「ふぅ、記入は終わったはず。どうかしら」
「拝見いたします」
気まずい空気が破られたのは、何と記入終了後の事であった。しかし、俺は悪びれるほど間違った指摘をしたとも思えない。
これは彼女の経歴を聞いた時から思っていた事だ。人が一番望むことが何であるか、偶々その瞬間に引き摺り出された感性でどう測ろうというのか。
「記入に問題はなし。お疲れ様です」
「貴方こそ、付き合ってくれて凄く助かったわ。他にお仕事もあるでしょうに、付き合わせてしまってごめんなさいね」
「これも仕事というものです」
俺は今、努めて平静であろうとする彼女の仕草に揺らいでいる。後ろめたさと甘えの残った上目遣いの瞳、緊張で閉じられた掌、不安を紛らわすように明らかに組み替えるスパンを短くした脚。普遍的な“やりづらさ“を表す記号に、過ぎた行為だったのではないかという疑念が引っ張り上げられる。
だがそれも、彼女と別れて少しすれば変わるだろう。やはりズケズケと内面を知ろうとするものではないし、今俺の感じている後悔を根拠に俺はこの後悔を解消して死ぬべきだったかどうかなど定義できるわけもない。
俺達の中身はカオスだ。だからこそ、ある一時の状況から普遍的な回答は導き出せず、その一時的な衝動に何処までのベットが適切かなどわからない。
そう、分かりはしない。
「貴方は私の事があまり好きではないようだし、余計に申し訳が立たないわ」
しかし、不変の回答が出来そうな質問も世の中にはある。
「いや、それは異なりますね」
「私の振る舞いはこういうもの、形だって変わることはない。貴方はそれが苦手なのでしょう?」
「結論が早すぎる」
俺は一側面を指摘したに過ぎない、何をそこまで不安そうにする必要があるというんだ。
「見透かしたつもりになって断定するのはやめてください」
「やっぱりそれは…………」
面倒な女だ、全く!
「あーめんどくさいな、俺の反応を勘ぐったり裏を読もうとするのはやめろと言ったんだ。それ以外はどうでもいい」
「本当に?」
「何で今嘘をつくんだよ。顔色伺いは得意なんだろう、どう見えてる!」
じっと見つめられる。そういうことではないだろ。
遠目でも感じていたことだが、顔立ちも体付きも片手でへし折れそうな華奢さだ。人が人であるための最低限の要素以外は全て美しさに売っぱらってしまったらしい。
髪が一房、顔の前に落ちる。かきあげて、くすくす笑い出した。
「だからそういうのが嫌なんだが…………」
「ごめんなさい。でも貴方が敬語を外したのを初めて見たの、嬉しくて」
え、どういう意味? やっぱ距離感近すぎる。
「…………アルトリア・ジアロ氏。警告しますが、貴方のアーツや特質がもたらすものは貴方の持ち物だ」
「あら、またお仕事…………私はさっきまでの喋り方で居てくれる方が好ましいのだけれど」
「調子に乗るなよバカサンクタ」
何が面白いのかさっぱり分からないが、出会って以来最も深く長い笑みを浮かべていた。
分かってるのか、言っている意味は。不安になる。
「お前がどんな能力を持ち、どのようなスキルを持とうが他人だけで自分を構成することはない。完全な伝達もあり得ない、お前のその教導でもしてやろうという態度は不愉快だ。不躾だとも思っている」
「ずっと分かりやすい指摘になった。貴方、優しいってよく言われているでしょう?」
「煙に巻くな」
冗談めかした調子で肩を竦められる。竦めたいのはこっちだ馬鹿野郎。
「ここには色々な背景を持った人間が生きている。そしてそれは多様であり、不可解であり、畏怖の対象であり、つまり未知だ。お前だろうが例外ではない」
「誠実さに囚われて臆病なのね」
「知らん。お前のその知ったような口の利き方は彼らを傷つける要素として十分だ、他人としての限界と領分をよく弁えろ」
