## 第十三章 地球の残響
### 一、転移後五百日目──平壌・万景台区域 とある集合住宅
朝の五時半。目覚まし時計が鳴る前に、尹春姫は目を覚ました。
三十二歳。平壌繊維工場の班長。夫は人民軍の通信兵で、北部国境の駐屯地にいる。六歳の娘、恩珠と二人暮らし。
窓を開けると、エーテル結晶の街灯がまだ青白く灯っている。空には星が残り、西の地平線に青い月が沈みかけていた。この光景にも、もう慣れた。
慣れた、と思う。だが時折、夢の中で地球の月を見る。一つだけの、白い月を。目が覚めると、あの月はもう二度と見られないのだという事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さっている。
「お母さん、今日は何曜日?」
恩珠が目をこすりながら起きてきた。
「水曜日よ」
「地球の水曜日? それともこっちの水曜日?」
春姫は一瞬、言葉に詰まった。
転移から一年以上が経ち、暦の問題は市民生活に小さな混乱を生み続けていた。地球の暦とこの世界の天体周期は微妙にずれている。政府は公式に「主体暦」を維持しているが、農業従事者の間ではこの世界の季節に合わせた「アルカディア暦」が自然発生的に使われ始めていた。
「こっちの水曜日よ。学校に遅れるわよ、早く支度して」
恩珠は頷いて洗面所に走った。春姫はその背中を見送りながら、娘が学校で何を学んでいるかを思った。
算数と国語と革命歴史。それに加えて、去年から「基礎魔法学」と「異世界地理」が必修になった。恩珠は基礎魔法学が大好きで、昨日も「エーテル結晶に触ったら光ったの!」と興奮して帰ってきた。
六歳の子供は、新しい世界を丸ごと受け入れる。疑問も抵抗もなく、当たり前のこととして。
春姫は台所に立ち、朝食の準備を始めた。米は地球から持ち込んだ種籾から栽培したものだ。味噌も醤油もある。だが、添えるおかずの中に、この世界の野菜が混じるようになった。ヴェルダンから伝わった「ルーン麦」のパン。旧ロムニア領で採れる甘い根菜。
食卓の上で、二つの世界が静かに溶け合い始めている。
春姫は窓の外を見た。通りを、工場に向かう人々が歩いている。その中に、ヴェルダン公国からの技術研修生の姿がちらほら混じっていた。金髪に青い目の若者たちが、北朝鮮の労働者と肩を並べて歩いている。一年前なら考えられなかった光景だ。
「お母さん、行ってきます!」
恩珠が鞄を背負って飛び出していった。
「気をつけてね」
春姫は娘を見送り、自分も工場に向かう準備を始めた。
ふと、棚の奥にしまってあった写真立てが目に入った。地球で撮った家族写真。夫と娘と三人で、平壌の大同江のほとりで。背景には地球の空。月は一つ。
春姫はそれを手に取り、しばらく見つめた。
それから、棚の奥ではなく、テーブルの上に置き直した。
隠すものではない。忘れるものでもない。ただ──あの場所に戻ることはもうないのだと、認めるだけだ。
* * *
### 二、同日──平壌・金日成総合大学 特別講義室
「本日のテーマは、"帰還の不可能性"についてです」
崔智勲科学院院長は、満席の講義室を見渡した。学生だけではない。軍の幹部、党の官僚、さらには外国の留学生までが席を埋めている。
「結論から申し上げます。現在の我々の技術では、地球への帰還は不可能です。そして──おそらく永久に不可能です」
講義室がざわめいた。
崔智勲は手を挙げて静粛を求めた。
「次元の裂け目は完全に封じられました。これは世界の安全のために必要な措置でしたが、同時に──地球との唯一の接点を消滅させたことを意味します。裂け目を人為的に再び開くことは、理論的には可能ですが、それは世界崩壊のリスクを再び生じさせる行為であり──我々の良心が、それを許しません」
彼は眼鏡を外し、学生たちを見た。
「皆さんの中には、地球を覚えている人もいるでしょう。故郷の景色。残してきた人々。帰りたいという気持ちは、当然のものです」
彼の声が、わずかに揺れた。
「私自身も──かつてモスクワ大学で学んだ日々を思い出すことがあります。ロシアの冬の白さ。地球の月の光。しかし──」
崔智勲は眼鏡をかけ直した。
「科学者として申し上げます。我々の故郷は、今、ここです。この世界で、この土の上で、この空の下で生きていく。それは喪失ではなく──新たな始まりです」
