「なあ、なぜ南へ向かう?」
風の吹く丘を越えながら、ディアスが問いかけた。彼の声は、空に溶けるように軽く、けれど真意を探る色があった。
オロスは雲の形を目でなぞりながら、静かに言った。
「南が、あるからだ。」
「……もう少し、頭を使った答えはないのか。」
「夢に出てきた変な男が、言ったんだ。『南へ行け』と。」
ディアスは眉をひそめ、口の端で笑った。
「頭、大丈夫か?」
「正常だ。」
答えは、空の青のように澄んでいた。
「俺は、北のほうが好きだな。涼しくて、静かで……」
「なら南へ行こう。歩いていれば、いずれ北に着く。」
「無理だな。世界は平らだから。」
「頭、大丈夫か?」
「正常だ。夢の男が言ってたからな。」
そのときだった。空を裂くように、かすかな馬のいななきと、女の悲鳴が風に混じって流れてきた。
ディアスが耳をすませる。
「……風だな。」
「いや、悲鳴だな。」
「いやいや、強めの、女っぽい風だ。」
「盗賊が馬車を襲ってる。」
「盗賊ごっこだな。」
「刃物が見える。」
「リアル盗賊ごっこだ。」
「助けるぞ。」
「英雄ごっこか?」
「……ああ。ごっこ遊びだ。だから殺しはなし。」
二人は草原を裂く風となって駆けた。高く伸びた草を踏み分け、舞い上がる土埃の中を疾走する。目指す先には、盗賊に囲まれた馬車。
オロスは一本の枝を振るい、刃を握る手首を的確に打ち据えた。鋭い音が鳴り、悲鳴が風に溶ける。
ディアスは空に向けて一発、銃声を撃ち放った。乾いた轟音が大地を震わせ、恐怖が空気を変える。
その音に、盗賊たちは一瞬動きを止める。そこを狙って、もう一人の影が素早く馬車の影から飛び出した。
それは一人の少女――いや、少女と呼ぶには鋭すぎる眼差しを持つ従者だった。
彼女は白のメイド服に身を包み、一本の細剣を携えている。その動きは舞踏のように美しく、しかし正確に盗賊の膝裏を蹴り抜いた。二人、三人と倒れ、戦いは、あまりに短く、あまりに騒がしく、血さえも流れぬままに終わった。
「……盗賊ごっこのほうが楽しそうだったな」とディアス。
「死んだ親が悲しむぞ」とオロス。
「確かに、そうだな。」
揺れる馬車の扉が、ぎい、と軋んで開く。
現れたのは、金色の髪を陽光に揺らし、青と白のドレスを纏った少女。紅茶とクラシック音楽がよく似合う、夢の国から来たような“お嬢様”だった。
そのすぐ背後に、メイドの少女が控えていた。銀の細剣を腰に下げ、背筋をぴんと伸ばして、冷徹ともいえる落ち着いた雰囲気を漂わせている。瞳の奥に静かに赤い魔力が揺れているのがわかる。
「……助けてくださって、ありがとう。英雄様たち!」
「英雄って呼ばれたの、初めてだな……」ディアスが呟く。
「最低賃金、いくら?」オロスの声が現実を引き戻す。
メイドの少女――エレノアが、一歩前へと出る。声には冷たくも丁寧な調子があった。
「主を前に、軽口はお控えください。」
「……失礼」と、オロスが口を閉じる。
「……まあまあ、エレノア。悪い方たちではないと未来が教えてくれましたわ」
「それでも、口が過ぎる方は信用に値しません。ご理解を」
ディアスがひそかに囁く。「オロス……この従者、ちょっと怖くないか?」
「お前が軽口を叩くからだ」
「わたくし、アイリーン・フローレットと申しますの。未来が見える者……つまり、“選ばれし乙女”ですわ」
「本当かよ?」とディアスが言えば、
「それも、見えてましたの!」
エレノアが、すっと視線を向ける。「疑うなら、それ相応の代償を覚悟してください。主の言葉は、真実の一端です」
「怖……」ディアスは思わず身を引く。
「ですが、暴力を好む者ではありません。どうか、怖がらずに」
「言葉と視線が怖いんだよな……」
「わたくしには、あなたたちが必要なのです。だって、夢の神殿へ行くのでしょう?」
