朝、今日はいつもよりずっと早く目が覚めた。
俺たちの泊まる宿、
埋まりにくい大部屋を貸し切りで連泊し、しかも金払いも良いので宿屋の店主も日に日に愛想が良くなっていく。さて、朝食まで程よく時間が空いているし、ひとっ風呂浴びてくるか。
抜き足、差し足……。
誰も起こさず、振動の一つすら与えない。
何日か前に早起きした日も朝風呂にいったのだが、俺が宿を出た後でクロエが尾行して来やがったのだ。
なぜ付いてくる、と問えば、小癪にも知恵を働かせた彼女はこう言った。
「わたしがどこに行こうと、それはわたしの勝手ではないか? 君にわたしの行動を制限する権利があるのかね?」
何なんだその口調は。
とりあえず縄で縛ってカトレアに引き渡した。
そういうことがあったので今日は気配を消して宿を出た。
愛想のいい店主も、今なにか通り過ぎたかな? と俺に気付くことはなかった。
神経を尖らせてクロエの気配を探る。
まだ部屋でスース―と寝息を立てているのが分かった。
だが、まだ油断ならない。
狸寝入りかも知れない。
クロエがその気になれば髪を使って屋根に登り、俺の気配察知で気づきにくいルートを使うことも出来るだろう……どうして朝風呂に行くのに神経を張り巡らせとんだ、俺は……。
とか何とか言いつつ、そろそろ風呂屋に着くというところで路地裏から妙なうめき声が聞こえてきた。
苦しそうにしている声だな。
一人ではない。
苦しそうしている者と苦しめている者、二人が居るのが分かった。
この天下の往来で朝から乱暴事とは太い野郎である。
ここで見過ごすと湯に浸かりながら耳の奥にこびりついたうめき声が気になってしまうことだろう。
仕方ねぇや。
気持ちの良いひとっ風呂のためにひと肌脱いでやるってもんだ。
どうせ後で服を脱ぐってモンだからちょうどいいぜぃ。
てやんでぃ! バーロー! 畜生めぇ!
こ~のすっとこどっこいが! と、躍り出たらティントアとサリだった。
「あ、ヴィゴ」
「な~にやってんでい……じゃなくて、何やってんだ?」
見れば昨日のようにサリの腹にティントアの手が突き刺さっている。
「ぅう……ギィ……ギィゴ様……おはよウごザいマす!」
サリ……お前も難儀なヤツよのぅ。
ヴィゴがギィゴになっている事を指摘する気にもなれない。
「少し、気になる事あったから、詳しく見てたんだ。サリがうるさくて皆を起こすと、悪いからね」
「ほう、それで何か分かったか?」
「自我の薄い頃の、サリの視点だからね。かなり断片的……だけど、ヴィゴに見て欲しい、と思ってたところ」
「え、あの……ティントア、それって俺も、サリみたいに腹に手を突っ込まれて……ってこと?」
「そう」
うわぁ遠慮したい。どう見たって痛そうだもの。
俺の心を見透かしたのか、ティントアが「痛くないよ」と笑顔で言う。真顔で言ってくれ、逆に怖くなる。
「痛くはない。けど、まあ気持ちの良いものでも、ないね。吐き気を覚えたりもしないけど、強い異物感は覚える」
異物感……か。
うーむ、まあ、それなら……。
ティントアがわざわざ俺に言うのだ。
何か重要な事に繋がるかも知れない、その可能性を感じているのだろう。
「……分かった! 正直かなり嫌だけど、何か見落とすのも怖いしなぁ……俺にもサリの見た世界ってのを見せてくれ」「分かった」
早いよティントア!
なんでノータイムで仕掛けてくる!