最前列の学生が手を挙げた。二十歳前後の青年。目に涙が光っている。
「先生──地球の家族は、我々が消えたことをどう思っているのでしょうか」
崔智勲は長い沈黙の後、静かに答えた。
「わかりません。おそらく──永遠にわかりません」
講義室に、重い静けさが降りた。
「しかし」
崔智勲は続けた。
「私は信じています。地球の人々は、我々が突然消えた謎を、いつか科学の力で解き明かそうとするだろうと。そして我々も──この世界の科学と魔法を極めた先に、何らかの形で地球に"声"を届ける方法を見つけられるかもしれない。帰ることはできなくとも──存在を伝えることは、いつの日か」
彼は黒板に、一つの数式を書いた。
「これは、エーテル結晶の次元間振動に関する理論式です。まだ仮説の段階ですが──もし次元の壁を"破る"のではなく、壁越しに"振動を伝える"ことができれば……」
学生たちの目が変わった。絶望から、かすかな──しかし確かな希望へ。
「これが、私の次の研究テーマです。完成には──十年、いや、二十年かかるかもしれない。ですが、やる価値はある」
崔智勲は微笑んだ。この異世界に来て以来、初めて見せる穏やかな笑みだった。
「我々は孤独ではありません。地球の二十億の同胞は、今も同じ宇宙のどこかにいる。壁一枚向こうに。──いつか、その壁を叩いて言いたいのです。『我々は生きている。ここで、ちゃんと生きている』と」
* * *
### 三、同日午後──平壌中央広場
講義の内容は、その日のうちに街中に広まった。
「帰れないんだって」
「知ってた。知ってたけど──はっきり言われると」
「でも、声を届けられるかもしれないって」
「何年先の話だよ」
「それでも──ゼロじゃないんだろ」
市民たちの反応は様々だった。泣く者。黙り込む者。怒る者。だが最も多かったのは──静かに頷き、日常に戻っていく者たちだった。
彼らは既に知っていたのだ。心のどこかで。
地球には戻れない。ここが、自分たちの世界だ。
言葉にされなかっただけの真実が、ようやく形を得た。それは痛みを伴ったが、同時に──奇妙な解放感でもあった。
もう迷わなくていい。ここで生きると、決めていい。
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## 第十四章 異端
### 一、転移後五百三十日目──平壌・朴成華保衛部長の執務室
「問題が起きています」
朴成華国家安全保衛部長は、金正天の前に報告書を広げた。
「南部三州──旧ロムニア領の北朝鮮統治区域で、"自由市場"が自然発生しています。統制経済の枠外で、現地住民と我が国の市民が自主的に物々交換を行っている」
金正天は報告書を読んだ。
「エーテル結晶の加工品、魔法の道具、異世界の食材──これらが、公式の配給ルートを通さずに取引されている。規模は日増しに拡大しています」
朴成華の声には、明確な警戒が滲んでいた。
「放置すれば、社会主義計画経済の根幹が揺らぎます。取り締まるべきです」
金正天は報告書から顔を上げず、静かに尋ねた。
「市民は──困っているのか」
「は?」
「自由市場で取引している市民たちは、困窮しているから市場に走るのか。それとも、配給では手に入らないものを求めているだけか」
朴成華は一瞬言葉に詰まった。
「──後者が多いかと。特にエーテル結晶の加工品は配給の対象外ですが、市民の間で需要が急速に高まっています。子供の学習用具、家庭用の照明、農作業の効率化──」
「つまり、市民の生活が変わっているんだ」
金正天は立ち上がり、窓の外を見た。
「この世界に来て一年半。我々の社会は──良くも悪くも、変化を始めている」
彼は振り返った。
「取り締まるな」
朴成華の目が見開かれた。
「しかし──」
「取り締まるな。ただし、野放しにもするな」
金正天の声は静かだが、有無を言わさぬ重みがあった。
「自由市場を公認する。ただし、登録制とし、税を課す。収益の一部は国家に還元させる。──社会主義の原則は守る。だが、原則を守るために人民を苦しめるのは本末転倒だ」
朴成華は口を開きかけ、閉じた。そして、深く頭を下げた。
「──了解しました」
金正天は再び窓の外を見た。
