ある放浪者の備忘録   作:名もなき放浪者

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器の道を外れて

 ハロウネストから逃げようとした。恐ろしいムシに食われかけた事は数え切れないが、幸いにもたかが器の1体に追手は差し向けられなかった。本当は他のムシ達に倣って崖を越えて外へ出ようとした。何があるのか知らないが、王国に留まるよりはマシだと考えた。けれど、少しの間身を隠そうとしたところで気になる碑文を発見した。

 荒野を進めば王国の齎す貴重な精神を手放す事になる。

 精神を手放すとはどう言う事か。そもそもこの文は本当なのか。精神が重要な物である事は痛い程知っている。精神を持たないきょうだい達が言われるがままに身を差し出していたのを見ていた。希薄でも精神があれば自らの道を選ぶ事が出来ると知っている。崖を越えて荒野の前に立った時、精神を失って生きているとも死んでいるとも言えない大きなムシ達が転がっているのを見た。

 結局、荒野を進むのは諦めた。ただぼんやりと外部のムシ達が行き来するのを眺める。自分とあの大きなムシが同じだとは思わないが、それでも精神を失うのが怖かった。王国関係者から身を隠す日々だが、戻ろうとはとても思えなかった。

 おそらくあれからかなり長い時間が経った。変わり映えしない日々に、成長も老いも遠い自分自身。その一方でたまに見る王国側のムシ達の姿が明らかに小さくなった。理由は分からないが、世代を重ねるにつれて少しずつ変わっていったのだろう。

 ある時、何かがざわざわとして落ち着かなかった。その時はすぐに収まったが、しばらく経った時、再び同じ感覚を覚えた。

 久しく足を踏み入れていなかった王国内に入る。植物が生い茂り、王国が築いた道や建物を飲み込んでいるかと思えば、そこかしこに酸が流れ込み、近くの葉が枯れている。正気を失って襲って来るムシ達を斬り捨て、ただひたすらに交叉路を目指す。そして、3つの仮面によって封じられた黒卵を見た時……一目散に逃げ出した。

 何故王国に戻った。自分は今何をしようとした。それが嫌だったから逃げ出したのではなかったのか。でも、光を封じる器にはヒビが入っている。夢見の守護者達はまだ力を残しているが、光の影響は外に出ている。王国を見る事の出来ない夢見の守護者達を退けねばならない。そして器を……。

「戻ったのね」

 そこに立っていたのは王国のムシ。それも器を知っている程度には中枢に近いムシだ。

「わたしはあなたを止めなければならない。知っているでしょうけど、半端な器を封印に近付ける訳にはいかないのよ」

 

 ……なんとかこの滅びゆく土地の守護者を退ける。与えられた装備と、ずっと昔に教えられた戦い方。相手が様子を窺うような動きだったからどうにかなったが、本気を出されたら命は無かったし、自分はこれ以上上達する事はない気がする。

 翳すように釘を持ち上げる。上等だった釘はいつの間にか古びてぼろぼろになっている。そんな釘でも、……同じようにぼろぼろになったこの殻は貫けるだろうか。

 切先を自分に向ける。自分はきっと封印の器にはなれない。汚染されて凶暴化した生物達を退けながら強力な封印を破り、先代から器の役目を奪う。どれもこれも難しく、しかし、それらが出来なければ眩い光を封じる事など出来る訳がない。

 役目が果たせないと自覚すれば冷静になって来る。白い王の道から外れたこの場所で自分は一体何がしたかったんだろう。ただ……、生きたかっただけ、なのかな。

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