北朝鮮召喚   作:コンギョ1

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## 第九章 海の向こうから

 

### 一、転移後三百二十日目──平壌・最高司令部

 

金正天は報告書を二度読み返し、静かにテーブルに置いた。

 

「──海洋同盟か」

 

金美蘭が頷いた。

 

「アルカディア大陸の西方海域に浮かぶ島嶼国家群です。エルデシア王国を盟主とし、七つの海洋国家が軍事・経済同盟を結んでいます。ロムニア帝国とは長年の対立関係にありましたが、帝国崩壊後──彼らの矛先が変わりました」

 

彼女は地図の西端を指した。大陸の西岸から点々と連なる島々。その向こうに、広大な外洋が広がっている。

 

「エルデシア王国からの親書です。内容は三点。第一に、ロムニア帝国の遺領に対する我が国の一方的な占有への抗議。第二に、大陸の"均衡"の回復を求める最後通牒。第三に──」

 

金美蘭は一拍置いた。

 

「我が国の保有する"悪魔の兵器"の即時廃棄を要求しています」

 

会議室が凍った。

 

李永吉が低く唸った。

 

「武装解除の要求か。図に乗りおって」

 

「彼らには彼らの論理があります」

 

金美蘭は冷静だった。

 

「ロムニア帝国は確かに脅威でしたが、同時に大陸の均衡を保つ重石でもあった。その重石が消えた今、我が国が新たな脅威として映るのは──客観的に見れば、当然のことです」

 

金正天は窓の外を見た。平壌の街に春の風が吹いている。エーテル結晶の街灯と科学技術の融合が進み、街は日に日に活気を増していた。

 

「海洋同盟の軍事力は」

 

李永吉が答えた。

 

「陸軍は脅威ではありません。しかし、海軍は別です。彼らは千年以上の航海技術と海洋魔法を持っています。特にエルデシア王国の魔導艦隊は──魔法で風と潮流を操り、海上では無敵とされています」

 

「そして我々には──海軍がない」

 

沈黙が落ちた。

 

朝鮮民主主義人民共和国は山岳と陸地の国だった。地球にいた頃から海軍力は限定的で、転移後も陸と空の戦力強化に注力してきた。海は、致命的な盲点だった。

 

金正天は静かに言った。

 

「戦争は避ける。だが、膝を屈することもしない。──金美蘭、外交で時間を稼げ。その間に、我々は海を学ぶ」

 

* * *

 

### 二、同日──ヴェルダンハイム城・セバスチャン公爵の書斎

 

「海洋同盟が動いたか」

 

セバスチャンは書状を読み、暖炉の前で腕を組んだ。

 

アルベルト・シュタイナー伯爵が険しい顔で報告する。

 

「エルデシア王国は、大陸沿岸部の五つの港湾都市に艦隊を展開しています。名目は"交易路の保護"ですが、事実上の示威行動です」

 

「彼らの狙いは?」

 

「二つあると考えます。一つは、北朝鮮の影響力拡大の牽制。もう一つは──」

 

アルベルトは言葉を選んだ。

 

「大陸の混乱に乗じた、沿岸部の経済的支配です。ロムニア帝国が支配していた東岸の港湾は、今や空白地帯になっています。そこに入り込もうとしている」

 

セバスチャンは眉を寄せた。

 

「北朝鮮は海に弱い。我々ヴェルダンも内陸国だ。海からの圧力には、どちらも対抗手段を持たない」

 

「だからこそ──」

 

アルベルトが身を乗り出した。

 

「今こそ北朝鮮との同盟を深化させるべきです。彼らの科学技術と我々の魔法を組み合わせれば、海洋同盟に対抗する艦隊を建造できる可能性があります」

 

セバスチャンは長く考え込んだ。

 

「──北朝鮮に連絡を取れ。合同の海軍建設について、協議を申し入れる」

 

* * *

 

### 三、転移後三百三十日目──旧ロムニア帝国領東岸・ポルトゥス港

 