地球にいた頃、彼の国は変化を拒み続けた。外圧に対して殻を閉ざし、内部を凍りつかせることで体制を維持した。それが正しかったかどうかは、歴史が判断するだろう。
だが、ここは地球ではない。
この世界に制裁はない。封じ込めもない。代わりにあるのは、魔法と科学が溶け合う未知の可能性と、隣人との対等な関係。
変化を拒めば、この世界では孤立する。そして孤立は──もう、選ばない。
「朴成華」
「はい」
「もう一つ。旧ロムニア領の住民に対する統治方針を見直す。彼らを"被支配民"ではなく、"共和国の新市民"として扱う制度を整備せよ。市民権の付与、教育の機会均等、公職への登用──」
朴成華の顔がこわばった。
「──それは、大きな変化です」
「ああ。大きな変化だ」
金正天は窓枠に手をかけた。
「だが我々自身が、大きな変化の産物だろう。国ごと異世界に飛ばされるより大きな変化が、あるものか」
* * *
### 二、転移後五百四十日目──南部三州・旧ロムニア帝国領ヴォルフスブルク市
ヴォルフスブルクは、かつてロムニア帝国第三の都市だった。
帝国崩壊後、北朝鮮の統治下に入ったこの街は、微妙な空気の中にあった。新しい支配者を恐れる者、歓迎する者、様子を見る者。三つの感情が、街の中で複雑に渦巻いている。
その渦の中心に、一人の男がいた。
ハインリヒ・ヴェーバー。元ロムニア帝国陸軍中佐。現在は──ヴォルフスブルク市の自治委員長。
四十代半ば。角張った顎に鉄灰色の目。軍人の硬さと、行政官の柔軟さを併せ持つ男だった。帝国崩壊後、多くの将校が逃亡や自決を選ぶ中、彼は残った。理由は単純だった。
「逃げたら、この街の市民はどうなる。誰かが残って、新しい支配者との間を取り持たなければならない」
彼の判断は正しかった。北朝鮮の占領統治は、当初の予想よりも穏健だった。略奪も虐殺もなかった。代わりに来たのは──途方もない量の書類と、理解不能な官僚制度だった。
「これを全市民に配布せよ、だと?」
ハインリヒは北朝鮮の行政官から渡された冊子を見つめた。『主体思想の基礎──新市民のために』。ハングルとロムニア語の二ヶ国語表記。
「──正直に言っていいか」
行政官の李民秀は、生真面目な顔で頷いた。三十代前半。本国から派遣された若い官僚で、異世界の住民とのコミュニケーションに悪戦苦闘している。
「この街の人間は、思想教育より先に必要なものがある。食料の安定供給。壊れた水道の修復。それと──仕事だ。帝国軍の解体で、何千人もの元兵士が職を失っている。彼らに仕事を与えなければ、治安が悪化する」
李民秀は困惑した顔をした。
「しかし、思想教育は最高指導者同志の指示で──」
「指示は理解している。だが、空腹の人間に思想を説いても腹は膨れない」
二人は見つめ合った。
やがて李民秀が、小さく笑った。
「──あなたの言う通りかもしれません。本国に、インフラ復旧の優先を具申します」
ハインリヒは意外そうに目を見張った。
「聞き入れてもらえるのか」
「最近の本国は──変わり始めています。以前なら、こんな具申は握り潰されたでしょうが」
李民秀は窓の外を見た。ヴォルフスブルクの石畳の通りを、北朝鮮の軍用トラックとロムニア人の馬車が並んで走っている。
「この世界に来て、我々も学んでいるのです。教科書に書いていないことを」
* * *
### 三、転移後五百六十日目──同市・旧ロムニア軍兵舎跡
ハインリヒの提案は通った。
旧ロムニア軍の兵舎が、職業訓練所に改装された。元帝国軍兵士たちが、北朝鮮の技術者から機械操作を学んでいる。エーテル結晶の採掘・加工技術。建設機械の運転。電気配線の基礎。
同時に、北朝鮮側の技術者たちも、元帝国軍の魔導兵から基礎魔法を学んでいた。
「力の流れを意識しろ。エーテル結晶は道具であって、源じゃない。源はお前自身だ」
元魔導騎士のフリッツが、北朝鮮の若い技術者に手取り足取り教えている。一年半前まで戦場で殺し合っていた相手に、今は魔法を教えている。歴史の皮肉としか言いようがない。
ハインリヒはその光景を見ながら、李民秀と並んで立っていた。
「不思議なものだな」
ハインリヒが呟いた。
「何がですか」
「一年半前、あんたたちは空から火を降らせて、俺たちの帝国を滅ぼした。今は隣に立って、一緒に壁を塗っている」
李民秀は少し考えた。
「──恨んでいますか」
