巡らぬ天と光なき永夜の大地   作:こたつむり

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第5章:眠らぬ塔と、血に濡れた記録

 黒い岩の尾根を越えた先に、それは現れた。

 

 空を突くように立つ、一本の塔。

 周囲に他の建造物はない。町も、壁も、人の痕跡すらない。

 まるでそれだけが世界から切り離され、孤立した“知の墓標”のように佇んでいた。

 

 名もなき者は、塔を見上げた。

 

 その外壁は白く、月光のように鈍く輝いていた。

 だが、光源などない。太陽も月もこの空にはないのだから。

 それでも塔は、自らを照らすかのように、沈黙のなかに存在していた。

 

 扉はなかった。

 代わりに、塔の麓にぽっかりと開いた“裂け目”がある。

 それは意図して設けられた入口ではない。

 まるで内側から何かが這い出ようとした跡のように、無残に抉られていた。

 

 名もなき者はその闇へと足を踏み入れた。

 

 内部は冷えていた。

 空気は澱み、鉄と墨のような匂いが満ちている。

 だがそれは、死の匂いではなかった。

 むしろ――文字の匂い。

 

 塔の内部には、書があった。

 書棚が積まれ、巻物が散らばり、記録という記録が塵にまみれて朽ちていた。

 だが不思議なことに、そのいくつかはまだ読める状態を保っていた。

 

 名もなき者は、一冊の書を拾う。

 

 表紙には何の文字もなく、ただ古い血のような黒い染みだけが付着していた。

 ページを開く。

 文字は滲み、ところどころ欠けていたが、確かに“誰かの記したもの”だった。

 

 《記録は絶える。だが、記すことは罪ではない。

  我らが語るものが誰にも届かずとも、それは我らの歩みである。

  記録は、存在の形である。》

 

 名もなき者は、その書を閉じ、元の場所にそっと戻す。

 

 彼には記すべき名がない。語るべき歴史もない。

 だが、ここにあったものが何を残そうとしたかは、はっきりと感じ取れた。

 

 ――この塔は、眠らなかった。

 

 世界が沈黙に沈み、祈りも記憶も風化する中で、

 この場所だけは、“誰かが書く”ことをやめなかった。

 

 彼はさらに奥へと進む。

 

 床には破かれた羊皮紙。

 壁には抉られた文。

 階段は途中で崩れ落ち、上階へ続く道は失われていた。

 

 だが、その断絶のなかで――ひとつの光が、塔の最奥に瞬いていた。

 

 その光は、まるで呼吸するように脈動していた。

 灯ではない。

 だが、生命のように明滅するそれは、明らかに“欠片”の兆しだった。

 

 塔の最奥。

 空間の中央に、それは浮かんでいた。

 

 光の欠片――

 けれど、それはこれまでに手にしたどの欠片とも異なっていた。

 色は淡く、形は不定。

 だが、近づくにつれて明らかになっていくその本質は、明らかに“言葉”だった。

 

 言葉の気配。

 名もなき者が持たぬもの。

 だが世界に刻まれた最初の記録こそが、この欠片には宿っていた。

 

 そのとき、気配が現れる。

 

 塔の壁面に沿って、ゆらりと立ち上がる影。

 それは人のような形をしていたが、輪郭はかすかに崩れていた。

 布のように揺れ、煙のようにたなびく。

 だがその胸元には、確かにひとつの印が刻まれていた。

 

 《筆記者》――そう呼ぶしかない印象。

 

 影は語る。

 

 「記す者は、在り続ける。

  語ることで、書くことで、思い出すことで。

  名を得た者たちは、こうして形となり……やがて、囚われる」

 

 声は掠れていた。

 だが、その言葉の芯には深い痛みと諦念があった。

 それは自らを語ることを止められなかった者の声。

 伝えようとし続けた果てに、誰にも届かず崩れた“記録そのもの”の残響。

 

 「お前には……名が、ない」

 

 名もなき者は頷かない。だが否定もしない。

 事実、それがこの世界に在る自身のかたちだった。

 

 「羨ましいとさえ思う。

  我らは名を抱き、語り、記録した。

  だが、それを望んだ者など、どれだけいただろう……」

 

 影が揺れる。

 塔の壁に沿って、古びた書がひとりでに捲られ、風もないのに紙片が舞った。

 

 「語られた者は、名を喰らわれる。

  残すことは呪いだ。

  ここに残る記録は、かつて存在した“全ての語り”の墓標に過ぎない」

 

 その声と共に、塔の中心に漂っていた欠片が脈動する。

 

 記すこと。

 語ること。

 忘れられること。

 そして、それでもなお“残そうとした”こと――

 

 名もなき者は、その欠片に手を伸ばす。

 

 影が動いた。

 

 明確な敵意はなかった。

 だが、それは“渡さぬ”という意思だった。

 名の重みを知る者が、それを放せないと訴えていた。

 

 空間が歪む。

 塔の記録が燃えはじめる。

 言葉が裂け、頁が砕け、記憶の断片が空気に溶けていく。

 

 名もなき者は動かない。

 ただ、歩み出す。

 静かに、まっすぐに、記憶の嵐のなかを進む。

 

 掌が欠片に触れる――

 

 その瞬間、塔の内側すべてが光に飲まれた。

 

 

 

 ――光が消えたあと、彼はひとり、塔の外に立っていた。

 

 塔は崩れていた。

 まるでその存在すら記録から消されたかのように、瓦礫だけが残っていた。

 

 手の中には、ひとつの光。

 

 それは確かに“言葉の欠片”だった。

 名を持たぬ彼が、名を記した場所から持ち帰ったもの。

 それは矛盾であり、同時に祝福だった。

 

 月守の女の声が、再び響く。

 

 「名を持たない者が、記録に触れた。

  その意味を、世界はきっと思い出せない。

  でも、歩む貴方のなかにだけ、それは灯る」

 

 風が吹く。

 光は彼の中に吸い込まれ、静かに沈んでいく。

 

 名もなき者は、また歩き出した。

 

 この永夜の地を。

 語られぬまま、記されぬまま、ただ在ることを肯んじて――

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