金美蘭は、港の桟橋に立っていた。

 

潮風が彼女の髪を攫う。目の前に広がるのは、アルカディア大陸の東海──果てしない水平線の向こうに、海洋同盟の島々が連なっているはずだった。

 

「これが、海か」

 

傍らで崔智勲が呟いた。彼は水面を覗き込み、海水を試験管に採取している。

 

「地球の海水とは組成が異なります。微量のエーテル粒子が溶け込んでいる。これが海洋魔法の基盤になっているのでしょう」

 

「科学的に再現できますか」

 

「時間をいただければ。しかし──」

 

崔智勲は水平線を見つめた。

 

「海洋同盟はこの海で千年以上を過ごしてきた。我々が数ヶ月で追いつけるものではありません」

 

金美蘭は頷いた。彼女は外交官として、ここに来ていた。エルデシアの特使との秘密会談のために。

 

港の酒場の奥。薄暗い個室に、一人の女が待っていた。

 

銀髪に碧眼。海風に焼けた褐色の肌。エルデシア王国外交局の密使、カタリナ・ヴァン・デル・メールだった。

 

「遠路ご苦労様」

 

カタリナは杯を傾けながら言った。流暢な共通語に、海の民特有の歌うような抑揚。

 

「率直に参りましょう。あなた方の"最後通牒"は受け入れられません」

 

金美蘭は着席するなり切り出した。外交的な前置きを省いたのは、意図的だった。

 

カタリナは一瞬目を見開き、それから笑った。

 

「──大陸の人間にしては、話が早い。嫌いじゃないわ」

 

「我々は大陸の人間ではありません」

 

「そうだったわね。異世界の"悪魔"だった」

 

金美蘭は表情を変えなかった。

 

「最後通牒を撤回してください。その代わり、我々はエルデシアとの通商条約を提案します。大陸沿岸部の港湾五箇所を、共同管理の自由貿易港とする。関税は双方で折半。さらに──」

 

彼女はテーブルに一枚の設計図を広げた。

 

「エーテル結晶駆動の蒸気機関です。これを搭載すれば、貴国の帆船は風に依存せずに航行できるようになる」

 

カタリナの目が鋭くなった。海洋国家にとって、風に依存しない航行技術がどれほどの価値を持つか──彼女は即座に理解した。

 

「──あなた方は、武力ではなく技術で我々を買おうとしている」

 

「買うのではなく、交換です。貴国の海洋知識と航海技術を、我々にも共有していただきたい」

 

カタリナは腕を組み、しばらく金美蘭を見つめた。

 

「面白い女ね、あなた。戦争で帝国を滅ぼしておいて、次は商売で海を取ろうとする」

 

「戦争は手段であって目的ではありません。我々が欲しいのは安全です。安全のために最も効率的な手段が交易であるなら、我々は商人になります」

 

カタリナは杯を干し、にやりと笑った。

 

「──本国に持ち帰る。だけど、一つ忠告しておくわ」

 

彼女は声を低めた。

 

「エルデシア国王リチャード三世は、理性的な人間ではない。彼が望んでいるのは交易じゃない。"大陸の覇権"よ。ロムニア帝国が消えた今、その椅子に座りたがっている」

 

金美蘭は微動だにしなかった。

 

「なぜ、それを教えてくださるのですか」

 

カタリナは窓の外の海を見た。

 

「私は海の民よ。海は広い。一人で支配できるものじゃない。王にはそれがわからないけど──私にはわかる」

 

彼女は立ち上がり、去り際に振り返った。

 

「次に会う時は、敵同士かもしれないわね」

 

「そうならないことを祈ります」

 

「祈りなんて効かないわよ。この世界じゃ特にね」

 

ドアが閉まった。潮風の匂いだけが残った。

 

---

 

## 第十章 裂け目、再び

 

### 一、転移後三百六十日目──アルタリア復興大学・セレスティアの研究室

 

異変に最初に気づいたのは、セレスティアだった。

 

