吐息に濁りが混じる。ダンジョンの空気は湿っていて、肺の奥にまとわりつくようだ。
「来るなって……言ったろ」
アッシュは足元を指先で弾く。次の瞬間、地面に溜まっていた毒素が跳ね上がり、液状の弾丸となって魔物の顔面に炸裂した。
ギャアアッ!
凄まじい悲鳴。腐食性の毒液が皮膚を焼き、目を濁らせ、呼吸器を侵す。だが魔物は怯まない。肉体の損傷では止まらない本能に突き動かされ、怒声とともに突進してくる。
「……ほんと、しぶといな」
アッシュは指先をすぼめ、空中に弧を描く。そこに浮かび上がるのは、光沢のない細い針──猛毒を込めた魔法の具現。高速で放たれたそれが、魔物の喉元に突き刺さる。
咳き込み、のたうち、やがて静かに沈黙した。
ようやく一息ついたアッシュは、背中に手を当てて呼吸を整える。視線の先には、さらに三体の気配がある。戦いはまだ続く。
「ハンターになって、二ヶ月が経った」
呟く声に自嘲が混じる。
ダンジョンに潜り、モンスターを倒し、アイテムや素材を回収して生計を立てる──それが“ハンター”という職業だ。
誰でも登録はできる。だが、全員が生き残れるわけではない。昇格の条件は明快だ。成果、討伐数、戦闘能力。ギルドの査定でEからSまでの階級が与えられ、依頼内容や報酬にも関わってくる。
アッシュは、最初はEランクだった。生きるために、食うために、地を這うような仕事をこなした。ようやくCまで昇格した。
「毒の魔法ってのは、便利だけど地味なんだよな」
煙のように広がるわけでもなく、派手に爆発するわけでもない。即死性もない。だが、確実に相手を蝕む。
腐食、幻覚、神経麻痺──それぞれの毒は時間をかけて敵を壊す。
「効かない敵なんて、いない。ただ……派手じゃねえから、舐められる」
地面に指先を這わせ、新たな毒素を抽出する。今度は霧ではない。乾いた砂のような毒粉だ。吸えば肺が焼け、目が潰れる。
「……だがそれでいい。どうせ俺は、目立たない方が都合がいい」
魔物たちが突進してくる。その数、三体。だがアッシュは微動だにせず、指を鳴らした。
毒粉が爆ぜ、空間に充満する。喉を押さえ、咳き込みながら、魔物たちが一斉に崩れ落ちた。
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ダンジョンから出た瞬間、乾いた空気と太陽の光がアッシュの顔を照らした。肩で息をしながら、毒の魔法の余韻を纏った指先をゆっくりと見下ろす。紫黒色の煙がほんのわずかに揺れ、そして消えた。
「……やれやれ。C級ダンジョンとはいえ、相手が群れると骨が折れるな」
魔物たちは体力だけならD級の比ではない。それでも、毒魔法は確かに効いていた。効きが遅い分、動きを封じてから仕留めるスタイルが板についてきた気がする。アッシュは剣を鞘に収め、ダンジョンのゲートを後にした。
都市ギルドに戻るまでの道のりは、疲労で足取りが重い。それでも、手持ちの小袋には魔核がいくつも入っていた。今回の成果としては上々。B級への昇格の兆しも見えつつある。
ギルドの重い扉を開けると、騒がしいホールの空気が一気に押し寄せてきた。机に座るハンターたち、張り紙を物色する者たち、カウンターで報告書を出す者たち――それぞれが生活のためにこの場所で戦っている。そう、ハンターとは――
『異界から現れるダンジョンを探索し、魔物を倒し、内部に残されたアイテムや素材を回収して換金する者たち。』それがこの世界における「ハンター」の役割だ。成功報酬は高く、だが命の保証はない。だからこそ、ハンターたちは階級(ランク)によって評価される。最低ランクはE級。そこからD、C、B、A、そして伝説とされるS級へと昇格する。昇格には成果と実績、時には推薦が必要だ。
アッシュがE級からC級に飛び級したのは、あるチーム任務がきっかけだった。当時まだE級だった彼に、運命を変える出会いがあった――
「よ、アッシュ。まだ生きてんじゃん」
ギルド内、張り紙の前で気楽に手を振っていたのは、長身の男。短く刈った金髪と鋼のような目をした、盾使いのケインだった。彼との出会いは、ある任務での急造チームだった。リーダー格だった男が先走ってパーティが崩れた時、盾で味方をかばい続け、最後に立っていたのがケイン。アッシュの毒魔法に助けられたと本人は言うが、アッシュにとってもケインの盾がなければ今ここにはいなかった。
「……ケインか。相変わらず暇そうだな」
「うるせぇ。今は狙ってるダンジョンがあってな」
その横から、柔らかい声がした。
「やっぱりアッシュだった。あの報告、読んだよ。ダンジョン攻略、おめでとう」
水色の髪をサイドで結んだ女性が、静かに微笑んでいた。アン――彼女も、あの時の共闘任務で出会った仲間だ。元はソロのスナイパーとして知られていたが、アッシュが死にかけた時、後方から魔物の目を正確に射抜いたその一撃を、今でも忘れられない。
「アン、お前も無事だったか。助かったよ、あの時は」
「お互い様でしょ。毒で動きを止めてくれたおかげで、狙いやすかったし」
3人は並び、掲示板に目を向けた。
その中に、黒く太い文字で記された一枚が目に留まる。
『【黒竜の巣】C級ダンジョン/再出現地点:西の峡谷/報酬上乗せ対象』
「黒竜、だと……?」
ケインが眉をひそめ、アンが僅かに唇を引き結んだ。
「前に討伐されたはずなのに、また出たの?」
「正確には、"似た個体が出た"ってところだな。……にしても、面倒な依頼だ」
アッシュは黙って張り紙を見つめた。胸の奥が、ざわりと震える。これは偶然ではない気がした。今このタイミングで、C級に上がった自分の前に現れた試練――
