誰かがいれば顔を向ける。話し始めれば足を止める。それ以上の反応はない。しかし、話しかけなければもっと虚ろになってしまうのではないかと思わせる。
最近戻って来た町の娘がよく彼の隣に座るようになった。惚れっぽい彼女の事、緊張で話しかけられないのか、単に隣にいるだけで満足なのか、他の住民とは違って話しかけたりはしない。だが、その所為で彼はあまり彼女を見ない。隣で黙々と地図を書き足し、装備の調整をする。彼女がそこにいない時と全く変わらない振る舞いで、いずれ彼女が勝手に冷めるのも時間の問題だと思えた。
「むしろどんなきっかけがあって惚れ込んだのやら」
「妙な夢から覚めて目の前にいたとかじゃないか?」
「妙な夢?」
「ふらふらと洞窟を潜っちまう夢さ。実際はただ目の前にいただけなんだが、その眩い夢を取り除いて、夢の中から拾い上げられたような感覚を覚えるのさ」
これは俺の体験談に過ぎないが、と道具屋の店主は締めくくる。そう言えば、彼女が語った騎士様の話。誇張が過ぎて誰の事やらさっぱりだったが、拾い上げた、目の前にいた、そして今現在追っかけをしていると言う点に絞れば共通項はある。
「1度なら偶然、2度目は迷うところだが、実際に体験すると、そうとしか思えない何かがある。あんたはまあ他人事と思ってくれてもいいと思うけどな」
「……不思議な若者だな」
「んー、俺としては若者であるかどうかも疑ってるな」
「そうなのか?」
「あいつの指先を細かく見た事があるか? あれは完全に子供の手、それもすごく幼い雛の手だ。ありゃ、まともに成熟出来てりゃ結構大きな種だろうな」
店主の視点は思っても見なかったものだ。この店主も大概謎が多い。多少は年をとっているようだが、老いるのがやや遅いように感じる事もある。
「それにしては釘の持ち方に長年の癖が染み付いている。実は俺より年上だったなんて言われても驚かないね」
◇
近頃町を拠点にしている放浪者。どうやら最近俺の弟子から釘を習ったようだ。長年の癖はあっさり修正されて、完全な我流からきちんと習った者の動きになった。
今後も学び続ける気があるのかと言う問いにはいつもの無口無表情だったが、おそらく偶然他の弟子達を見つけるような事があれば習うのだろうなと予想している。
しかし、知れば知るほど妙なムシだ。幼い体躯に、長い時間を感じさせる落ち着いた仕草。それなりに長く生きている俺でもよく分からない遺物の破片を、高い値段をふっかけられても集めている。まあ、何だか分からない臭い卵も言われるがままに買っていたから、単に何も考えていないだけかもしれない。臭いも感じ取れていなさそうだ。
1つ言えるのは、こいつはよくいる放浪者とは目的が異なりそうだと言う事。実のところ、こいつと同じ種のムシは見た事がある。このダートマウスに隠居同然に居着くようになる前、ハロウネストのあちこちで時々見かけたのだ。
どいつもこいつも無口無表情。そもそも声を出したり表情を作ったりする能力がないのではないか。そして、流石にこいつ程小さな個体はなかったものの、俺が見かけたそのどれもが子供だった。大きめの個体ならそこらの大人のムシと同程度の背丈だったが、皆身体の作りが子供で、反応も単純。装備も一様に古びた釘と古い外套。大なり小なり戦闘訓練の痕跡があり、戦闘能力はそれなりにある、と言うか戦わなければ生きられない、もしくは生かしてもらえない種だったのだろうと思われた。
しかし、それはもう随分前の話だ。老いたムシ曰く、あいつは崖を越えてハロウネストの外からやって来たらしい。地図を使っているのもよく見かけるし、少なくともハロウネスト育ちではないのだろう。なんらかの理由で捨てられたり逃がされたりした個体なのかも知れない。
◇
夫曰く、小さな友。地図だけでなく地図を活用する為のコンパスや羽根ペン、各種ピンを一通り買い揃えている、うちにとっては大きな客。おしゃべり好きの老いたムシの話もよく聞いているから、夫の熱意ある話もじっと聞いているのだろう。
さりげなくこの小さな放浪者を観察してみる。夫と共にあちこち旅して来たつもりだが、この放浪者と同種のムシには会った事がない。一見子供のような姿だが、振る舞いに子供らしさはないし、背負った釘は相当に使い込まれている。怪しいと言うより得体が知れないと言った方が正しく、その思考は一切読み取れない。ムシに対して言うのも変だが、作り物めいた雰囲気だ。
「彼はつくづく勇敢だな」
「そうなの?」
「あのように怒り狂った獣達の巣でもいつも通りに奥へ向かって行ったよ」
「へえ。ってこの地図全然中身がないじゃないの」
「いや、今回は流石に恐ろしくてね。ちっとも奥へ行けなかったんだ。しかし、次の場所ではきちんとした地図を作り上げてくるよ」
「ふーん」
恐ろしかったと言う割に熱意は一切衰えていないようだけれど。でも、多少痛い目に遭っても突き進む夫が地図を諦める方が驚きか。
さて、あの思考の読めない放浪者の方は実際どうだろうか? 私には彼が目に見えて怯えるなんて想像もつかないが、もしすぐに戻って来るようなら、案外普通に恐怖くらいは感じる事もあるのかもしれない。