深夜の研究室で古代文献を読んでいた時、机の上のエーテル結晶が突然、脈動した。普段の穏やかな青ではない。赤みを帯びた、警告のような光。

 

「──これは」

 

彼女は窓に駆け寄った。南の空──かつて大神殿があった方角に、かすかな光の柱が立ち上っている。

 

心臓が凍った。

 

一年前の記憶が甦る。オラクルスの狂気の儀式。次元の壁が裂ける轟音。白い光に呑まれる意識。

 

「まさか──」

 

彼女は通信用のエーテル結晶を掴み、朴正浩に緊急連絡を入れた。

 

* * *

 

### 二、三時間後──旧ガイア神聖国・大神殿跡地

 

朴正浩がヘリで到着した時、セレスティアは既に廃墟の中に立っていた。

 

大神殿の床に刻まれた魔法陣──一年前の砲撃で黒く焦げ、罅割れていたはずのそれが、淡い光を放っていた。消えたはずの魔法陣が、自律的に再起動している。

 

「何が起きている」

 

朴正浩の問いに、セレスティアは蒼白な顔で答えた。

 

「次元の裂け目が──癒えていないのです」

 

「どういうことだ」

 

「オラクルスの儀式は、次元の壁に穴を開けました。あなた方をこの世界に引き込んだ時の、その穴です。普通なら時間とともに塞がるはずだった。しかし──」

 

彼女は魔法陣の上に手をかざした。指先が微かに震える。

 

「穴が広がっています。ゆっくりと、しかし確実に。このまま放置すれば──」

 

「──何が起きる」

 

セレスティアは朴正浩を見た。その青い瞳に、かつてオラクルスに訴えた時と同じ恐怖が宿っていた。

 

「均衡が崩れます。次元の壁が完全に崩壊すれば、この世界と他の世界が無秩序に繋がる。何が流れ込んでくるかわからない。──最悪の場合、この世界そのものが崩壊します」

 

朴正浩は黙って魔法陣を見下ろした。焦げた石の間から漏れる光は、心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅している。

 

「塞ぐ方法は」

 

「古文書には──裂け目を塞ぐには、開いた時と同等以上のエネルギーが必要だと記されています。しかし、あの儀式には大神殿の全神官と、国家備蓄のエーテル結晶の全量が投入されました。今の私一人では到底──」

 

「一人でやる必要はない」

 

朴正浩は通信機を取り出した。

 

「崔智勲院長に繋いでくれ。──先生、朴です。至急、相談があります。エーテル結晶のエネルギーを、特定の座標に集中照射する方法は──ありますか」

 

* * *

 

### 三、転移後三百七十日目──平壌・最高司令部 緊急会議

 

「次元崩壊の危機、か」

 

金正天の声は平坦だったが、会議室の全員がその下の重圧を感じ取っていた。

 

崔智勲がスクリーンに投影されたデータを示した。

 

「セレスティア学長の観測と、我々の計器による測定の両方が一致しています。次元の裂け目は、過去一ヶ月で約一・七倍に拡大。このペースが続けば、八ヶ月以内に臨界点に達します」

 

「臨界点とは」

 

「裂け目が自己拡大を始める転換点です。そこを超えると、もはや人為的に閉じることはできません」

 

金正天は目を閉じた。

 

転移。接触。戦争。勝利。講和。海洋同盟との緊張。──ようやく安定し始めた矢先に、世界そのものが壊れかけている。

 

「対策は」

 

崔智勲とセレスティアが同時に口を開き、一瞬目を合わせた。崔智勲が先を譲った。

 

セレスティアが立ち上がった。

 

「裂け目を塞ぐには、二つのものが必要です。一つは莫大なエネルギー。もう一つは──裂け目の向こう側からの、対となる力です」

 

「向こう側?」

 

「次元の壁は、一方から押すだけでは塞がりません。両側から同時に押さえなければ。つまり──」

 

彼女は言葉を切った。

 

金美蘭が、その意味を察した。

 

「──地球側からも、何かをしなければならない、と」

 

