巡らぬ天と光なき永夜の大地   作:こたつむり

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囁く森と、月の影
プロローグ:月の影に揺れるもの


 それは、始まりではなかった。

 終わりでもなかった。

 

 世界は、ただ静かに、壊れていた。

 

 空は黒く、星はなく、月すら欠けていた。いや、欠けたというには足りぬ。

 そもそも、月などというものが本当に存在していたのか――今となっては、それすら定かではない。

 

 風は止まり、海は干上がり、大地は呻きをあげたまま眠りについた。

 その眠りは永く、あまりにも永く、誰もがそれを「夜」と呼ぶことさえ忘れていた。

 

 かつて、太陽が昇っていた。

 月が巡り、空を二つに分けていた。

 人は光の中に立ち、影のもとに祈りを捧げていた。

 だが今、そのすべてが途切れている。

 

 世界は、光を失った。

 

 原因は一つ――王が狂ったのだ。

 その王の名は、もう誰も覚えていない。

 ある者は彼を「星喰らい」と呼び、またある者は「環を断ちし者」と呼んだという。

 

 けれど、本当に狂ったのは王だけだったのだろうか。

 月が彼に語りかけたという。

 太陽が彼の目を焼いたという。

 あるいは、彼は神々の命に従っただけだったという説もある。

 

 だが今となっては、すべてはただの残響に過ぎない。

 

 太陽は砕け、空を巡る輪は失われ、世界は“永夜”へと沈んだ。

 その夜は朝を知らず、ただ終わりなき眠りを繰り返す。

 光なき大地。影が支配する世界。

 死が凍りつき、生が腐りゆく場所。

 

 その果てで、ひとつの影が目を覚ました。

 

 まず、音が戻った。

 乾いた石が擦れる小さな音。自身の身体がわずかに動いたことで生じた、初めての振動。

 

 次に、呼吸。

 肺の奥に冷たい空気が流れ込み、胸を満たす。

 それはまるで、自分という器が“世界”とつながる最初の儀式のようだった。

 

 目を開けた。

 だがそこにあったのは、ただの闇だった。

 天井は見えず、壁も床も境界を持たず、すべてが闇の中に溶けている。

 それでも、確かに「ここにいる」と実感できるほどに、自身の存在は輪郭を持っていた。

 

 ゆっくりと、身体を起こす。

 節々に残る鈍痛は、眠りが長かった証。

 膝を立て、指先を石の床に触れさせると、ひび割れた冷たさがそこにあった。

 

 “何か”を知っている感覚が、胸の奥でうずいた。

 言葉も、記憶も、意味も持たないそれは、ただ確信に近い直感として存在していた。

 

 名を思い出そうとしたが、何も浮かばなかった。

 忘れたのではない。

 ――最初から、持っていなかった。

 

 そう感じたとき、不思議と焦燥も戸惑いもなかった。

 名もなく、記憶もなく、それでも在ることに意味がある。

 そうした認識だけが、彼――否、“それ”に近い存在――を支えていた。

 

 石の床に立ち上がる。

 ぐらつく足に力を込め、重心を整える。

 身体は使い方を覚えていた。まるで、遠い昔に一度だけ生きたことがあるかのように。

 

 そのとき――空気が震えた。

 

 風だ。

 

 ほんの一瞬、かすかな風がこの場所を通り抜けた。

 だが確かに存在した。

 止まっていたはずの空気が、世界が、今ふたたび動き出そうとしていた。

 

 その風に乗って、音がした。

 足音――それも、自分ではない“誰か”の音。

 その音はとても静かで、しかし確実に近づいてくる。

 

 名もなき者は、顔を上げた。

 

 目の前に、女がいた。

 

 それは、夢か幻のようだった。

 

 女の輪郭は闇の中にあってもはっきりと見えた。

 白銀の髪は夜風に揺れ、冥色の衣は空気に溶け込むように滑らかにたなびいていた。

 その姿はどこか現実離れしていたが、確かにそこに存在していた。

 

