何もなかった。
いや――何もない“はず”だった。
そこは、空間と呼ぶにはあまりに曖昧で、形容しがたい混沌に包まれていた。上下も左右もない。ただ、浮かんでいるだけ。思考も身体も、どこか遠くに置き去りにされたような感覚だった。
それでも、“見えて”いた。
闇の中に浮かぶ無数の眼球。それらは空中に散らばり、蠢き、時折瞬きをしては、じっと此方を見つめている。形も大きさもまちまちだ。人のものもあれば、獣のような、あるいは魚のような構造を持ったものも混ざっている。瞳孔がひとつでないものもあった。だが、どれもが等しく、こちらを観察していた。
そのとき、耳の奥がピキ、とひび割れるような痛みを訴えた。
次の瞬間――始まった。
耳鳴り。
それは音と呼ぶにはあまりに粗暴で、凶暴だった。高周波とも低周波ともつかない奇妙なうねりが、脳髄を直接揺さぶる。空間のどこから鳴っているのかもわからない。むしろ、自分自身の内部から発生しているように思えた。
頭の中を“裂く”ような感覚。意識が削り取られていく。 それなのに、視界だけは妙に鮮明だった。
血の海を固めたような赤黒い床。その上に立っているはずの足が沈み、ずるりと引きずり込まれそうになっていた。
壁のようなものも存在していた。生きていた。赤黒い肉の壁。皮膚のような膜に覆われ、その下を血管がのたうつように走っている。その至るところに“顔”があった。
赤ん坊の顔だ。未完成な肉の仮面が、泣き、歪み、ひしゃげ、再構成されている。目を閉じ、口を開き、無音の叫びを上げ続けている。
だが音は、確かに響いていた。耳ではなく、脳に、精神に直接触れてくるような振動として。
それと重なるように、再び耳鳴りが強くなった。
キィイイイイイイ――。
高音が突き刺さり、低音が蠢く。絶え間なく、音の槍が神経を突き続ける。吐き気すら催す不快さ。鼓膜が破れそうで、それでも終わらない。
その不協和音のなかで、顔たちがいっせいに目を見開き、問いかけてきた。
「アナタハ……ダレ……?」
肉の壁が歌い出す。その一言に、耳鳴りはさらに次の段階へと達した。 振動。圧迫。脳幹を叩きつけるような圧力。呼吸ができない。
視界が――割れた。
血を噴き出す眼球の目が笑う。笑いながら、こちらを見下ろす。 その笑みの奥に、オロスは確かに“崩壊”を見た。
そして、目を覚ました。
――現実の、実験室で。
重い空気が肺を満たす。鉄と焦げた油の匂い。混じる血のにおい。
「……っ」
背筋が強張る。オロスは深く息を吐きながら、自分が古びた椅子に腰かけていることを確認した。
左手には、かすかに青い光を放つ宝石
しかし、その微弱な光の揺らめきとは対照的に、頭の中ではまだ、夢の残響が続いていた。
――耳鳴りが、終わっていない。
現実に戻ったはずなのに、キイイ……という金属音のような波が、ときおり脳内に反響する。残響ではない。これはまだ、“現象”として続いている。
部屋の中央には、石像が立ち並んでいた。 どれも顔のない人型。眼のあった部分から黒赤い液体が流れ出し、空中にふわりと浮かんでいた。重力に逆らい、ただ漂い、意志すら宿しているような沈黙をまとっている。
そして――壁。
そこにも、いた。
夢と同じ。赤ん坊の顔。肉の壁に埋まるように、びっしりと浮かんでいる。目を閉じたまま、時おりぴくりと動く。見開かれたとき、そこに宿る“何か”が、まるで意志を持っているように錯覚させられる。
耳鳴りが、さらに鋭くなった。 まるで、部屋そのものが「共鳴」しているように感じられる。
オロスは口を閉じ、息を殺し、ただひとつ思った。
「……これが異世界召喚スキル。」
誰に向けた言葉でもなかった。
彼の右手にあるものは、**《冷面》**と呼ばれる異形の仮面だった。
それは一見すると、無機質な金属のような輝きを放っている。まるで銀細工で作られたかのような淡い光を宿し、冷徹な印象を与えていた。
額には、ひとつの大きな装飾――割れた時計の文字盤のような模様が刻まれている。その周囲の金属は青白く光を反射し、かすかな煌きを放っていた。この光こそが、オロスにとっての「理性の維持装置」であり、仮面の力の象徴である。
仮面の内側は、想像を絶する冷たさだった。触れた瞬間、まるで氷のように肌に張り付き、冷徹さを突きつけてくる。
この仮面がなければ、彼はもうスキルに耐えられないだろう。すべてを見失い、すべてを失い、狂気の中で暴れ回るしかなくなっていたはずだ。
だが今は、この仮面の冷たさだけが、彼にとっての救いであり、唯一の支えだった。
心を落ち着かせ部屋を出た
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