ありとあらゆる他人はベールの奥に潜み続ける。俺達はその素顔を見ることだけで、何年だってかけてしまうし、そういうものだと誰もが知っている。
その点で下品で不躾だと言ったのだ。少し特別な何かを持ったぐらいで、俺達の間に置かれた壁が取り払われたりしない。飛び越えたつもりでこちらに触れてくるような考え方は好かないし、危険だ。
アルトリアの視線は固まっていた。正確には、眠たげにも見えるように目尻が下がり、俺だけを捉えていた。
既に恐ろしくはない。この場所が戦うそれより、ずっと浅はかで幼稚だからな。
「謹んでお言葉を頂戴するわ、貴方の指摘は側面として正当だもの」
「であれば結構です。貴方の危険性は紙の上に書かれたこんな得体の知れない経歴ではなく、まさしくそういうものだ」
「危険性、ね…………遅くなったけれど、名前を教えてもらっても構わないかしら」
名前。俺達はコードネームで大半を過ごす。
俺のそれは、古い神話に出る神だった。かつて世界に栄えた“人々“を片手で滅ぼせるような。
「■■■■、と名乗っています」
「随分と古い神の名前を使うのね。真実にはヴェールがかかっている…………貴方の心そのもののよう」
それをやめろと言ったんだが……。
「また会いましょう。次は貴方の作法に則って、その音は聞かせてくださる?」
冗談だろ。
所属だけは死んでも言わないことにした。調べればバレるのだが…………。
「これから始まる聴取とその記録は、リターニア帝国宮廷及びラテラーノ教皇庁からの要請に基づく変則心理テストのデータの一つとして扱われ、君のパーソナリティや生活の一切への影響を及ぼさない誓約が盛り込まれたプロジェクト下での行為と解釈される。同意してくれるか」
随分と長い口上をいとも簡単に言い切る人だ、昔からずっとそうで、息継ぎの方が内容より気になるくらいの時もあった。
「えぇ、同意します。わざわざ長い口上をご苦労様です、ケルシー医療部門長殿」
「堅苦しくする必要はない。データに不要とこちらが精査したものには注釈が与えられる、君自身もその内容に関与可能だ」
その喋り方ほど俺の背筋に鉄芯を走らせるものはない。彼女のその喋り方は幾度か聞いた為政者、世紀の存在…………即ち大局に関わる変化そのものに手を触れてきた人物と同系列のものだ。
アルトリアは無思慮が善性の加点対象と言ったが、ならば俺はこう返そう。
無知とは誤謬の根源だ。
「これはケルシー先生に関わる上で維持するべき俺の体裁です、これが俺に出来る精一杯の歴史と変化への誠実さだとご理解ください」
「そうか。その心掛けは評価したいところだが、本題から入る」
問題はその後だった。
アルトリアとのマンツーマンで使われた簡素な大部屋に比べると、ここは些か情報がうるさく、それでいてロドスアイランドらしい。
置かれた薬品は傑作選で、重なる紙束は背負おうとした大地の痕跡。俺達は、このデスクに簡素に置かれ過ぎてしまった数々の経緯を全て解く事が最終目標なのだ。
だからこそ、無造作に置かれた大きな記録装置は異物だった。俺の呼吸を深くさせる。
「該当“患者“に対する君の主観的印象を語ってくれ」
「主観的ですか」
一際息を吸う。
「無礼で独善的な女性ですね」
「初めての評価だ。誰もが彼女の振る舞いに一定の好意は持つ、アーツやその特質も原因だが」
感性が違うのだろう。俺は少し顔を顰めただろうし、ケルシーはそう見えたと思わしき小さな視線の動きがあった。
「それを前提としたかのような成り立ちが不快ですね。彼女は個体だ、そして俺ではない。俺の何も知ったようなつもりになる事はできない」
「抜擢の論拠に忠実な評価だ。では彼女の言動の特質はそこにあるという事だな?」
「そうですね。彼女は才能に人格を食われていますよ」
少し満足気だった。なるほど、俺がこう答えると知っていたな?