セレスティアは頷いた。

 

「しかし、地球側に我々と連絡を取る手段がない以上──こちら側だけで対処する方法を見つけるしかありません」

 

崔智勲が口を開いた。

 

「一つ、理論的な可能性があります」

 

全員の目が集まった。

 

「裂け目の向こう側からの力が必要なら──裂け目を通じて、こちらからエネルギーを送り込み、向こう側で"反射"させればいい。壁にボールを投げて跳ね返すように」

 

「そんなことが可能なのか」

 

「エーテル結晶のエネルギーを、極めて高い精度で集束させ、裂け目の境界面に照射する。境界面は二つの次元の接点ですから、理論上は反射が起きるはずです。ただし──」

 

彼は眼鏡を外し、額の汗を拭った。

 

「必要なエーテル結晶の量は、ヴェルダン公国の年間産出量の約十倍です」

 

会議室がざわめいた。

 

金正天が静かに言った。

 

「十倍か。──ヴェルダンだけでは足りない。他の供給源が必要だ」

 

金美蘭が答えた。

 

「海洋同盟です。エルデシア王国を中心とする島嶼国家群は、海底のエーテル結晶鉱脈を保有しています。大陸の産出量を遥かに上回る埋蔵量があると推定されます」

 

「彼らが協力するか」

 

「最後通牒を突きつけてきた相手です。普通には──しません」

 

金美蘭は一呼吸置いた。

 

「しかし、次元崩壊はこの世界全体の危機です。海洋同盟も例外ではない。──彼らに、事実を開示する必要があります」

 

金正天は長い沈黙の後、頷いた。

 

「わかった。金美蘭──エルデシアへ行け。世界を救うために、敵の玄関を叩きに行くんだ」

 

---

 

## 第十一章 エルデシアの海

 

### 一、転移後三百八十日目──アルカディア東海・北朝鮮海軍旗艦「白頭山」

 

「白頭山」は、北朝鮮が異世界で初めて建造した軍艦だった。

 

全長百二十メートル。鋼鉄の船体にエーテル結晶駆動の蒸気機関を搭載し、帆と機関の併用で航行する。設計は北朝鮮の造船技術者、建造にはヴェルダンの魔導職人が参加した。二つの世界の技術が一つの船に凝縮されている。

 

金美蘭は甲板に立ち、果てしない海を見つめていた。水平線の向こうに、エルデシア諸島が近づいている。

 

隣に立つのは朴正浩とセレスティア。そして──カタリナ・ヴァン・デル・メールの姿があった。

 

「あの秘密会談の後、まさか案内役を頼まれるとはね」

 

カタリナが苦笑した。

 

「あなたが来てくれなければ、我々はエルデシアの港にすら入れなかった」

 

金美蘭が言うと、カタリナは肩をすくめた。

 

「次元崩壊で海が消えたら、私たちも困るのよ。──それにね」

 

彼女は風に銀髪をなびかせた。

 

「あなたが戦争じゃなく交渉を選んだから、私はここにいる。剣を突きつけてきたなら、海の底に沈めてたわ」

 

* * *

 

### 二、エルデシア王国・王都カレイドス

 

カレイドスは、海の上に浮かぶ都市だった。

 

巨大な珊瑚礁の上に築かれた白亜の街並み。運河が街を縦横に走り、建物の基部は海水に洗われている。塔の先端には海洋魔法の灯台が輝き、港には百隻を超える帆船が犇めいていた。

 

金美蘭は息を呑んだ。平壌とも、ヴェルダンハイムとも、ロムニアグラードとも違う。海と共に生きる文明の、千年の結晶がここにあった。

 

「美しい」

 

「でしょう?」

 

カタリナが誇らしげに笑った。その笑みはすぐに消えた。

 

「──だけど、王宮に入ったら油断しないで。リチャード三世は美しいものを愛するけど、同じくらい権力を愛する人間よ」

 

* * *

 

### 三、エルデシア王宮・謁見の間

 