オロスの目が、わずかに鋭さを増す。「……なにそれ?」
「あの奇妙な建物のことです。あのせいで、さっきの人たちはおかしくなった。神殿から戻った者たち、自我が、バグったのですわ」
「妄想?……可哀想に。」
「言い方、ひどくない?」アイリーンがむくれる。
「でも正しい。」
「今から、銃が落ちますわ」
ディアスがくるりとリボルバーを回し、腰のホルスターに収めようとした瞬間、手が滑り、銃が乾いた音を立てて地面に落ちた。
「……おい、今のは偶然だろ?」
「いえ、未来視ですわ。もっと驚いて?」
ディアスは無言で銃を拾い、空を見上げた。
「というわけで、あなたたちと旅をしますのよ。未来で、そう決まってましたから」
「いいよ、行く場所ないし。よろしく」
ディアスは驚き目を見開く
「怪しいだろ。もっと疑え」
「危なかったら逃げればいい」
「まじかよ」ディアスは呆れてまた天を仰ぐ
「悪くない話だ。服装からかなり裕福な人間だと判断できる。良い後ろ盾だ」
「従者のあんたはそれでいいのか?」 オロスは視線をエレノアに向ける。
エレノアは無表情で答えた。「主の選択に従うだけです」
「それでいいのか?」とディアスが問い直すと、エレノアは静かに言葉を続けた。
「いずれ、私があなた方の背を預ける場面が来るでしょう。その時、後悔させないでください」
「責任、重いな……」ディアスがぼそりと呟く。
空の向こうに春風が笑うように、アイリーンはにっこりと微笑んだ。
しばらくの沈黙が流れた後、オロスが口を開いた。その声はどこか躊躇しながらも、疑問を抱えたまま響く。
「……ひとつ、訊いてもいいか?」
アイリーンはその言葉に少し驚いたように顔を向け、少し間を置いてから返事をする。オロスの顔は真剣そのもので、何かを問う覚悟を決めたような眼差しが感じられた。
「さっき、“選ばれし乙女”って言ってたけど……それは、いったい、何のことだ?」
その質問に、車内の空気がひときわ重くなった。気がつけば、馬車の揺れが少し静まったような気がするほど、周囲の静寂が支配していた。アイリーンは微かに息を吐き、視線を窓の外へと向けると、ゆっくりと話し始めた。
「“選ばれし乙女”とは、私たちの国の聖典に記されている、伝説的な存在よ。百年に一度、神によって選ばれ、未来を見通す力を授けられ、国を導く者――そんな存在だと記されているの」
オロスはその話を聞いて、眉をひそめながら言った。「伝説の話か?」
アイリーンは少しだけ黙った後、頷いた。「ええ。でも、それが単なる伝説に過ぎないのか、それとも現実なのかは……誰にも分からないわ」
馬車は、ゆっくりと山道を進んでいく。窓の外には、薄い霧が立ち込め、遠くの森が白く霞んでいる。やがて、森の木々が次第に密集し、道の両側に巨大な木々が立ち並ぶようになる。
車内の内装は、上質なものだった。赤いソファのクッションはふかふかとしており、真鍮製のランプが、揺れるたびに暖かな光を放つ。カーテンの縁には、金糸で繊細な刺繍が施されており、豪華さを感じさせた。しかし、その華やかな装飾にも関わらず、車内には妙な緊張感が漂っていた。まるで誰もが、何かを避けるように静かにしているかのようだった。
エレノアは、アイリーンにちらりと視線を送り、そっと口を開いた。「……本当は、こんなふうに馬車で神殿に向かうのも、非常に危険なんです。でも、お嬢様がどうしても“お忍びで行きたい”とおっしゃって……」
ディアスはその言葉に反応して、驚いたように眉を上げた。「お忍び……?」
エレノアは軽く頷いた。「はい。神殿に向かうのは、かなり危険が伴う場所です。でも、誰でも入ることはできます。入ったからといって罰せられることはありません。ただ……」