ハインリヒは首を横に振った。
「帝国は腐っていた。俺自身、それはわかっていた。属州の民を奴隷のように扱い、拡張のために隣国を侵略し──いずれ自壊するか、誰かに倒されるかだった。たまたま倒したのが、あんたたちだっただけだ」
彼は北朝鮮の技術者とロムニアの元兵士が一緒に笑っている姿を見つめた。
「ただ──一つだけ聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あんたたちは、この土地を永遠に支配するつもりなのか。それとも──いつか、俺たちに返すのか」
李民秀は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。
しかし、この問いは確実に平壌に届くことになる。そして、それは北朝鮮の指導部に、避けて通れない選択を突きつけることになる。
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## 第十五章 三つの旗
### 一、転移後六百日目──平壌・党中央委員会庁舎
「南部三州の自治拡大を求める請願書です」
金美蘭が差し出した書類の厚さに、金正天は眉を上げた。
「旧ロムニア領の市民八万人の署名が集まっています。彼らの要求は三点。地方議会の設置。自治警察の創設。そして──独自の旗の使用許可」
「旗か」
「はい。彼らは北朝鮮市民としての義務を果たすことに異議はない、と明言しています。税も払う。法も守る。しかし、自分たちの文化的アイデンティティを示す旗を持ちたい、と」
金正天は椅子に深く座った。
これは、単なる旗の問題ではなかった。国家の形そのものに関わる問いだ。
朝鮮民主主義人民共和国は、単一民族・単一思想の国家として建国された。だが今、その国土には異世界の住民が数百万人含まれている。彼らに「北朝鮮人になれ」と強制することは可能だ。だが──
「金美蘭」
「はい」
「お前はどう思う」
金美蘭は少し考え、率直に答えた。
「認めるべきだと思います」
「理由は」
「旗を禁じれば、彼らの不満は地下に潜ります。地下に潜った不満は、いずれ爆発する。──ロムニア帝国が滅びた理由の一つは、属州の民の怒りを無視し続けたことです。我々が同じ過ちを犯す必要はありません」
金正天は窓の外を見た。平壌の街に、ヴェルダンからの留学生が増えている。市場にはエルデシアの海産物が並び、街角ではロムニア語の看板が目につくようになった。
もはや、この国は「北朝鮮人だけの国」ではない。
「──三つの旗にしよう」
金美蘭が首を傾げた。
「共和国の国旗は、全領土で最上位とする。これは譲れない。だが、その下に──地方旗の掲揚を認める。南部三州には彼ら独自の旗を。そして──」
彼は立ち上がった。
「もう一つ。新しい旗を作る。共和国旗でも地方旗でもない、"連合旗"だ。この大陸の全ての人間が、共に生きることを示す旗。北朝鮮の赤い星と、この世界の青いエーテルの結晶を組み合わせた──」
金美蘭の目が見開かれた。
「──それは、国家の形を変えるということですか」
「変えるんじゃない。広げるんだ」
金正天の声には、不思議な軽さがあった。重荷を下ろしたのではない。重荷の意味を、初めて理解した人間の声だった。
「地球では、我々は閉じることで生き延びた。この世界では──開くことで生き延びる。やり方が違うだけで、目的は同じだ。人民を守り、国を守り、未来を作る」
金美蘭は深く頷いた。
「──了解しました。連合憲章の草案を作成します」
* * *
### 二、転移後六百五十日目──ロムニアグラード・中央広場
三つの旗が掲げられた日。
中央に朝鮮民主主義人民共和国の国旗。右に南部三州自治区の銀と黒の旗。左に──赤い星と青い結晶を組み合わせた「アルカディア連合旗」。
広場に集まった群衆は、北朝鮮の市民、旧ロムニア領の住民、ヴェルダンの外交団、エルデシアの商人たち。一年半前には殺し合っていた人々が、同じ広場に立っている。
朴正浩は群衆の端に立ち、その光景を見つめていた。
隣にセレスティアがいた。
「──あなたは、この光景を予言できましたか」
朴正浩の問いに、セレスティアは首を振った。
「できるわけがない。あの日、オラクルスの儀式が始まった時──私が予見したのは、破滅だけでした。まさかその破滅の先に、こんな日が来るとは」
