朝八時。
街の石畳は夜の雨に濡れ、朝靄がかすかに立ちこめていた。
蒸気の唸る工場の合間を縫って、人々がせわしなく歩き始めている。
オロスはその喧騒から外れた、裏通りの奥にいた。
煤けた壁の影に腰を下ろし、コートの内側から――盗んだ本を取り出した。
革表紙は黒く濡れており、金属のような硬さがある。
中央には奇妙な魚の絵。逆さに吊られ、口を裂けるほどに開き、目を――ありえない方向にずらしてこちらを睨んでいる。
周囲には意味不明の文字。見れば見るほど、読めないはずのそれが脳に直接刻み込まれるような圧を持つ。
内臓が冷えるような、嫌な感じがした。
「……また開かないのか」
声に出してみるが、ページは動かない。まるで指が貼り付いたように、本はオロスの手に張りつき、動かない――
一枚だけが、勝手にめくれた。
その瞬間。
音が死んだ。
工場の蒸気音。新聞売りの声。馬車の車輪音。鳥のさえずり。すべてが、消えた。
空気が沈む。
世界が沈む。
そして、空が開いた。
目玉だった。
無数の――本当に、数えきれないほどの巨大な目玉が、空一面に浮かんでいた。
曇り空の向こうに、空間の裂け目のような“それら”が揺れていた。
目は形も大きさも様々だが、すべて同じ一点――オロスを見ていた。
教会の尖塔の上にも、煙突の間にも、雲の狭間にも、それはあった。
誰も気づかない。
通りの向こうでは新聞売りの少年がパンを齧りながら笑っていた。
店の主人が水を撒いていた。
だが誰一人、空に無数の目があることに気づいていない。
オロスの喉が震えた。だが、声が出ない。
体が動かない。心臓が音を立てて悲鳴をあげる。
そして、それが現れた。
煙だった。
黒く、濡れたように重たく、淀んで、ゆらめく。
骨と布を混ぜ合わせたような人影が、煙の中に浮かび上がる。
そして、その煙の中にも――目があった。
空と同じ、魚の目玉。濁った白い球体が、煙の奥底からこちらをのぞいている。
ひとつ、またひとつ。揺れ、沈み、また浮かび上がる。
その存在が喉元に、音もなく顔を寄せた。
「……見たな」
オロスの膝がかすかに震える。
「ページを開いたか。ならば、おまえは“観測者”となった。
壊れても、燃えても、おまえの目は閉じられぬ。
見届けよ、この愚かな終焉を……」
重く、乾いた空気の中で、声が響いた。
意味のわからない言葉が耳ではなく脳に直接流れ込んでくる。
次の瞬間、空間に、霧のような光の帯が浮かぶ。
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【名前】オロス・レイヴン
【レベル】5/50
【スキル】再生さいせい
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「その身は再び立ち上がろう。
だが魂は、何度も燃え尽きる。
……それすらも、愉しみではあるがな」
目玉が笑う。
煙の影が、空気ごと捩れて消える。
ふいに音が戻った。世界が息を吹き返す。
新聞売りの少年がパンを飲み込んだ拍子にむせた。
だがオロスだけは、震えながらコートの内側を押さえていた。
胸元の本が、脈打っていた。