朝でも夜でもない。時間の概念が薄まったような空間で目を覚ますと、天井のシミがゆっくりと形を変えていた。
アリアは窓辺に座っていた。猫の姿で、静かに尻尾を揺らしている。
「起きたのね」
「……ああ」
夢の記憶はまだ鮮明だった。宇宙のような空間、星々、そしてあの男。「転生」という不可解な言葉だけが、記憶の中心で静かに燃えていた。
だが、話すつもりはなかった。あんな夢を信じる者はいない。それに、言ってはいけないような直感があった。
「黙ってるわね。何かあった?」
「……いや」
アリアは首をかしげたまま、しばらく沈黙した。そして、ため息をつく。
「ま、そういう人ってことね。じゃあ、ひとつ聞いてもいい?」
「なんだ?」
「あなたの名前。まだ、聞いてないわよね?」
俺は、そこで言葉を失った。
——名前。
頭の奥に冷たい痛みが走る。思い出そうとした瞬間、脳裏にノイズが流れ込んできた。
水に濡れた紙が破れる音。古いラジオの砂嵐のような、耳の奥から爪でひっかかれるような音。 そもそも俺は何で自殺したんだ?寝る前は覚えていた。それに覚えている記憶もおかしい。記憶が映像ではなく文章。まるで作られたような
目の前の光景が、にじんで歪んだ。
「……っ」
「ちょっと、大丈夫?」
「……ああ、ただ……」
言葉を探す。口から出たのは、ふと浮かんだ一語だった。
「オロス……」
「それが、思い出した名前?」
「いや……分からない。ただ、それだけが浮かんだ」
アリアは不思議そうにまばたきして、それから小さく笑った。
「じゃあ、仮の名前は“オロス”で決定ね。名前がないと呼びにくいし」
オロスは頷いたが、胸の奥に不安が残った。その名前が、どこか異質な音に感じられたのだ。
アリアは窓から目を離し、少しトーンを落とした。
「そうそう。ひとつ気になることがあるの。店長のこと」
「店長……?」
「ポケットに、いつも何かを入れてるの。右側のズボンの、外のポケット。何かを隠してるみたいでね。硬いもの……たぶん、小瓶か何か」
「見たのか?」
「ちらっとね。夜中、裏口でしゃがみこんでたの。ポケットから何か出して、すぐしまった」
オロスは黙ったまま、壁の影を見つめる。夢の中の男が言った言葉が、心の奥で再び響く。
「……ありがとう。ちょっと気にしてみる」
「何を考えてるか分からないわね。さっきからずっと黙ってる」
アリアの目がこちらを探るように光った。
「……なんとなく、言葉にならないだけだ」
そう答えたオロスは、自分がどこにいて、何を始めようとしているのか、その全貌をまだ掴めていなかった。しばらく沈黙が続く アリアは器用に前足を持ち上げると、宙に浮かせた水滴をちゅっと吸い込んだ。水は空中で小さな渦を巻いて、まるで命を持っているかのように彼女の口元へ滑り込んでいく。
「今の……魔法か?」
思わず俺が尋ねると、アリアは胸を張るようにして尻尾を立てた。
「一応。並の魔法使いよ」
そう言って、アリアはすっと地面に降りた。そのまま近くの古びた椅子に向かって一瞥すると、小さく呟いた。
「変化」
椅子の脚が震え、きしんだ音を立てたかと思うと、次の瞬間にはガラリと質感が変わる。深い茶色の木材が抜け落ち、ただの板切れが床に落ちていた。
「うわ……。すげぇ……。あの椅子、ただの板に……」
俺の感嘆に、アリアは少しだけ首をすくめるようにして言った。
「ま、まあ……普通の魔法よ。魔法使いなら誰でも気づくくらいの」 その声は少し照れているように感じた
「でも……その椅子、戻さないのか?」
俺が板きれを指さすと、アリアは首を傾げた。
「え? いらないんでしょ?」
「いや、使うけど」
「そ、それは……ごめん。つい、つい魔法見せたくなって……」
アリアはバツが悪そうにぺろりと舌を出した。猫の顔のままのせいで可愛らしさが増しているのがずるい。
「次はもっとマシなもの壊すわね!」
「壊すな!」
アリアが“ただの猫”じゃないってことは、十分にわかった。
だからこそ、もう一つ、気になっていることを確かめたくなる。
「なあ、アリア。店長と……一度話してみるよ」
「店長? あの怪しいおっさん?」
