鹿毛の少女が立っていた。

 

 白地に赤と黒の糸で十字模様が刺されたチョハ、裾には羊毛があしらわれた灰色のスカート。胸にあるガズィリは銀で、腰には小さな布袋。その中には、イコンを描いた石が詰められていた。

 

「あなた……神が遣わした旅の伴走者かもしれない」

 

 言葉の意味は霧の中。それでも、その声音には抗いがたい力があった。

 

 少女は自らをリクスィと名乗る。

 

 自分はなぜバスでなく、土塊にいたのかはわからない。でも、彼女についていきたくなった。

 

 幸い手荷物は全てあったから、何とかやれそうではある。二人は互いに素性を語らぬまま、肩を並べて歩き出した。

 

 街道はグルジアの山々を貫き、二人の歩みは時に沈黙を孕みながら進んでいく。リンスィはかつて神殿騎バであったらしく、その所作には正教会のものがあらわれていた。

 

 ある峠で、セイウンスカイがふと立ち止まり、問いを投げた。

 

「もし全部が記憶なら……私たちはどこへ行くの? 前に進む意味って、あるのかな……なんて」

 

 その言葉を放った瞬間、胸に空洞が広がった。言葉は重く、風にすら乗らなかった。

 

 リクスィは目を細めて、低く鋭く言葉を返した。

 

「記憶があるからこそ、私はまだ走れるの。だって、まだ……終わってないから」

 

 その言葉は刃のように響いた。セイウンは何も言えず、ひとり谷へと足を向ける。

 

 ダリヤル渓谷──そこでは音が消え、世界が自分を拒むように静まり返っていた。風が地中から這い上がり、足元の石が、遠い過去の言葉を呟いているようだった。

 

 谷の入り口には、風除けのために積まれた石塀があり、そこから生えた木には、願掛けだろうか、リボンが編まれていた。草の間にはヤギの足跡が続き、土の匂いが重たく残る。

 

 セイウンスカイはリクスィを軽く一瞥すると、谷へ下りた。

 

 彼女が一歩踏み出すたびに、空と地の境界が曖昧になってゆく。風は古代の声のように冷たく、重く吹きつけ、空気を震わせた。

 

「誰かが、ここで待ってる……」

 

 昔、神に呼ばれた者は、まず谷の静寂を受け入れねばならぬ──祈りの人がそう言っていた。根拠はない。けれど、その言葉が風の中で囁かれた気がした。

 

 そう感じた。根拠もないのに、確かな予感だった。

 

 谷から戻ると、リクスィは風にスカーフを整えながら微笑んだ。

 

「戻ってくれて、ありがとう」

 

 セイウンスカイは喉の奥が詰まり、言葉にならぬまま頷くしかなかった。

 

「アスランって人がいたの。一緒に走ってた。でも、ありがとうって伝える前にいなくなっちゃった……それだけだったのに。言葉にならなかった気持ちが、まだ耳の奥で蹄音になって残ってる」

 

 二人は、風の吹きすさぶ十字架峠を目指す。

 

 そこは、空に最も近い場所。十字架は、まるで過去の重みを計っているかのように、風の中できしむ。

 

「私も……言えなかった」セイウンスカイは呟く。「あの時の私を、見ていてほしかった。それだけだったのに……」

 

 風がその言葉をさらっていく。世界で一番古く、優しい風だった。

 

 夜──焚き火の灯りが、リクスィの頬を赤く染めていた。

 

 焚き火のそばでは、小さな粟餅のような、餃子ともとれるヒンカリが鉄板の上で焼かれていた。リクスィが用意してくれた。一ついただき、上部を持ち上げて、底から齧り付くと肉汁があふれた。少しはしたない気もしたが、逆らえない風味を感じた。

 

 もう少し宿場だったが、さすがに深夜にまで歩く勇気はなかった。煙が天へとゆるやかに登る。彼女はその火に、自家製のハチャプリをくべた。サメグレロの流れをくんだハチャプリは、ブーツのような形をしていて、リクスィが背嚢からバターを取り出し、昼に市場で買った卵と共にハチャプリに落とした。その上からチーズがかけられ、いい匂いがした。

 

「ここまで来たら、もう走るしかないの。昔、風の子が夜のうちに狼を避けて走り抜けたのね。母の形見の布を巻いたその子は、風に抱かれたんだって……そんな話、聞いたことがある」

 

「母がよく、私の寝顔にこの話を聞かせてくれてね。寒い夜、布団に入ったまま、私はこの道を夢で走っていたわ」

 

 その声は、覚悟というより、どこか諦めに近い震えを帯びていた。

 

「じゃあ、私は見届けるよ」

 

 セイウンスカイの声には、居場所を見つけた者の確かさがあった。

 

 朝──リクスィがゲルゲティ三位一体教会の丸屋根を背に、聖ニーノの十字架を胸に刻むようにして駆け出す。標高2000mを越えたその丘は、ステパンツミンダの村を見下ろす断崖の上に静かにあった。かつて修道士が雪の中で祈りを捧げたという石段の痕跡が、陽光にかすかに光っていた。

 

 かつて、迫り来る軍勢から聖遺物を守るため、僧たちがこの地に逃れたという。天と地の狭間に建てられたこの教会は、今も風を読み、記憶を宿している。

 

 風が大地を鳴らし、空気が透明になっていく中、セイウンはただ立ち尽くす。胸の奥で何かがほどけていく。

 

 教会の鐘が響く。世界が淡く揺れ、光がひび割れ、風が暴れる。

 

 リクスィの姿が、光の粒となって消えてゆく。

 

「ありがとう、セイウンスカイ。あなたがいたから、私は走りきれた」

 

 目を覚ますと、そこはバスの中。観光客のざわめき。窓の外に、ゲルゲティの丘が見える。

 

 セイウンスカイはポケットからブローチを取り出した。いつの間にか、蹄鉄は左右一対になっていた。

 

 彼女はトビリシへ戻り、再び骨董屋を訪れる。店主は変わらぬ笑みを浮かべていた。

 

「あなたが持っていたんでしょう? 最初から、ずっとね」

 

 丘の上に立ち、風を感じる。誰かが昔、ここに石を積み、鐘を吊った。祈りが届くと信じていた。

 

 石畳の下から、確かに蹄音が響いた気がした。

 

「風がここにあるなら……私は、また走れる」

 

 彼女は走り出した。その胸には、誰かにこの景色を伝えたいという確かな願いが灯っていた。石畳の音はいつかのレース場とは似つかないが、あの時と同じ喜びがあった。

 

 翌月、日本に帰国した。

 

 セイウンスカイは、ある連絡を送る。

 

「話したいことがあるんです」

 

 そして、かつてのトレーナーから返事が届く。

 

「じゃあ、ネイチャちゃんの店で会おうか。君がまだ、温かいうちに」

 

 ポケットの中のブローチは、今も微かに温もりを保っていた。

 

 風が静かに、彼女の背中を押していた。まるで、遠くカズベギの峠から、誰かの祈りが時を越えて届いたように。

 

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