既に俺の腹にティントアの手がずぶりと突き刺さっている。
確かに痛くはない、痛くはないが……腹に突きこまれた異物の感覚は、ティントアの手よりよっぽど大きな物だった。
例えるなら、何千、何万匹ものミミズが俺の全身、皮膚の下を這いまわっているような感覚だろうか。足の裏、太ももの横、腰をぐるりと一回り、背骨の横にもいる、首筋、頬にも、瞼の裏にも、ウネウネとしたナニカがずっとそこで這いまわっているのが分かる。
あまりの嫌悪感に思わず唇を噛んだが、歯が当たった下唇の裏にもナニカが居て、俺の歯をブルリと押し返したのが分かった。
気持ち悪さだけに支配されていた俺の視界に、急に薄暗い景色が広がる。
洞窟だ。
昨日ティントアが言っていたように、まばら森の洞窟だろう。
土の地面、岩の壁、少し砂っぽい天井、転々と見ている物が切り替わる。サリの見たものが断片的に伝わってくる。
余談だが、他人のタイミングでされる”まばたき”は非常に気持ちが悪いことを知れた。
サリはずっとまばら森の洞窟に居るのだと思っていたが、よくよく視界を見ていると何か違和感がある。あの洞窟にしては広いような気がするのだ。
まあ亡霊として彷徨っていたのならどこか別の洞窟かも知れないか。そもそも流れてくる景色があまりにブツブツと切れるものだから色々な物の判別が難しい。
ふと、サリが地面を見ていた時に映った黒い物が気になった。
なんだろうか、石や岩ではない。
俺の視界であれば夜目が効くので分かるだろうが、それが妙に気になったのだ。
ズボッ……と、音にするならそんな感じか、俺の全身に巣食うミミズが強引に引き抜かれ、不快感の海の底から体が浮上する。
荒い息を吐いて地面に手をつき、俺は自分の体を探ってどこにもミミズが居ないことを確かめた。大丈夫、もう大丈夫だ。今の俺だ、自分の普通の体が帰ってきたのだと言い聞かせる。
「ごめんね、ヴィゴ。よく、耐えられたね」
「……いや、全然たえてなかったよ。物凄い経験だった……」
サリがツヤツヤした顔で言う。
「またご一緒しましょうね!」
いや二度とごめんだ。
「……風呂入って宿でメシ食ったら、皆でディエゴさんに会いに行こう。もしかしたら何かが繋がったかも知れない」
さすがヴィゴ! サリの視界を見たかったらまた言ってね! とティントアが地獄のような気の回し方をするが、もう本当に遠慮したい。次に喰らったらゲロ吐いて卒倒する自信がある。
ティントアと二人で朝風呂を楽しみ、宿で支度を済ませてから皆でリスルッタ大聖堂へ向かう。
近くを通った詰襟を着た人、審問会所属の祓魔師に声をかけディエゴを呼んでもらう。
一昨日に神聖エドナ=ベルム教のアジトを攻める作戦会議をした部屋で待たされ、程なくして審問会長官のディエゴがやって来た。
「おはようございます皆様。なにかご用でしょうか?」
低く太い声、落ち着いた態度、実力も確かだ。
上官に持つならこういう人がいいだろうな。
「ディエゴさん、これを」
黒い本を手渡す。
虫食い山脈の洞窟街道で拾った本だ。
街道の奥まった小部屋、そこにやたらと同じ本があった。その中の一冊。どれも真っ黒の装丁でサイズ感も同じだった。あの時はパラパラとページをめくっただけで中までちゃんと読んでいなかったが、これは……。
「神聖エドナ=ベルム教の聖典です」
ディエゴが中を確認する。
安い紙が使われた本ではあるが、中には神聖エドナ=ベルム教の教義がしっかりと書かれていた。
「どこでこれを?」
ディエゴは冷静だった。眉一つ動かさない。
俺は洞窟街道のことを話した。
商人連国ゴルドルピーから教国エドナへの旅路、魔術師の集団が洞窟街道に住み着いたと聞いたが、その怪しい一団を迂回して通り抜けたこと。その時に本を拾ったこと。その本、聖典がいくつもあったこと。