「……行く気だな、お前」
ケインがニヤリと笑う。
アッシュは、わずかに頷いた。
「お前たちがいれば、悪くない仕事になる」
アンも静かに笑って、言った。
「なら、三人でやろう。」
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鉛色の空を、ひとつの影がゆっくりと滑っていく。
それは巨大な飛行船だった。まるで空に浮かぶ鋼鉄の鯨のように、白銀の氷原を見下ろしながら、静かに進んでいく。
船体はリベット打ちの鋼板で組まれ、時折、蒸気の漏れる音が甲板の隙間から吐き出される。外装には煤けた痕や補修の跡が残っており、長い旅の痕跡を雄弁に語っていた。船体の上部には、大きく膨らんだガス袋――水素と魔法触媒を混合した浮遊球が鎮座しており、時折、空気の震えるような低い唸りを上げていた。
両脇には木製の観測デッキが張り出しており、手すりには真鍮製の望遠鏡や測定器具が取り付けられている。露出した歯車がゆっくりと噛み合いながら回転し、冷え切った空気の中にカチリカチリと小さな音を響かせた。
下部には推進用のスクリューが左右に二基ずつ設置されており、煤にまみれた煙突からは細い黒煙が立ち上っている。動力は石炭炉と簡易魔導炉の複合式。時折、船体全体がわずかに軋み、蒸気弁がプシューッと白く霧を噴き上げた。
船首には、錆びかけた船名プレートが取り付けられている。読めるか読めないかの擦れた文字で、《ジャン号》とあった。
どこまでも続く氷の大地を眼下に見下ろしながら、その飛行船は、ただ黙々と“世界の果て”を目指していた。空を裂くようにして進む姿は、まるで過去の文明が遺した亡霊のようだった。
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どこまでも白い。 それ以外の色を、すべて拒絶するかのように。 氷の大地は、凍りついた地平線まで果てなく続き、風は切り裂くように冷たい。雲ひとつない空は青く澄みわたり、その純粋さがかえって不穏さを増していた。
空を裂くようにして、飛行船が着陸した。エンジンの唸りが消え、静寂が訪れる。 ハッチが開き、白い蒸気のような冷気が噴き出した。中から現れたのは、二人の男女。
先に降りたのは男――オロス。背丈は低く、顔の半分を覆うようなフード付きの黒いマントを羽織っている。片手には、見慣れた剣が背負われていた。 後ろからついてきたのは、黒髪の少女――リサ。腰まで届く艶のある髪を冷気に揺らしながら、不満げに眉をひそめている。
「そういえば、一つ聞き忘れていたことがある」
「何?」リサは軽くため息をつきながら振り返る。「この寒さの中でしゃべる気力がまだ残ってるのがすごいわね、あなた」
オロスは視線を雪の彼方に向けたまま、ぽつりと言った。
「リサ。お前は“作者”なんだろう? なら、俺の……前世のことも知ってるんじゃないのか?」
リサは一瞬、返答をためらったように沈黙した。しかしすぐに苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「うーん……正直に言っていい?」
「もちろんだ」
「あなた、脇役だったのよ。だから細かい設定なんてないの。前世の名前は“鈴木”っていう、ごくありふれた名前。あと、自殺してこの世界に転生したってことくらい」
リサはしばらく無言で、オロスの顔を見つめた。
「……寒すぎる。ここでスキーでもするの?」
「こんなところでしたら死ぬ」
オロスが肩をすくめる。リサはふんっと鼻を鳴らした。
「それにしても……こんな世界の果てに、こんな大陸があるなんて思わなかったわ。まるで地図の“外側”じゃない。ここ、何なの?」
オロスは一度、足元の雪を踏みしめ、遠くを見つめた。
「以前、ロンギヌスの槍の拠点を潰した時……そこの幹部が言っていた。『世界の果てには守護者がいる』ってな」
「守護者?」
「古代、この世界を滅ぼしかけた“何か”を封じた存在だそうだ。そいつに、話をしに来た」
リサは唖然とした表情で、肩を抱くようにして震えた。
「ちょっと待って。それだけのために、私をこんな極寒地獄に連れてきたわけ?」
「いや、調査も兼ねている」
「……嫌な予感しかしないわ。その“調査”って、具体的に何を?」
「ここにいるモンスターの糞尿集めだ」
「……え?」
「ここには珍しいモンスターがたくさんいる。モンスターの糞と尿を採取して、生態情報を得る。学術的にも、軍事的にも貴重なデータだ」
リサは黙り込んだ。目を閉じ、呼吸を整え、深く、深くため息をつく。
「それ、最初に言ってくれてたら、飛行船のハッチ閉めてた」
「まあ、仕方ないな。ここまで来てしまった」
「まったく……私は友達とカフェでパフェを食べる予定だったのよ。それをドタキャンしてまで、氷の大陸で糞尿集めって……何よそれ」
「お前の氷の魔法は糞尿集めに役立つ。調査の成功は、お前にかかっている」
「最悪なプレッシャーのかけ方ね」
風が吹きつけ、リサの黒髪がなびいた。冷気が顔に当たって涙がにじむ。
「……わかったわよ。せめて、終わったらご褒美くれる?」
「コーヒーでどうだ」
「それで手を打つわ。角砂糖7つ入りね」
「それもうコーヒーじゃないだろ」
彼らの足音が、きしむ氷の上に刻まれていく。雪に沈みながら、それでも二人は歩き出す。 その先に、何が待つのかもわからぬまま。 凍てつく沈黙の大地を、目指す者たちはただ、まっすぐに進んでいく。