そこで、エレノアの声が少しだけ低くなり、彼女の顔には思いがけない陰りが浮かんだ。
「神殿の封印を提案しても、なぜかすべて却下され続けてきました。ギルドも、教会も、議会も。どれだけ動こうとしても、結局すべてが立ち消えになってしまうんです。誰が反対しているのか、全く分かりません。でも、何度も感じたことがあるんです――“圧力”がかかっているとしか思えません。それも、かなり強いものが」
その言葉が言い終わると、車内にはひんやりとした空気が流れた。まるで一瞬、時間が止まったような感覚さえ覚える。
「よくわからないな」オロスは少し混乱した表情で呟いた。
エレノアはしばらく黙っていたが、再び口を開いた。「不思議なことに、世間ではこの神殿を“危険な場所”としてはあまり見なされていないんです。むしろ、ハンターたちが探索に訪れる、いわゆるダンジョンの一つとして認識されているんです」
「ハンター?」オロスが不安そうに訊ねた。
「はい。ダンジョンに潜り、遺物や魔導器を回収して生計を立てている人たちです」エレノアは簡潔に説明するが、その言葉にはどこか警戒心が感じられる。
彼女はそこで一度言葉を切り、視線をわずかに伏せた。何かを悩んでいるような様子だった。
「でも、この神殿だけは――帰ってこない者があまりにも多すぎるんです」彼女の言葉は、震えるような静かな強さを持っていた。
その言葉に、車内は再び静寂に包まれた。誰も何も言わなかった。ただ静かな時間が流れていった。
アイリーンはそのまま何も言わず、視線を窓の外に向けた。彼女は膝の上で静かに指を組みながら、何かを考えているようだった。その表情は、どこか遠くを見つめるような、深い思索の中にあるように見えた。
やがて、アイリーンが隣のオロスに目を向けると、軽く声をかけた。
「あれ? オロス、帽子、持ってないの?」
「帽子?」オロスは戸惑いながら、首をかしげた。「いや、持ってないよ。帽子はあまり好きじゃないんだ。なんか、締め付けられる感じがして」
アイリーンはその答えを聞いて、ふっと笑みをこぼした。「ふーん。未来では、あなた帽子をかぶってた気がしたけど」
オロスはその言葉に首をひねり、怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。きっと冗談だと思ったのだろう。
その時、ディアスが空気を変えるように、話題を変えた。
「それで、その“夢の神殿”って、結局どんな場所なんだ?」
アイリーンは少しだけ顔を上げ、彼の問いに静かに答える。
「噂では……とても怖い場所だと言われているの。夢の神殿から戻ってきた男が、恐怖で一睡もできずに亡くなったという話もある」
その言葉に、彼女の声にわずかな震えが乗った。馬車の車輪が石を乗り越え、がたんと音を立てて揺れる。その音が、何故かさらに不安を掻き立てるようだった。外では、森の影がますます濃くなっていく。
誰も次の言葉を口にしようとしなかった。車内には、不安が静かに広がっていった。
やがて、エレノアがそっとカーテンをめくり、外の様子を見た。
「……見えてきました。あれが、夢の神殿です」
霧が割れるようにして、建物が姿を現す。その姿は、まるで何かに飲み込まれそうなほど暗く、巨大だった。
黒曜石のように光を反射する壁。血管のように赤い紋様が脈打つその表面。尖った塔が空を突き刺すようにそびえ、異様な雰囲気を放っている。
窓はひとつもなく、入り口すらも見当たらない。しかし、見つめていると、どこか不思議な感覚に襲われる。まるで、“何か”がこちらを見ているような錯覚を覚えるのだ。
オロスはその光景に目を見開き、息を呑んだ。
「……本当に、あれが……?」
誰も答えなかった。ただ、静かな沈黙の中、馬車は神殿のふもとへと、ゆっくりと進んでいった。