巡らぬ天と光なき永夜の大地   作:こたつむり

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第7章:燃え尽きた街と、嘆きの火口

 焦げた匂いが、風に乗って届いてきた。

 

 焼け落ちた家々。

 崩れた壁。

 溶けた石畳の上に、炭のように黒く変質した街並みが続いている。

 

 名もなき者は、そこに足を踏み入れた。

 

 この街には名がない。

 あるいは、かつての名が燃え尽きてしまったのかもしれない。

 看板も記録も、呼び名すらも、すべてが黒に塗り潰されていた。

 

 焼けた地面を踏みしめるたびに、靴裏に灰がまとわりつく。

 音はしない。風もない。

 ただ、どこか遠くでくぐもったうめき声のようなものが、地の底から微かに響いていた。

 

 その音に導かれるように、彼は街の中心部へと向かう。

 

 道の両側には、焼け落ちた建物の骨組みが連なっていた。

 かつてそこに灯りがあり、人の声があり、営みがあったことは想像に難くない。

 けれど今、そこにあるのは“焼き尽くされた記憶”だけだった。

 

 ふと、壁に残された痕跡が目に留まる。

 

 手形――

 いくつも重なり、焦げた表面に焼きついたように残されている。

 それは助けを求めた跡か、最後に何かを伝えようとした痕跡か。

 意味はもはや読み取れなかった。

 だが確かに、そこには“声”があった。

 

 名もなき者は、その手形の前で一瞬だけ足を止めた。

 

 ――なぜ、世界はここまで焼けたのか。

 

 答えはない。

 だが、誰かがこの炎を望んだのだ。

 あるいは、自ら火を放ったのかもしれない。

 

 やがて街の中心――広場に出た。

 

 そこには、ぽっかりと開いた巨大な火口があった。

 

 まるで地そのものが嘆き、声を上げたかのように裂けている。

 深さも、底もわからない。

 ただ、地の奥から絶え間なく、かすかな呻きがこだましていた。

 

 名もなき者は、火口の縁に立った。

 

 熱はなかった。

 にもかかわらず、足元には黒い煤が渦を巻いていた。

 まるでまだ、何かが燻っているかのように。

 

 そのとき、火口の奥から“音”が届いた。

 

 声ではない。

 だがそれは確かに、“呼び声”に似ていた。

 

 名もなき者は、腰を下ろし、火口の縁に手を添える。

 石は熱くも冷たくもなく、ただ“痛み”のような感覚を持っていた。

 それは炎の残滓ではない。

 ここに在った“感情”が、燃え残っていたのだ。

 

 そして、視界の端に何かが揺れた。

 

 火口の向こう、煤の帳の中に、ゆらりと浮かぶ人影。

 いや、人ではない。

 それは炎を模したような、焦げた皮膚と歪んだ輪郭を持つ“残火の存在”。

 

 次の瞬間、火口から――何かが這い上がってきた。

 

 這い上がってきた“それ”は、炎の形をしていた。

 

 人の背丈を持ちながら、その体表は絶え間なく燻っていた。

 皮膚は炭のようにひび割れ、目や口の在処すら曖昧で、黒煙が絶えず立ち昇っている。

 けれど確かに、それは“人の姿”を模していた。

 

 残火の存在――

 それは、この街に最後まで遺された想念だった。

 

 名もなき者に敵意は向けられていなかった。

 だが、燃え残るものは静かに問いを投げかけてきた。

 

 「……なぜ、炎を望んだ……」

 

 その声は、耳ではなく胸に響いた。

 焦げついた記憶の残響。

 誰のものかも定かでない言葉が、世界の奥から滲み出すように伝わってくる。

 

 名もなき者は答えなかった。

 それは、答えを求める問いではなかった。

 ただ“燃え尽きなかった想い”が、繰り返し口にし続けている問いだった。

 

 「なぜ、終わらせなかった……

  なぜ、赦さなかった……

  なぜ……私は、燃え続ける……」

 

 呻くようなその声と共に、残火の存在が滲んだ。

 輪郭が揺らぎ、影が爆ぜる。

 怒りではない。

 哀しみでもない。

 それは、ひとつの感情が焼け焦げ、意味だけを残して朽ちていく姿。

 

 火口の奥から、またひとつ影が現れる。

 

 それは人の影ではなかった。

 火そのもの――否、火に“意味”を与えようとした誰かの残り香。

 名もなき者の足元に、焦げた地面がひび割れる。

 

 叫びのような、旋律のような、息のような、断末魔のような、音。

 

 名もなき者は、それを“受け止める”という選択をした。

 

 踏みとどまる。

 逃げない。

 拒まない。

 ただ、すべてを黙して受け入れる。

 

 その静けさが、世界を変えた。

 

 残火の存在が、ふっと力を抜く。

 炎が崩れ、炭が砕け、灰となって風に舞った。

 

 風が吹いた。

 初めて、この街に“冷たい風”が通り抜けた。

 

 火口の中心に、光が現れる。

 

 それは燃え残りではなかった。

 焼けきった果てに残った“芯”。

 意思の核。

 怒りも、悲しみも、祈りもすべてを焼き尽くした先に、なお残っていた“確かさ”。

 

 名もなき者は、それを拾い上げた。

 

 欠片は熱くなかった。

 むしろ、ひどく静かだった。

 その沈黙のなかに、微かに灯る光があった。

 

 火の記憶。

 終わりのない叫び。

 赦されず、赦すこともできなかった感情たちの名残。

 

 それが、今ようやく静かに燃え尽きようとしていた。

 

 月守の女の声が、遠くで揺れた。

 

 「炎は、願いのかたち。

  燃やすことでしか、自らのかたちを保てなかった者もいた。

  けれど……それでも歩むなら、貴方はきっと、“形のないまま”進める」

 

 名もなき者は、応えずに立ち上がる。

 

 火口の底は静かになっていた。

 呻きも声も、もう何もなかった。

 ただ、地の奥に染み込んだ“記憶の灰”だけが、まだ熱を持っていた。

 

 それでも、夜は続いている。

 

 そして彼は、またひとつの欠片を胸に、歩き出す。

 

 燃え尽きた街を越え、次の地へと――

 

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