◇
その日はたまたま店主達が広場に揃っていた。普段からそこに立っている事が多い老いたムシと合わせて和やかな会話、と言うには妙な音楽が響いていたが。
「全くあの集団は何なのかしらね。テントを張ってからそれなりに経つけれど、それ以上何かしてくる様子はないし」
「何もしないのなら早く立ち去ってくれないものかね。いや何もない方がマシではあるが」
「あの放浪者は何か知ってそうだったから、目的はあっちなんじゃないか?」
「そうなのかね?」
「意図的にやるタイプには見えないが、たまに考え無しに動いてるのは見るからな。うっかり触って拠点にしている町に呼び寄せたってところだろう」
「あの子、うちの旦那が逃げ帰ったようなところもずんずん探索していったみたいだし、怖いもの知らずでもありそうよね」
「あれは突如として現れたからなあ。どこかに古い仕掛けでもあったのだろうか?」
「何にせよこれ以上妙な事にならなければいいのだけれど」
◇
正直者で、時々考え無し。頭は悪くないが、言われるがままに動きがち。
正直者過ぎて痛い目見てないかと話題を振ってみたところ、どうもちょくちょくジオを騙し取られたり高額をふっかけられたりしているらしい。それでも他人の鍵を盗まず素直に届けてくれるのは良い事だがな。
すぐそこで妄言を喋り続けている奴に悪評を語られているが、それについての弁明はないらしい。そもそも声がないから、こちらが当たりを付けて話さないと細かい話が出来ない為に諦めているのか。どうも全体的に不憫な奴だ。少し前までこいつを追っかけていた娘もすっかり騙されているし。他にはそんな馬鹿はいないのがまだ救いか。
黙々と装備を整え、探索し、地図を更新して、また次へ。本人の虚ろな雰囲気を差し引いても単純作業感が強く、よくある探検家のような宝探しの雰囲気は感じられない。資金は十分にあるようだから宝自体は数多く見つけていそうだが、目的はそこになさそうだ。
その様子を機械的と言ってしまうのは簡単だが、そうではないと思いたいのはこちらの願望だろうか。
◇
あの妙な団体は来た時と同じように姿を消した。恐ろしい音楽も仮面の集団もいなくなり、やっとゆっくり寝られる。しかも広場には新たな仲間が加わり、楽しい音楽を奏でている。
彼もまたあの崖を越えて来たらしい。だが、それを彼自身は覚えていない。状況からそうだろうと思われるだけで、ただ確かなのはずっと長い旅を続けて、この場所に何か用事があった事。それ以外は何も覚えていないのだ。
それでも彼もまたあの放浪者に親しげに話しかけている。放浪者の方にあの演奏家を知っているかと聞いてみたら、どうやら既知の間柄らしい。それ以上は聞き出せなかったし、演奏家にも話すつもりはないようだ。
だが、この結果は何らかの成果となったのか。彼らの間には達成感と、いくらかの寂しさが漂っているようだった。
近頃はあの地下遺跡の不穏な気配が強まっている。それでも、この町の平穏さだけは続いて欲しいと願っている。
◇
耳をつんざくような、しかしどこか神聖さを感じさせる叫びが井戸から聞こえた。
そんな時に放浪者がまた町に戻って来た。もはや売ってやれるものは残っていないが、住民達の顔を一通り見て行くつもりらしい。
「釘師……ハロウネストを出て行くつもりかい?」
それは違うようだ。
「なら、ダートマウスには戻らないつもりか」
沈黙。肯定も否定もないが、そう言う事だろう。
それにしても、放浪者の雰囲気は初めに会った時とは随分変わった。初めは釘の持ち方も我流で、目的もなくぼんやりしているようだった。それが釘の扱いを覚え、少しずつ目的意識もはっきりしていった。ある時からはどことなく威厳のようなものを感じるようになり、その一方でより深く影に紛れるようにもなった。そして今は……何と言ったら良いだろうか。空虚と言うと初めと変わらないが、より明確に空虚さが形を得たような……。
「ま、俺はずっとここにいるし、いつでもあんたの旅に幸運がある事を願ってるからな」
何があったとしても、助けには行かないし、行けないのだろう。
歩みに迷いはないが、それでも今ここに戻ってきた事。それが彼の心なのだと思う。
◇
その日は、とうとう夫の誘いに乗って再び地下遺跡へ向かう事にした。1番初めの頃に1度だけ一緒に潜って、その空気が好きになれずにその後は1度も同行していなかったのだが、今回は少し気が変わったのだ。
最近は特に悪い空気が酷くなっていて、特にダートマウスに近い交叉路の汚染が酷いと聞いていたのだが、予想に反して辺りには静寂が満ちていた。以前に訪れた時よりも静かで、悪しき空気など欠片も感じられない。最近は特に汚染の気配が強かったと言う黒卵の神殿も、今は静かにルマバエの明かりを灯している。
かつて少しだけ覗いた神殿内部はがらんどうで、何かが足りないと思えばあの大きな黒い卵のような構造物がなくなっていた。そして、その中央にうずくまる女性。夫がかつて緑の道で少し見かけた彼女の手元には、とても見覚えのある白い破片が抱えられていた。