外から見れば、ただの古びた一軒家にすぎなかった。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、世界は静かに裏返る。薄暗い廊下を抜けた先に現れたのは、意外にも贅沢な空間だった。重厚なカーテンが外光を柔らかく遮り、繊細な彫刻が施された家具が並び、壁には幾枚もの絵画が語りかけるように飾られている。けれど、その美しさの奥に、どこか冷たい気配が漂っていた。
「こちらよ」
アリアの声が静けさを切り裂く。彼女は振り返りながら微笑み、奥の部屋へとオロスを導く。その動きはまるで舞うようで、猫のような気まぐれさを帯びていた。
「どうぞ、座って。少し狭いけれど、気に入っているの」
オロスは無言のまま椅子に腰を下ろし、ポケットに手を差し入れた。そして一冊の本を取り出す。奇妙な模様、見慣れぬ文字で飾られた表紙――それは、かの店長のポケットから盗んだものだった。
「これ、あの男のポケットにあった。俺には、表紙の文字が読めない。お前なら、わかるか?」
アリアは黙って本を受け取る。表紙に目を落とすと、そのまま数秒間、言葉を発さずにいた。やがて、低く呟くように答える。
「……これは、死霊術の本。そう書いてあるわ」
オロスの眉がわずかに動いた。
「死霊術? それは……?」
「死んだ者の肉体に干渉し、動かす術よ。禁じられた魔法のひとつ」
言い終えたアリアの視線が、どこか遠くを見ていた。その目の奥には、静かな怒りと、かすかな疑念が滲んでいた。
「……つまり、死体を運ぶこともできる?」
「ええ。力があれば、ね」
ふと、アリアは口元に手を添え、微笑を浮かべる。
「私の死体が消えたのは、そのせいかもしれない。死霊術で動かされたのなら、説明がつくもの」
「つまり、あの店長が……?」
「そう考えるのが自然ね。少なくとも、私はそう思っているわ」
言葉に間が空く。オロスは黙って本を見つめ、アリアの言葉を反芻していた。
「この本が、それを証明する鍵になるかもしれないな」
「ええ。大事な手がかりになるわ」
アリアはそっと本を閉じ、静かに胸に抱き寄せた。
「念のため、この本は私が預かるわ。大切に扱うから、安心して」
アリアの家を後にしたオロスは、あてもなく森をさまよっていた。目的など最初からなかった。ただ、時間が過ぎれば何かが変わるような気がしていた。音もなく揺れる木々の影が、彼の足元に静かに絡みつく。
やがて、誰も足を踏み入れないであろう森の一角に差しかかると、空気が変わった。重い。湿った苔の匂いと、澱んだ風。木々は動きを止め、鳥も鳴かない。すべてが、どこかの拍子で壊れてしまいそうな緊張感に包まれていた。
「……何かがいるな」
オロスは低く呟いた。だが足は止まらない。不安という感情がすでに摩耗していた。彼はただ、その空間の中心へと導かれるように歩いていく。
落ち葉の絨毯を踏みしめる音が、妙に大きく響く。その音の中に、彼は違和感を覚えた。何かが、混じっている。無意識に視線を落とした彼の目に映ったのは、落ち葉の隙間から覗く奇妙な線だった。細く、乾いた――骨のような。
しゃがみ込み、指先で葉を払いのける。現れたのは、青白く乾いた子供の骨だった。細い指先。砕けた肋骨。風化しかけた頭蓋。冷気が指から心臓へと這い上がり、思考が凍りつく。
「子供……?」
彼の唇から、呟きが零れた。
だが、それはただの死体ではなかった。そこに“人間だった”という気配がない。祈りも、悲しみも、誰かの記憶すら感じられない。まるでゴミのように無造作に捨てられた、ただの物体。それは死ではなく、「破棄」だった。
近くには焦げ跡と、割れた器の破片、破れた紙が散乱していた。そこには何かの記号が走り書きされている。儀式……だが、祈りがない。意味がない。ただ機械的に、冷たく処理された跡。
「……これは儀式じゃない。ただの手段だ」
その言葉は、誰に向けたでもなく落ちた。けれど、それは確かな祈りの始まりだった。
オロスはコートの内ポケットに手を伸ばし、一輪の白い花を取り出した。どこで手に入れたのかは思い出せない。ただ、それをここに置かなくてはならないと直感していた。
骨のそばに花を置き、ゆっくりと土をかける。手が震えていた。それでも、彼は最後まで目を逸らさなかった。
「……今度は、ちゃんと死んだ」
それは、彼なりの弔いだった。
立ち上がると、風がようやく吹いた。そよ風に揺れる白い花の影が、微かにささやいたように感じた。
――私は、ここにいた。
まるで、忘れ去られた誰かが、最後に世界へ語りかけた声のように。
森を抜けようとしたとき、彼はまた別の死体を見つけた。小さな猫。アリアに似た、猫だった。隣には小さな墓があり、墓にはロンカルという文字が刻まれている。
その瞬間、背後から足音が聞こえた。不規則で、慌ただしい。誰かがこちらに近づいてくる。
オロスは静かに振り返る。そこにいたのは、あの店長だった。
「気づいたか?」
その声はまるで、ここに来るとは思っていなかったように冷たかった。顔は無表情だが、目だけが一瞬、異様な光を放った。