 「ようやく、目を覚ましたのね」

 

 そう言って、女は名もなき者を見下ろした。

 声音はやわらかい。けれど、そこには感情らしい起伏がなかった。

 ただ、すべてを見届けてきた者の静けさがあった。

 

 名もなき者は答えなかった。

 問いかけにも聞こえたが、返答を求めるものではないと、直感的に理解していた。

 

 「あなたは、長く眠っていた。

  名を持たず、声もなく、形さえもあやふやなまま、終わることなき夜の底に」

 

 彼女の言葉は、どこか詩のように響いた。

 それは語りかけというよりも、記録――あるいは預言の一節のようだった。

 

 「この世界は、かつて循環の理によって保たれていた。

  太陽が昇り、月が満ち欠け、季節が廻る。

  光と闇が交互に訪れることで、命もまた揺らぎ、継がれていった」

 

 彼女は視線を天に向けた。

 だが、そこには何もない。星も月も、ただの虚無が空を塞いでいる。

 

 「けれど、その理は壊れた。

  太陽が砕け、月が沈み、空が裂けた。

  廻るはずだったすべてが止まり、夜だけが残った。

  “永夜”と呼ばれる、この終わらぬ死の時間が」

 

 語りながら、彼女は一歩名もなき者に近づいた。

 その足取りは音もなく、しかし地を確かに踏んでいた。

 

 「それでも――残されたものがある。

  砕けた太陽の欠片、十五。

  いずれも世界に散らばり、深く眠っている。

  忘れ去られ、封じられ、語られることのない光の残滓。

  けれど、それがまだこの大地に残っているのなら……」

 

 彼女はそこで言葉を止め、名もなき者を見つめた。

 

 その瞳は、凍てついた湖面のように冷たく、どこまでも静謐だった。

 だが、その奥にはかすかな熱が灯っていた。

 かつて世界を慈しんでいた者だけが持つ、消えかけた光。

 

 「あなたは、歩くことになるでしょう。

  自らの意志かどうかは関係ない。

  語られることなき存在として、それでも“歩んでしまう”のでしょう。

  それが、この世界に目覚めたということだから」

 

 名もなき者は視線を落とす。

 足元の地は黒く焦げ、ひび割れていた。

 だが、その足は確かに地を踏みしめている。

 それだけで、充分だった。

 

 彼女は微かに笑んだ。

 その微笑には、何の慰めもなかった。

 ただ、諦念と受容だけが浮かんでいた。

 

 「私は“月守の女”。

  かつて月に仕え、いまはその影を継ぐ者。

  これからも、時折あなたの旅路に現れるでしょう。

  私は見届ける。

  あなたがこの夜を、どう歩ききるのかを」

 

 そう言って、彼女は天に手を伸ばした。

 

 だが、その手が掴むものは何もない。

 あるはずだった月も、星も、何ひとつ残されてはいない。

 

 「……忘れないで。

  世界は、まだ選ばれていない。

  滅びか、再生か、それとも――」

 

 言葉の続きを言わぬまま、彼女の輪郭が風に滲んだ。

 衣が揺れ、髪がなびき、闇に溶けるようにしてその姿は淡くなっていく。

 

 「……光はまだ、どこかに残っている。

  それを見つけることができるなら、この永夜にも終わりは訪れる」

 

 その最後の言葉が空気に散った瞬間、彼女の姿は完全に掻き消えた。

 

 名もなき者はひとり、闇のなかに残された。

 だが、孤独ではなかった。

 胸の奥に、確かに灯る何かがある。

 それは名ではない。記憶でもない。

 それでも、歩む理由になり得る“火”だった。

 

 彼は、歩き出した。

 誰に呼ばれるでもなく、どこへ向かうかも知らず。

 けれど、それが“始まり”であることだけは、確かだった。

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