「予言者としては落第だな」
「ええ。でも──」
彼女は微笑んだ。その笑みには、もう怒りも悲しみもなかった。
「予言が外れて、よかったと思います」
広場でスピーチが始まった。金美蘭が壇上に立ち、連合憲章の前文を読み上げている。
「我々は、異なる世界に生まれ、異なる歴史を歩み、異なる力を持つ者たちである。我々の出会いは偶然であり、その過程には苦痛と犠牲が伴った。しかし、我々は選択する。憎悪ではなく協力を。支配ではなく共存を。過去ではなく未来を。──本憲章をもって、アルカディア連合の成立を宣言する」
歓声が上がった。
だが、それは一枚岩の歓声ではなかった。喜ぶ者の隣に、冷めた目で見つめる者がいた。不安を抱える者がいた。反発する者がいた。
それでいい、と朴正浩は思った。
全員が同じ方向を向く社会は、脆い。違う方向を向いた人間同士が、それでも隣り合って立てる社会の方が──たぶん、強い。
「チョコレート、食うか」
彼はポケットから板チョコを取り出し、セレスティアに差し出した。
セレスティアは目を瞬かせ、それから笑った。
「──最初に会った時と同じことを言うのですね」
「あの時はマルクスに渡したんだ。お前にはまだ渡してなかったろう」
セレスティアはチョコレートを受け取り、一口齧った。
「甘い」
「そうだ。チョコレートは甘い。どの世界でも」
三つの旗が風にはためいている。
赤と青と銀。それぞれの色が、それぞれの歴史と誇りを背負っている。
だが、同じ風に吹かれている。
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## 第十六章 いつかの朝
### 一、転移後七百三十日目──転移二周年の朝
平壌に朝が来た。
二年前のあの日と同じ冬の朝。だが、窓の外の景色は全く違う。
エーテル結晶の街灯が青白く灯る通りを、出勤する人々が歩いている。北朝鮮の市民に混じって、ヴェルダンの留学生、ロムニアの技術者、エルデシアの商人。市場ではハングル、ロムニア語、ヴェルダン語が飛び交い、時折エルデシアの歌うような訛りが混じる。
尹春姫は娘の手を引いて、学校へ向かっていた。
「お母さん、今日は記念式典があるんだって!」
恩珠が弾む声で言った。七歳になった娘は、この世界の言葉──ヴェルダン語の基礎を既に学んでいる。クラスメートにはロムニア人の子供もいると聞いた。
「そうね。二年前の今日、私たちはこの世界に来たの」
「お母さんは、地球が好き? それともここが好き?」
春姫は足を止めた。
七歳の問いは、時として大人が答えられないものを突きつける。
「──どっちも好きよ」
春姫はそう答えた。嘘ではなかった。
「地球には、お母さんの思い出がいっぱいある。でも、ここには恩珠がいる。恩珠がいる場所が、お母さんの一番好きな場所よ」
恩珠は満足そうに笑い、母の手をぎゅっと握った。
* * *
### 二、同日──アルタリア復興大学
セレスティアは研究室の窓から、キャンパスを見下ろしていた。
かつて大神殿があった場所に建てられたこの大学は、二つの世界の知の融合を目指す場所だ。魔法学と物理学が同じ棟で教えられ、北朝鮮の科学者とこの世界の魔導師が共同で研究を行っている。
「学長、本日の記念式典のスピーチ原稿です」
助手が紙を差し出した。セレスティアは受け取り、目を通し──静かに机に置いた。
「原稿は使いません。今日は、思ったことをそのまま話します」
助手が不安げな顔をしたが、セレスティアは微笑んで手を振った。
「大丈夫。二年間で、言いたいことは決まっていますから」
* * *
### 三、転移二周年記念式典──アルタリア復興大学・中央講堂
講堂は満席だった。
北朝鮮の政府高官。ヴェルダン公国の外交団。旧ロムニア領の自治代表。海洋同盟の使節。そして──大学の学生たち。二つの世界から集まった、未来を担う若者たち。
金正天は最前列に座っていた。その隣にセバスチャン公爵。反対側にはカタリナ・ヴァン・デル・メール。一年前に「次に会う時は敵同士かもしれない」と言った女は、今、同じテーブルで茶を飲んでいる。
壇上にセレスティアが立った。
白い髪が照明に輝く。二年前は恐怖に震えていた巫女が、今、数千人の聴衆の前に毅然と立っている。