リチャード三世は、想像していたよりも若かった。

 

三十代後半。金髪碧眼、長身痩躯。白と金の王衣を纏い、珊瑚と真珠で飾られた玉座に座っている。一見すると優美な文人王だが、その目には海の嵐のような苛烈さが宿っていた。

 

「異界の来訪者か」

 

王は値踏みするように金美蘭を見た。

 

「帝国を滅ぼし、大陸を震え上がらせた"悪魔"が、わざわざ海を渡って来るとは。何の用だ」

 

金美蘭は深く一礼した。

 

「陛下に、世界の危機をお伝えに参りました」

 

「危機?」

 

「次元の裂け目が拡大しています。我が国をこの世界に召喚した際に生じた傷が、癒えずに広がっている。このまま放置すれば、八ヶ月以内にこの世界は崩壊します」

 

謁見の間がざわめいた。廷臣たちが互いに目を交わす。

 

リチャード三世は表情を変えなかった。

 

「──仮にそれが事実だとして。我々に何を求める」

 

「エーテル結晶です。裂け目を封じるために、大量のエーテル結晶が必要です。大陸の産出量だけでは足りない。海底鉱脈を持つ貴国の協力が不可欠です」

 

王は顎に手を当て、しばらく黙った。

 

「面白い話だ。だが、一つ聞かせてもらおう」

 

彼は身を乗り出した。

 

「次元の裂け目は、お前たちが召喚された時に生じたものだ。つまり──お前たちが存在しなければ、この危機は起きなかった。違うか?」

 

金美蘭は動じなかった。

 

「その通りです」

 

「ならば、最も簡単な解決法がある。お前たちが消えればいい。元の世界に帰れ。あるいは──」

 

王の目が冷たく光った。

 

「この世界から、消え去れ」

 

廷臣たちの間に、不穏な空気が走った。

 

金美蘭は静かに答えた。

 

「仮に我々がこの世界から消えたとしても、裂け目は塞がりません。傷は既についている。原因を取り除いても、傷そのものは残ります」

 

王は鼻で笑った。

 

「それはお前たちの主張だ。証拠はあるのか」

 

「あります」

 

セレスティアが進み出た。

 

王の目が細まった。

 

「──ガイア神聖国の巫女か。まだ生きていたのか」

 

「セレスティア・ディヴィナです、陛下。私はあの儀式に立ち会いました。次元の壁を裂いた瞬間を、この目で見ています」

 

彼女は一巻の羊皮紙を広げた。古代の図式と、精密な観測データが並んでいる。

 

「これは、裂け目の拡大を示す一年間の観測記録です。古代魔法学の理論と、北朝鮮の科学的計測の両方で裏付けられています。陛下──これは政治の問題ではありません。物理法則の問題です。信じる信じないに関わらず、裂け目は広がり続けます」

 

王はしばらくセレスティアを見つめた。

 

「──仮に協力するとして。代償は何だ」

 

金美蘭が口を開いた。

 

「代償はありません。これは取引ではなく、共同の危機管理です。しかし──」

 

彼女は一呼吸置いた。

 

「この危機を共に乗り越えた後、我々は貴国との恒久的な平和条約を結びたいと考えています。最後通牒の撤回。相互不可侵。自由な通商。──海と陸が争う時代を終わらせたいのです」

 

リチャード三世は長い沈黙に沈んだ。

 

廷臣たちが固唾を呑んで見守る中、王はゆっくりと立ち上がった。

 

「──三日待て。答えはその時に伝える」

 

* * *

 

### 四、三日後・夜──カレイドス港・「白頭山」船上

 

金美蘭は船室で待っていた。カタリナが駆け込んできたのは、日付が変わる直前だった。

 

「まずい。リチャードは協力を拒否するつもりよ」

 

「──理由は」

 

「彼の側近──海軍大将アドミラル・ホークが進言した。『悪魔の脅威を除くには、危機を利用して彼らを追い詰めるべきだ』と。要するに、次元崩壊の危機を交渉材料にして、北朝鮮の完全武装解除を要求するつもりよ」

