薄暗い部屋の中、締め切った窓の隙間から覗く月明かりに照らされたのは、生のままの姿の二人の男女。
最低限の家財道具に矢鱈めったら大きなベッド、傍には脱ぎ散らかされた男物の衣服一式。
熱気と獣臭入り交じる部屋に、幾度も木霊する肉を叩き打ち付ける音とリズミカルに動き絡み合う二人分の影。
あまりにもそのまんま過ぎる艶事の現場。耳を澄ませば隣や向かいの部屋からも、同じように声が聴こえる。
獣のような女の嬌声と圧し殺した男の息遣いが混じり合い、次第に絡めあった肢体がぬめりを帯びて、肉打つ脈動が高まってゆく。
甲高く、間断無く嘶く女の喉と、抑えきれずに溢れ出す男の呻き声とが狭い室内に木霊する。
ふと気が付けば、二人の動きは身動ぎ一つ無く止まっている。ついに気を遣ったのだろう、先程までとは打って変わって緩慢な動作で男が身体を振りほどく。
男はベッドの端に腰掛けると手早く衣服を身に付け始め、そのまま懐から紙巻きを一本取り出すと、慣れた手付きで火を灯す。子洒落た仕草は無駄に洗礼された動き、女を落とす為だけの、或いは格好付けだけの為の動作。
一人煙を吹かす男の後ろ、震える肢体を艶かしく持ち上げた女が睦言を交わした男の背にしなだれ掛かろうとした、その瞬間。
「俺の後ろに立つんじゃねえ!」
理不尽な言い様と共に飛んだのは男の裏拳、強かに顔を打ちつけられた女は悲鳴も上げられずに倒れ伏す。そのまま難癖を付け財布を取り出す素振りもなく、何処ぞへ向かおうとする男。
見下された男の方もそれなり以上の長身なのだが、己の
さてもかくも、逃げ出さないようドアの前に陣取る己と、ベッドの上でシーツを引き寄せ体を隠そうとする女、そして逃げ出す男の姿。まるで、己が間男を糾弾する夫の如き立ち位置に、つい失笑が溢れてしまう。それを見て取ったのか、やおら青筋を立てて怒りの形相をうかべた男に、己は衝動のままに口を開いてしまった。
「随分と縮こまっていたが、無事に卒業出来たようで何よりだな、
瞬間、男の顔色がどす黒く変化し、先の裏拳とは比較にならぬ速度の貫手が己の喉元に食らい付かんとする。
とは言え、直情的なその攻撃は別段対処には難くない。人間としては良く鍛えられているが、この世界ではそれだけでは通用しない。
右の手で銃口を突き付けながら、左の手は一枚の
往なすでも避けるでも無く、正面から貫手を受け止めた護りの呪文は、しかしこちらの攻撃はすり抜けさせるのだ。
お返しとばかりに耳を貫く轟音と共に容赦なく吐き出された弾丸は、大海を切り裂く鮫の顎の如く男の顔面へと突き立ち。而して呆気ない程軽い音を立ててあらぬ方へと弾かれた。
勝ち誇った笑みを浮かべる真正面の男に対し、こちらも応えるように笑みを浮かべてみせる。事前情報通りの弾丸の挙動に、どうにも笑いが止まらなかったのだ。
黒髪に黒目、今や転生者の代名詞と成り果てた色彩。
或いは、それを邪神の方も理解したからこそ、昨今の小粒な転生者が増えたのかもしれないが。
チート任せに追撃を仕掛けようとする男の出鼻を挫く様に、更に一枚のカードを取り出す。『地雷原』、簡単なトラップ地帯を生み出すマジックでバトルでは大して役に立たないが、こと対人戦ではこれ以上無く猛威を振るう呪文の一つ。故にこそ、こうして
少なくとも、足元に点るいくつもの光が危険なことは察せたのだろう、男は一瞬身動きを止めると懐からカードの束を取り出して見せる。
「バトルだ!」
そして向こうのチートに関しても既に手の内は読めている、情報通りならば『自身の正面からの攻撃の無効化』辺りだろう、地雷原に突っ込んでこないのが何よりの証明だ。
故に詰みの手筋は出来ている。
一歩二歩、大股で男の下へと歩み寄る。下がろうにも下がれぬ男はその場で踏みとどまるしか道はない。足元の地雷は
そのまま男の額へと、真正面から虚の如き銃口を突きつける。総重量10キロはくだらぬ特注の
効かぬと分かっていようともその重量は心胆を寒からしめるのには十二分だろう、況して男は新参者故、バトルフィールドが出ていなければマジックの一つも使えないのだから、自身のチートに命運を託す他無いのだ。
故に、ジリジリと銃口の角度が額から頭頂部へと移り変わるのに合わせ、無理にでも上を向く以外に方法はない。何せ先の交錯で、向こうの攻撃は効かないことが証明されてしまっている。無論我武者羅に暴れれば呪文の行使の隙をつくことも出来なくもないだろうが、その場合には足元の地雷が鬼門となる。故の詰み、震えながら銃口を仰ぎ見るしか無い男の鳩尾に、己の拳が重苦しく沈み込む。
途端、間欠泉の如く吹き上げられた吐瀉物を華麗に避け、ついでに足元の地雷も解除しておく、ここで死なれては何のために苦労したのか分からなくなる。
気絶した男の体を弄り簡単に武装解除を行う、とは言っても大したものを持ってはいない。娼婦との諍いばかり起こしていたようなチンケな男だ、あくまでも傷害の類と営業妨害ほか幾つかで大した罪は犯していない以上、御大層な武器の類の持ち合わせはなく。故にこそ、今回は逃げ切ることができなかったのだが。
男の襟首の辺りを掴むようにして担ぎ上げ、現場を離れようとした己に、やおら背後から声が飛ぶ。