今にして思えば、あれが神聖エドナ=ベルム教の本拠地だったのだと思う。
気配で探る感じではもっと奥に何千という人が居た。
教国エドナの都市にメインの拠点を持たず、洞窟街道のアリの巣のような山の中に隠れ潜んでいる。人が寄り付かないよう魔術師の噂を流し、実際に見張り役の人間がローブを着て魔術師に扮している。
ディエゴの顔が徐々に変わっていく。
目が見開かれ、いつも冷静で丁寧な彼が興奮しているのが分かった。
「す、素晴らしい! 何という成果をあげてくれたのでしょうか。話を聞く限り、洞窟街道が神聖エドナ=ベルム教の本拠地としか思えません」
慌てて席を立ったディエゴが「少し外します」と言い、部屋を後にした。
部下たちへ情報共有をしに行ったに違いない。
「ディエゴさん喜んでそうだったね!」
嬉しそうにフーディが言う。
「でも、本当ならもっと早めに分かったことだったよな。俺が拾った本をその日に確認しておけばさ、神聖エドナ=ベルム教の調査を言われた日にでも答えられたのにな」
クロエがまぁまぁ、といった感じで話した。
「他の人が拾っても同じだったんじゃない? まさか洞窟街道の人たちと神聖エドナ=ベルム教が繋がるなんて思わないじゃん?」
「そうですよヴィゴくん。仕事を頼まれてから僅か数日なのですから、エドナ=ミリア教からすればむしろ早すぎるくらいでしょう。……今日は祝杯といきましょう」
また理由をつけて飲もうとしているな?
まあ今日で仕事が終わるならカトレアが酔いつぶれて明日ダウンしていても全然問題ない。俺もアッシュが帰ってきた日くらいは大酒を手に騒ぎたいもんだ。
いやあ~ひと仕事終えましたなぁ、という気分で和んでいるとディエゴが戻ってきた。
「今から洞窟街道を調べてみようと思うのですが、ヴィゴさんとティントアさん、良ければ付いてきて頂けませんか?」
おや、二人だけか。
「皆様方がお強いのは重々承知しておりますが当方の動きを相手方へ気付かせるわけにはいきません。
隠密の心得があるヴィゴさんと、そしてティントアさんには個人的に窺わせて頂きたいことがありまして……敵の本拠地を知れた今、一刻も早く現地を確認したくございます。
行き掛けで申し訳ございませんが、その時にティントアさんへ質問させて頂ければと存じますが、いかがでしょうか?」
俺は特に問題なし。
ティントアも頷いてディエゴについていく事にした。
部屋を去り際、カトレアに「まだ酒盛りするなよ?」と言いえばムキー! となっていた。いくら酒好き飲兵衛でも仲間が仕事中に飲むことはないだろうが、その反応は面白かった。
廊下を歩いてディエゴについていくと、彼がくつくつと小さく笑っていることに気付いた。
「失礼。皆さん本当に仲がよろしいですね」
それは、確かにそうだろうな。
「きっと今までもそうして旅をなさって来たのでしょうね。常人が足踏みするところを、あなた方は軽々と飛び越えていく。皆で楽しく笑いながら、自由気ままに、そしてこれから先も同じように、どこまでも遠くまで、賑やかに旅を続けていく。何だかそのような気が致します」
「そう……ですね。少なくとも、俺はそう願います」
ディエゴのうらやましそうで、どこか遠くを見る目が印象的だった。
審問会長官の重責を逃れ、たまには羽を伸ばしたいのか。
それとも在りし日の出来事を思い出しているのかは知らないが、彼の台詞が、俺の胸へじわじわと染み込んでいくのが分かった。
いつまでも今を続けたい。
それは、ささやかだろうか? それとも傲慢だろうか?
ディエゴのような歳にでもならなければ、きっと答えは出ないのだろうな。