 

金美蘭は目を閉じた。

 

「世界が滅ぶかもしれない危機すら、権力闘争の道具にする。──人間は、どの世界でも変わらないらしい」

 

「どうするの?」

 

金美蘭は目を開けた。

 

「──プランBに移ります」

 

「プランB?」

 

「王が断るなら、王を迂回します。カタリナ──あなたに一つ聞きたい。海洋同盟の七ヶ国は、全てリチャード三世に従っているのですか」

 

カタリナは一瞬目を見開き、それから低く笑った。

 

「──さすがね。いいえ、従っていないわ。特にフリースラント共和国とアークティカ連邦は、リチャードの独断専横に不満を持っている。彼らは商人の国よ。戦争より交易を望んでいる」

 

「連絡は取れますか」

 

「できるわ。──あなた、本当に恐ろしい女ね」

 

金美蘭は微笑んだ。それは外交官の微笑みではなく、勝負師の笑みだった。

 

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

---

 

## 第十二章 封印

 

### 一、転移後四百十日目──大陸全土

 

金美蘭の外交は、エルデシア王宮の拒否を受けてから加速した。

 

海洋同盟の内部を揺さぶる。フリースラント共和国とアークティカ連邦に次元崩壊のデータを直接提示し、独自の判断を促す。同時にヴェルダン公国を通じて大陸諸国にも呼びかけ、「次元修復のための国際会議」を提案した。

 

リチャード三世は激怒した。だが、世界崩壊の科学的証拠を前にして、同盟国を従わせることはできなかった。フリースラント共和国が独自にエーテル結晶の供出を決定し、それに続いてアークティカ連邦も離反した。

 

七ヶ国のうち四ヶ国が協力を表明した時、リチャード三世はようやく折れた。

 

彼の譲歩は、金美蘭の外交的勝利だった。だが、彼女はそれを勝利とは呼ばなかった。

 

「これは誰の勝ちでもありません。世界が生き延びるための、最低限の正気です」

 

* * *

 

### 二、転移後四百三十日目──旧ガイア神聖国・大神殿跡地

 

世界中から集められたエーテル結晶が、大神殿の跡地に運び込まれていた。

 

北朝鮮の軍用トラック。ヴェルダンの魔導馬車。海洋同盟の帆船から降ろされた海底結晶。大陸の東西南北から、ありとあらゆる手段で結晶が集まった。

 

その総量──七万トン。

 

崔智勲は仮設の制御室で、計器に囲まれていた。彼が設計した「エーテル集束装置」は、科学と魔法の極致だった。千二百基のエーテル結晶を精密に配列し、そのエネルギーを一点に集束して裂け目に照射する。境界面で反射したエネルギーが、裂け目を両側から押さえ込む──理論上は。

 

「理論上は、を強調させてください」

 

崔智勲は朴正浩に言った。

 

「前例がありません。計算上は成功するはずですが、実際に何が起きるかは──やってみなければわからない」

 

朴正浩は頷いた。

 

「それでも、やるしかない」

 

セレスティアは魔法陣の中央に立っていた。千人の魔導師が彼女を取り囲み、詠唱の準備を進めている。ヴェルダン、旧ロムニア領、海洋同盟──大陸中から集まった魔導師たちが、この一点に力を結集していた。

 

金美蘭は制御室の外に立ち、空を見上げた。裂け目は肉眼でも見えるようになっていた。南の空に走る、紫色の亀裂。その向こうに、この世界のものではない光が揺らめいている。

 

通信機が鳴った。平壌から。

 

【金美蘭同志。全ての準備は整ったか】

 

「はい、最高指導者同志」

 

【──成功を祈る。この世界で生きると決めた以上、この世界を守るのは我々の義務だ】

 

「はい」

 

金美蘭は通信機を置いた。

 

崔智勲が最終確認を終え、マイクを取った。

 

「全部署、準備完了を確認。──カウントダウンを開始します」

 