「そのままで行くんじゃないよ、せめて掃除していったらどうなんだい?」
背後で娼婦が、バケツとモップを手に取り翳す。指し示された指の先は、天井へと張り付いた吐瀉物の塊。平均よりも小柄なこの娼婦では確かに一苦労だろうし、己の長身であればそう難しくもない事で、それ故に。
本部へと帰投した己が嗅ぎ慣れぬ香りを振りまき歩いた事に、その誤解を解くまでに書かされた始末書に関しては、必要経費と考えるしか無いのであった。
ドカリ、と己に割り当てられたデスクへと漸く腰を下ろせたのは、帰投してからどれほど経ってからの事であろうか。
在らぬ疑いを掛けられた挙句余計な書類まで書かされる事となり、剰え日ごろの勤務態度がどうだとか、今回の一件とは無関係なことまで問題として論われる始末。上司譲りの交渉術にて有耶無耶のまま煙に巻けなければ、今頃どれだけ無駄な仕事を増やされていた事か、尤もそのせいで時間が掛かったのだと言われてしまってはそこまでなのだが。
「おうおう、随分とお疲れじゃねえか」
唐突に視界の中へと割り込んできた缶コーヒーが、ぶっきら棒にそう告げて来た。いやさ無論コーヒーがしゃべる訳は無い、あくまでも声を掛けて来たのはコーヒーの持ち主の方で、缶コーヒーは差し入れの類いである事は分かっている。……今は、と枕詞につけるべきではあったかもしれないが。
同僚からの差し入れを、ありがたく受け取り一息に呷った己は、ついで口内を刺激する甘味に堪らず中身を吹き出していた。咄嗟に同僚の方を向いてはみたが、奴もさること。既に射線からは身を退いて、安全圏に佇んでいる。
「何だこれは!」
口を突いて出たのは詰問の声。ラベルをよくよく確認すれば、そこにはデカデカと「甘味大増量、maximum珈琲」の字面が躍っているのが見て取れた。甘味の類いは嫌いではないが、さりとて何事にも限度という物があるだろうに。多ければいいものでは無いのだ、何事に関しても。
「カカッ、随分な有様だなおい。お前さんがそんな様子じゃ、しばらく大きな事件にゃあ関わり合いになれねえな」
呵々大笑、何食わぬ顔で汚れた椅子を隣のデスクの物と取り換え、腰を下ろしこちらを揶揄ってきたのは己の同僚。
現場での独断専行と単独行動の責によって何度も降格させられては、腕っぷしでのし上がってくる厄介者。おまけに無断欠勤の常習犯とくれば早晩懲戒免職にされていても可笑しくは無いのだが、どうした事か未だに組織に身を置いているよく分からない人物だ。
頼りになるかならないかで言えば、ギリギリの線上にいるようなソイツ。己よりは低めだが一般的には長身の部類の身体を鍛え上げ、厳つい面持ちの強面を据え付け、短く刈り込んだ金髪が目を引く、如何にも筋者に見える風体の男。
「ランディ、悪ふざけは止めてくれ。疲れているんだよこっちは」
ランドリッツ・ヴェンクバー。特務捜査員としての同僚で、互いに尻拭いをし合う腐れ縁の間柄だ。
「任務中にしっぽり致してか?」
「その誤解を解くのに、だ」
揶揄い交じりに雑談を交わす、何だかんだ疲れ切った頭には先ほどの衝撃がよく効いたのだろう、重苦しく感じていた己の身体が今は軽く感じられる。或いは単に、現実逃避の前兆でしか無かったのかもしれない、ついで掛けられた声に己の腰が椅子へと根を張ろうとしたことからも、その可能性が拭えなかった。
「やぁやぁ、すまないねぇ。楽しそうな所、ちょっといいかな?」
やたらと腰低く会話に割り込んで来たのは己らの上司、ジャン・ドゥイユ。仕事嫌いの昼行燈で有名なこの御仁が、わざわざこんな風にして話に割り込むのは珍しい。雑談程度なら部下にも容赦なく振りかけるのがこの男だ、それがこうも縮こまる等相当な厄介事に違いないと、内心ビクつきながら身構える己に向こうもおっかなびっくり話を始める。強権を振るっても良いだろうに、人の仕事を増やすのにも躊躇いがちだからこそどうにか上司として認められているだけはある。
「本当に悪いんだけど、明日から暫く、二課の方に出向として出られないかな」
その言葉に咄嗟に振り返り柱時計を確認してしまう。夜通しの任務に、無駄に長引いた説教擬き、漸く腰を落ち着けたのはつい先ほどの午前二時過ぎ。
「マジですか」
これには流石に敬語も外れてしまう。そも、二課はその性質上大量に人員を抱えている筈、それが外部から、況してや己の様な閑職の人間まで動員する等、ただ事ではない雰囲気が溢れ返っている。戦慄に背筋を震わせ慄くしかない己へと、更に上司は爆弾発言をぶちかます。
「それと、潜入捜査の顔合わせするから、一時間前には登庁して欲しいって。その分こっちからもキチンと時間外勤務の方は届け出しておくから、お願いね」
すたこらさっさと尻尾を巻いて逃げ出す上司、普段はそれなりに幅を取っている羽根もスマートに縮込めているのは、正に比喩の通りのこと故なのか。
隣で腹を抱えて笑う同僚を、鉄拳一発黙らせながら己は呆然と呟く他にどうしようも無かった。
「マジですか?」
現在時刻午前二時半、寮までの帰宅時間小一時間、定時の登庁時間午前七時半、明日の勤務開始が午前六時半。
「マジですか??」
職場への泊まり込みが決定した瞬間であった。