「二年前の今日──」
彼女は静かに語り始めた。
「私の師であるオラクルスは、絶望の果てに禁忌の魔法を行使しました。理想の軍事国家を召喚しようとした。しかし現れたのは──朝鮮民主主義人民共和国でした」
かすかな笑い声が起きた。
「正直に申しましょう。あの瞬間、私は全てが終わったと思いました。世界が壊れる。取り返しのつかないことが起きた。──そして実際、取り返しのつかないことは起きました」
彼女は一呼吸置いた。
「ガイア神聖国は滅びました。ロムニア帝国も崩壊しました。多くの命が失われました。その痛みは、今もこの大陸に残っています。忘れてはなりません。美化してもなりません」
講堂が静まり返った。
「しかし──」
セレスティアの声が、力を帯びた。
「取り返しのつかないことの中から、取り返しのつく何かが生まれることもある。それが、この二年間で私が学んだことです」
「北朝鮮の人々は、望んでこの世界に来たわけではありません。故郷を奪われ、帰る手段を失い、見知らぬ世界で生きることを強いられた。それでも彼らは──恨むことよりも、作ることを選びました。敵を作るよりも、友を作ることを選びました。チョコレートを半分に割って、見知らぬ相手に差し出すことを──選びました」
彼女は朴正浩を見た。朴正浩は無表情のまま、小さく頷いた。
「私たちの世界もまた、変わりました。千年続いた帝国の秩序が崩れ、代わりに何が来るかもわからない混沌の中にいます。不安はあります。恐怖もあります。しかし──」
セレスティアは聴衆を見渡した。
「この講堂を見てください。二年前には想像もできなかった光景があります。異なる世界の人間が、同じ場所で、同じ空気を吸い、同じ言葉に耳を傾けている。完璧ではありません。問題は山積みです。でも──ここにいる。共にいる。それだけで、世界がまだ終わっていない証拠です」
彼女は最後に、空を仰いだ。講堂の天窓から、冬の青空が見えた。
「二年前、私は問いました。『私たちは何をしてしまったのか』と。今日、私は別の問いを立てます」
セレスティアは微笑んだ。
「『私たちは、これから何をするのか』──と」
拍手が起きた。最初は疎らに、やがて波のように広がり、講堂を満たした。
金正天は拍手をしながら、隣のセバスチャンに小さく言った。
「──彼女を召喚したのは、あるいは我々の方だったのかもしれないな」
セバスチャンは笑った。
「この世界では、誰が誰を召喚したのか、もう誰にもわかりませんよ」
* * *
### 四、その夜
記念式典の夜。
朴正浩は、大学の屋上に一人で立っていた。
二年前の雪原で、マルクスにチョコレートを渡した日のことを思い出す。言葉も通じない相手に、板チョコを半分に割って差し出した。あの瞬間、彼は何を考えていたのか。
──何も考えていなかった。
ただ、腹が減っているだろうと思っただけだ。寒い日に、甘いものは人を少しだけ楽にする。それだけのことだ。
大きな理想も崇高な理念もなかった。ただ、目の前の人間に、チョコレートを渡しただけ。
それが──全ての始まりだった。
屋上のドアが開いた。
マルクス・ヴァイスが立っていた。
ヴェルダン公国の駐在武官として、記念式典に出席していたのだ。二年前の辺境警備隊長は、今や公国軍の大佐になっている。
「──久しぶりだな」
朴正浩が言った。
「ああ。式典で見かけたが、人が多すぎて近づけなかった」
マルクスは隣に立ち、空を見上げた。二つの月が浮かんでいる。
「覚えているか。最初に会った日」
「忘れるわけがない。お前がチョコレートをくれた」
「うまかったか」
「うまかった。あの一口で、お前たちが敵じゃないとわかった」
二人は並んで空を見上げた。
「──朴正浩」
「何だ」
「チョコレート、あるか」
朴正浩は笑い、ポケットから板チョコを取り出した。包装を剥がし、半分に割る。
二年前と同じように。
マルクスはそれを受け取り、口に入れた。
「──うまい」
「だろう」
二つの月が照らす屋上で、二人の男がチョコレートを食べている。
それだけの光景だった。
だが──それだけでよかった。
世界は完璧ではない。問題は山積みで、明日も明後日も新しい困難が待っている。
それでも──チョコレートは甘い。隣に友がいる。空には月が二つ。
今はそれで、十分だった。