「怪しいかどうかは、自分の目で確かめたい。直接話せば、何か分かるかもしれないしな」
アリアはしばらくじっと俺を見つめたあと、ふっと尻尾を揺らした。
「いいわよ。でも、騙されたらすぐ戻ってきなさいよ? 慰めてあげるから」
「猫に慰められるのもどうなんだろうな……」
俺は苦笑しながら立ち上がり、アリアの“芸術作品”となった板切れをまたいで外に出た。風が少し冷たくて、背中を押されるようだった。
さて、次は俺の番だ。
朝の街路は、ほどよい喧噪に包まれていた。古書店やカフェが並ぶ通りの一角。そこに、ちょっと場違いなほど洒落た木製の扉が目立つ飲食店があった。
店の名は『アオサカナ亭』。洒落ているのか、ふざけているのか、判断に困る名前だ。だが店構えは真面目だった。看板も磨かれ、窓には手書きのメニューが貼られている。料理の腕はともかく、経営意欲はありそうだ。
オロスは扉の前で深呼吸し、軽くノックしてから入った。
中は驚くほど静かだった。客は誰もいない。店内にはスパイスの香りだけが漂っている。
カウンターの奥から現れたのは、一人の男だった。
青い髪が無造作に跳ね、目元は鋭く、まるで人を睨みつけるのがデフォルトのような顔つき。清潔感は意外とある。ポケットに手を突っ込んだまま、こちらをじろりと睨んできた。
「予約してないなら帰れ」
「……まだ何も言ってないんだけどな」
オロスは笑顔を貼り付けながら、カウンター席に腰を下ろした。店長らしきその男は、あからさまに嫌そうな顔でため息をつく。
「店は朝の9時からだ。営業妨害は通報するぞ」
「安心して。今日は飯じゃなくて、雑談に来たんだ」
「もっと迷惑だな」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。ちょっと聞きたいことがあってさ」
オロスは椅子に肘をつき、軽い調子で話し始める。
「この店の近くで……なんというか、奇妙な噂があってね。変な生き物が見られたとか、猫が喋ったとか」
「猫が……?」
一瞬、店長の視線が動いた。だがすぐにまた、無表情に戻る。
「知らん。猫なんてどこにでもいるだろ」
「でも“喋る”猫はなかなかいない」
「酔っぱらいの妄想だ。うちは飯を出すだけだ」
「ふーん……でも、たとえば。最近、おかしなものとか見つけなかった?」
店長の眉がピクリと動いた。反応は鋭い。まるで神経が触れたかのように。
──やはり、何か隠している。
オロスは視線を泳がせながら、さりげなくカウンター越しに店長の腰元を観察した。シャツのポケットが少し膨らんでいる。布越しに見える輪郭。明らかに、本だ。
「なにが言いたい?」
店長がやや前のめりに詰め寄ってきた。口調も、目の奥も鋭さを増している。だがそれは、図星を突かれた者の反応に近かった。
「いや、ちょっと好奇心で。ごめんごめん」
オロスは両手を上げ、話題を変えるように店内を見渡した。
「それにしても、いい店だな。家具とか、こだわってる感じする。……あれ? そこの壁、ちょっと焦げてない?」
「関係ない。帰れ」
「話は終わりだ」と言いたげな声音だった。だがオロスはあえて立たない。代わりに立ち上がったのは、店長だ。
「もう一度言う。帰れ。ここは……遊びで入る場所じゃない」
青い髪が揺れ、ポケットに入れた手を軽く握り直す。中の本を守るように。
その瞬間、オロスは立ち上がりながら、一歩踏み込んだ。
「わかった、じゃあ出るよ」と言いつつ、自然な動きで体をすり寄せ、肩が触れる寸前の位置まで近づく。
──今だ。
右手を素早く回し込み、店長のポケットに指先を滑り込ませる。布の奥に硬い感触。分厚い革表紙。すかさず本の端をつかみ、すぽんと引き抜いた。
同時に後ろへ一歩下がり、手品のように自分のコートの内ポケットに隠し込む。
「じゃ、お邪魔しました。いい午後を!」
軽く手を振って踵を返す。店長は一瞬、何かを感じ取ったような顔をしたが、すぐにその感覚は通り過ぎていった。
扉を出た瞬間、オロスは本がコートの中で確かに熱を帯びているのを感じた。中身はまだわからないが、それが只者ではないことは直感でわかる。
──窃盗罪だな。清く生きていくことは無理だな