朴正浩が横に立った。

 

「先生。理論上は成功するんだろう」

 

「ええ。理論上は」

 

「なら、大丈夫だ」

 

崔智勲は眼鏡の奥で目を細めた。

 

「──根拠のない自信ですな、大佐」

 

「根拠ならある。この一年で、理論上は不可能なことばかりやってきた。国ごと異世界に飛ばされるのも、中世の騎士とチョコレートで友達になるのも、魔法と科学を融合させるのも──全部、理論上はあり得なかったことだ」

 

崔智勲は小さく笑った。

 

「──それもそうですな」

 

カウントダウンが始まった。

 

「十。九。八──」

 

セレスティアが目を閉じ、両手を掲げた。千人の魔導師が詠唱を開始する。

 

「七。六。五──」

 

崔智勲が集束装置の最終スイッチに手を置いた。

 

「四。三。二──」

 

金美蘭は空を見上げた。紫色の裂け目が、脈動している。

 

「一──起動」

 

光が爆発した。

 

七万トンのエーテル結晶が一斉に輝き、そのエネルギーが千二百基の集束装置を通じて一点に収束した。セレスティアの魔法がそれを導き、裂け目の中心に叩き込む。

 

空が震えた。

 

大地が震えた。

 

一年前の転移の時と同じ──いや、それ以上の衝撃が、大陸全土を揺さぶった。

 

裂け目が叫んだ。次元の境界面がエネルギーを受け止め、反射し、跳ね返す。こちら側から押す力と、跳ね返った力が、裂け目を両側から挟み込む。

 

セレスティアが叫んだ。声ではない。魂の底からの、祈りにも似た叫び。

 

そして──

 

裂け目が、閉じた。

 

紫色の亀裂が縮み、細い糸のようになり、最後の一瞬、虹色に輝いて──消えた。

 

南の空は、何事もなかったかのように、蒼く澄んでいた。

 

* * *

 

### 三、その後

 

制御室に静寂が降りた。

 

計器の全てが正常値を示している。裂け目のエネルギー反応──ゼロ。

 

崔智勲が眼鏡を外し、額の汗を拭った。

 

「──成功、です」

 

声が震えていた。

 

歓声が上がった。制御室の技術者たちが、魔法陣の周囲の魔導師たちが、トラックの傍らに立っていた兵士たちが。国も言語も違う人間たちが、同じ瞬間に、同じ歓びの声を上げた。

 

セレスティアは魔法陣の中央に膝をついていた。全身の力が抜け、立ち上がれなかった。

 

朴正浩が歩み寄り、手を差し出した。

 

「立てるか」

 

セレスティアはその手を取った。立ち上がった彼女の目から、涙が零れた。

 

「──私は、あの日の罪を少しだけ償えたでしょうか」

 

朴正浩は答えなかった。代わりに、空を見上げた。

 

裂け目の消えた空に、二つの月が昇り始めていた。白い月と、青い月。

 

「罪かどうかは、わからん」

 

彼は言った。

 

「だが──あの儀式がなければ、俺たちはここにいなかった。チョコレートを半分に割ることもなかった。この空を見上げることもなかった」

 

セレスティアは涙を拭い、空を見上げた。

 

「それは──赦しですか」

 

「赦しじゃない。事実だ」

 

朴正浩は歩き出した。

 

「行こう。まだやることは山ほどある。この世界を壊さずに済んだなら──今度は、ちゃんと作る番だ」

 

セレスティアは頷き、彼の後に続いた。

 

二つの月が、静かに昇っていく。

 

この世界は守られた。傷は塞がり、空は晴れた。

 

しかし物語は終わらない。北朝鮮と異世界の歴史は、まだ始まったばかりだ。海洋同盟との関係。大陸の新秩序。科学と魔法の融合がもたらす未知の可能性。そして何より──二千五百万の人民が、この世界で生きていくという、途方もなく壮大な日常。

 

それは、召喚されたのではない。

 

自ら選んだ未来だった。

 

 

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