被験者の人格自体の評価スコアは単に変動幅を見るだけだろう、俺は彼女の中では“反抗的だからこそ平衡“とでも見られているのではないだろうか。
「本艦での彼女の活動についての意見は?」
「それを制限するのは我々の基本理念から背くと判断します。彼女の能力は読みました、アレを特別性と単純評価して良いのであれば、もはや病理と表裏一体です。これはあらゆるアイコニックな形質でそうであるはず」
「同意する。続けてくれ」
ロドスアイランドは危険性を理由に排斥することを可能な限り避けるべきだ。
少なくともアルトリア・ジアロは俺の諫言(言い過ぎだった事は自覚している)に対して真摯な態度を見せた。
それは俺という個人を通した彼女の働き。伴奏に徹しない、アルトリア・ジアロの心が発したベクトルと考えていいだろう。
「アルトリア・ジアロは他人に定義されすぎましたが、同時に他人によって更生し得ると考えます。つまり、彼女を何らかの問題として隅に置く事は、短絡的な解決であり結果を大きく動かせる要因たり得ません」
「珍しく饒舌だな」
笑われた。いつも貴方相手にはそうしていることは、一番貴方自身が知っているだろう。
貴方達に誠実であることが、ロドスアイランドのパーツとしての用途を明瞭にする最大のポイントだ。
「私は彼女の滞在をむしろ奨励します。本艦は良し悪しを無視して人間の経歴について豊かであることは疑いようもなく、この無数のカオスの中で彼女は掻き乱され、収束し、自己再定義を図る事が出来るかもしれません」
滑稽な事であるが、医療…………とりわけ俺に今回求められたのは、こういうものだ。
他人が知ったような口を利く。意趣返しであり、俺の限界だ。
正直、あの手の手合いには慣れていなかった。多分俺にも何度か転機があり、今はとりあえず彼女と関わる可能性が高い気がする。
慣れない強弁をした。ケルシーの表情は変わらない。
「…………」
「……………………」
「……………………………………それは些か性急だが」
言葉に困らないでくれ。心労察して余りあり、俺の羞恥が閾値を突破する。
「だが、ようやく分かってきたようだな」
それはいいことだ。俺はこれで、ここで馴染みたいと常に思っているのだから。
「君の指針は間違っていない。挑戦は円滑で自然である方が好ましく、付け加えるならば多くの視座を持つべきだ」
軽く煽るカップの中に、見慣れた珈琲の縁の跡。やはり喉は乾くらしかった。
「多くの人間が今回の受け入れに関して政治的あるいは疑似的な監獄に似た意図を想像することもある中、君はあくまで彼女の“寛解“を視野に入れている。それこそがロドスアイランドで重要視される事項の一つと言っていい」
「寛解、ですか」
つまり治ること自体はないだろうということだ。
あくまで軽症化し、生活をより楽なものに出来るであろうという展望までしかケルシーは述べなかった。
俺がそれを理解しているのかを確認するように、彼女の宝石めいた冷たく重い瞳がハープーンめいた視線をぶつけてくる。
幸い今回の俺は自信があった。
「治癒など珍しいことだ。そしてこれは大事なことだが、彼女を患者と見なすのはあくまで私や君の主観的な判断であり、これは容易に差別と悪意の構造にすり替わる」
腐るほど見た。オリパシー周りなんてそんなものばかりだ。
彼女の指摘通り、それは一切他人事にはならない。俺達もいつだって抑圧する側に回りうる。
その危機感を忘れないからこそ、俺達はこうしてあらゆる国家に属さない複雑な立ち位置から関心を失わずに済んでいる。
リスクとは、可能性だ。
「だが決して、この意見自体に何ら泥が被せられているわけではない。彼女は被害者であり、闘病患者であり、その一歩を踏み出した可能性は否定し得ないのだから」
難しい話だ。だが、変な話ではない。
「というわけで、君にも彼女の監視兼案内役を務めてもらう。通達や詳細は追って君の個室に送ろう、よく読んでおいてくれ」
終わりだ。
これで一応話は終わりです。
続編は反響次第で書くかもしれない、という程度です。元々はただのヴィルトゥオーサのエミュレートの練習だったので、なんか思ったよりは読まれているようだ…………等と。
主人公もアクが強いので、まあ話半分にまた読み返していただければ幸いです。