巡らぬ天と光なき永夜の大地   作:こたつむり

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第4章:影を喰らうものと、空虚なる祭壇

 灰の地を越え、岩と瘴気の谷へと足を踏み入れる。

 

 そこは、かつて鉱都と呼ばれていた場所のはずだった。

 地に豊かな鉱脈が流れ、火と鉄によって街は栄えたという。

 だが、今はただの空洞に過ぎなかった。

 

 地は裂け、谷は口を開け、底の見えぬ亀裂が幾重にも走っている。

 かつてあった町並みはすべて地に呑まれ、今では黒く濁った瘴気が、地底から静かに這い上がっていた。

 

 名もなき者は、石の斜面を慎重に下る。

 

 谷に降りるにつれ、音が消えていく。

 風も止み、岩のきしみさえ聞こえない。

 代わりに、胸の奥に圧がのしかかってくる。

 それは物理的なものではなく、“存在の重さ”に似ていた。

 

 この地は、何かを喰らっている。

 

 光ではない。命でもない。

 ――影。

 

 この谷に踏み入れた者たちは、姿を失わなかったとしても、“何か”を削り取られて出てきた。

 その多くは、再び口を開くことができなかったという。

 

 空は黒く沈み、岩肌には、見えない何かの跡が刻まれていた。

 鋭利な爪痕のような、あるいは泣き声のような、曖昧な傷が点々と続いている。

 

 谷の底に近づいたとき、足元の石がわずかに震えた。

 

 名もなき者は立ち止まる。

 地が鳴っている。

 呼んでいるわけではない。

 拒んでいるわけでもない。

 ただ、そこに“喰らう存在”があることを、告げていた。

 

 谷底に、古い祭壇があった。

 

 正確には、祭壇の“残骸”だった。

 石は崩れ、柱は倒れ、中心には何も祀られていない。

 祭られるべき神の像はとうに失われ、台座だけが空しく残っている。

 

 名もなき者は近づく。

 周囲には人の痕跡はなく、灰さえも積もっていなかった。

 この地では死さえも拒まれたのだ。

 

 祭壇に手を伸ばしたとき、影が揺れた。

 

 いや、影のように見える“何か”が動いたのだ。

 祭壇の裏、谷の壁面のひとつがわずかに歪んで見える。

 視界の端で揺らいだそれは、光ではなく、認識の境界そのものが崩れていくような感覚だった。

 

 名もなき者は一歩、踏み出す。

 影が膨らむ。

 

 空気が冷える。

 音が遠ざかる。

 存在の深みに、何かが触れてくる。

 

 そのとき、背後から風が吹いた。

 

 「気をつけて」

 

 声がした。

 月守の女の声だった。

 

 彼女の姿はなかった。

 けれど、その声音は、まるで名もなき者の背に手を置いているかのように、はっきりと感じられた。

 

 「それはただの影じゃない。

  そこにあるのは、“空虚”よ。

  何かを奪うのではなく、意味そのものを喰らい、存在を曖昧にしてしまうもの」

 

 名もなき者は振り返らない。

 ただ、目の前に揺らぐ影に対し、もう一歩、踏み込む。

 

 その瞬間、視界が裏返った。

 

 視界が裏返った――そう錯覚するほど、現実が軋んだ。

 

 谷底に立つ名もなき者の周囲から、色と形が剥がれていく。

 岩も、空も、空気さえも。

 すべてが“存在”から切り離され、言葉にならない感覚の断層に飲み込まれていった。

 

 音も消える。

 匂いも、重力も、時間さえも消えていく。

 ただ、“存在している”という実感だけが、名もなき者の内側にかろうじて灯っていた。

 

 その中央に、“それ”はいた。

 

 形はなかった。

 だが、存在はあった。

 喰らう。

 ただ、それだけの意志が、あまりにも純粋にそこにあった。

 

 影を喰らうもの。

 

 それは生命ではなかった。

 意識でも、感情でも、悪意ですらなかった。

 この世界が壊れたとき、“余白”として生まれた空虚の断片。

 

 名もなき者がその正体を見定める間もなく、それは動いた。

 

 接触ではなかった。

 侵蝕だった。

 

 彼の影が裂ける。

 自分の足元に確かにあったはずの影が、何かに喰われていく。

 形が崩れ、境界が揺らぎ、存在の足場そのものが削られていく。

 

 “消える”という言葉が脳裏をよぎった。

 だが、それは死とは異なる。

 記録も痕跡も何も残らず、“初めからなかった”ものになるという感覚。

 それこそが、この存在の本質だった。

 

 だが、名もなき者は踏みとどまった。

 

 彼の手の中には、二つの欠片があった。

 囁く森の残滓。

 祈りの地の名残。

 

 そのどちらも、確かに“想い”を宿していた。

 力ではない。

 ただ、ここに“いた”という証。

 それが、この空虚の前に、わずかな抵抗として灯っていた。

 

 影を喰らうものが揺れる。

 理解しているわけではない。

 だが、何かに触れたのだ。

 喰うことも、奪うこともできない“重み”に。

 

 名もなき者は踏み出す。

 

 一歩。

 また一歩。

 確かに地を踏みしめて、空虚のただなかへ。

 

 その足音が鳴った瞬間――世界が反転する。

 

 再び、音が戻った。

 風が吹き、瘴気が地へと引き戻される。

 削がれていた空気が満ち、視界に岩の輪郭が戻る。

 

 “それ”は、崩れていた。

 

 喰らうことを拒まれた“空虚”は、自己の存在を維持できなかった。

 輪郭を持たぬまま、意思も声もなく、ただ消えていく。

 まるで、始めから何もなかったかのように。

 

 その中心に、ひとつの欠片が落ちていた。

 

 それは、透き通った黒。

 だが、深部にごく微かに光が灯っていた。

 それは“拒絶された空虚”の名残――空白が意味を持ち始めたときに残された、希少な痕跡。

 

 名もなき者は、それを拾い上げた。

 

 掌に乗せると、まるで心の奥に、静かで澄んだ水が注がれるような感覚が広がる。

 それは慰めではない。

 祝福でもない。

 ただ“確かに歩いた”という、過程の証明だった。

 

 月守の女の声が、どこかで響いた。

 

 「……よく、歩いたわね」

 

 それは称賛でも、労いでもない。

 ただ見届けた者の言葉。

 

 「この大地にはまだ、いくつもの“喰らうもの”がいる。

  意味を奪うもの、形をねじるもの、記憶を壊すもの……

  それでもなお、進むのなら」

 

 名もなき者は、空を仰ぐ。

 黒い空に、ひと筋の風が流れた。

 それは夜に生まれた、わずかな“揺らぎ”。

 

 歩く。

 

 空虚の底から這い出し、谷を越え、彼は再び進む。

 重みを宿し、光なき世界を歩くただひとりの影として。

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