## 第十七章 王の賭け
### 一、転移後八百日目──エルデシア王国・王都カレイドス 王宮奥殿
リチャード三世は、暗い部屋で一人、地図を見つめていた。
次元封印の協力を余儀なくされて以来、彼の権威は揺らぎ続けていた。海洋同盟七ヶ国のうち四ヶ国が北朝鮮との独自通商を開始し、フリースラント共和国に至っては「アルカディア連合」へのオブザーバー参加を表明した。
盟主の頭越しに。
「陛下」
海軍大将アドミラル・ホークが跪いた。五十代半ば、日焼けした顔に刀傷。海洋同盟最強の艦隊を率いる男だ。
「陛下、このままでは海洋同盟は瓦解します。手を打たねば」
リチャードは地図から目を離さなかった。
「──手は打つ。だが、お前の考えている手ではない」
ホークが怪訝な顔をした。
リチャードは立ち上がり、窓を開けた。カレイドスの港に、無数の帆船のマストが林立している。千年の海洋王国が築いた、誇りの森。
「あの異邦人どもの強さは何だ、ホーク」
「武器です。あの雷を吐く杖と、空飛ぶ──」
「違う」
リチャードの声が鋭く遮った。
「武器は道具に過ぎん。奴らの本当の強さは──変わる力だ」
ホークが黙った。
「考えてみろ。奴らは異世界から裸同然で放り出され、一年で帝国を滅ぼし、二年で大陸の半分を掌握した。その間に、魔法を学び、異種族と同盟を組み、自国の体制まで変え始めている。──あの速度で変化できる国を、力で潰すのは不可能だ」
「では──」
「変化で対抗する」
リチャードは振り返った。その碧眼に、嵐ではなく──冷徹な計算の光が宿っていた。
「海洋同盟を解散する」
ホークの顔から血の気が引いた。
「陛下──!」
「代わりに、新しい枠組みを作る。エルデシアを中心とした"海洋経済圏"だ。軍事同盟ではなく、経済同盟。自由貿易と航海の安全保障を軸に、大陸勢力と対等に渡り合える海の連合体を」
ホークは口を開閉させた。
「それは──我が国の軍事的優位を放棄するということでは」
「軍事的優位で何を守る。空の船を守ってどうする」
リチャードは吐き捨てた。
「港にいる船の半分は、もう荷を積んでいない。大陸との交易が北朝鮮経由に流れているからだ。このまま拳を握り締めていれば、我々は拳ごと干上がる」
彼は海軍大将の肩に手を置いた。
「ホーク。お前は戦争のプロだ。だが、これからの海は──戦争ではなく商売の海になる。それに適応できるか」
ホークは長い沈黙の後、膝を折った。
「──陛下がそうお決めならば」
リチャード三世は窓辺に戻り、海を見つめた。
彼は暴君ではなかった。独善的ではあったが、愚かではなかった。世界が変わるなら、自分も変わる。変われない王は、王座ごと海に沈む。
「カタリナを呼べ」
「あの裏切り者をですか」
「裏切り者ではない。先見の明があっただけだ。──あの女に、北朝鮮との経済協定の草案を作らせる」
* * *
### 二、転移後八百二十日目──平壌・金美蘭の執務室
「エルデシア王国が、海洋同盟の解散と経済圏への再編を宣言しました」
報告を聞いた金美蘭は、しばらく沈黙した。
「──リチャード三世か。読み違えていた」
彼女は苦笑した。
「彼を単なる権力亡者だと思っていました。まさか自ら同盟を壊して再構築するとは」
カタリナからの私信が添えられていた。
『あなたたちが大陸を変えた。だから王も変わらざるを得なかった。これは脅威よ。でも同時に──チャンスでもある。海と陸が本当に手を結べば、この世界はもっと面白くなる。──茶でも飲みながら話しましょう。今度はちゃんとした店で』
金美蘭はその手紙を読み、初めて声を出して笑った。
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## 第十八章 壁を叩く
### 一、転移後九百日目──アルタリア復興大学・次元物理学研究棟
崔智勲は、人生の総決算に取りかかっていた。
研究室の壁一面に貼られた数式と図表。エーテル結晶の次元間振動理論。三百日かけて組み上げた理論の、最後のピースが嵌まろうとしている。
「先生、お体が心配です」
助手の朴美京博士──かつて最初の接触で絵を描いてコミュニケーションを取ったあの言語学者だ。転移後に次元言語学という新分野を立ち上げ、今は崔智勲の研究チームに加わっている。
「心配は不要だ。あと少しなのだ」
崔智勲の顔には疲労が刻まれていたが、目だけは青年のように輝いていた。
「次元の壁は、完全な遮断壁ではない。極めて微弱だが、振動を伝える性質がある。エーテル結晶をある特定の周波数で共振させれば──壁の向こう側に、信号を送れる可能性がある」
「信号というのは──」
「音ではない。光でもない。次元振動そのものだ。地球側にエーテル結晶は存在しないが、振動は物質に依存しない。理論上は、地球の精密な観測機器──重力波検出器のような装置で、捉えられるかもしれない」
朴美京は息を呑んだ。
「つまり──地球に、メッセージを送れると」
「メッセージと呼べるほど複雑な情報は無理だ。送れるのは──パルス信号。規則的な振動のパターン。自然現象では生じない、明らかに人為的な信号」
崔智勲は黒板に、一つのパターンを描いた。
短い振動。長い振動。短い振動。
「モールス信号ですか」
「原理は同じだ。だが、もっと単純なものでいい。最初は──ただ、規則的な信号を送る。自然のノイズとは区別できる、明らかに知性が発した信号を」
彼は黒板を見つめた。
「それだけで十分だ。地球の科学者たちがそれを捉えれば──彼らは理解する。どこか遠くに、知性が存在する。それが我々だと特定するのは、彼らの仕事だ」
朴美京の目に涙が浮かんだ。
「先生──それは、『我々はここにいる』というメッセージですね」
崔智勲は眼鏡を外し、拭いた。レンズの曇りか、目の潤みか、どちらかはわからなかった。
「そうだ。帰ることはできない。顔を見ることも、声を聞くこともできない。だが──存在を伝えることはできる。我々は生きている、と。ここで、ちゃんと生きている、と」
* * *
### 二、転移後九百三十日目──同研究棟・地下実験室
装置が完成した。
「次元共振装置」──崔智勲が三年近くの歳月を注ぎ込んだ、科学と魔法の結晶。
中央に直径二メートルのエーテル結晶球。その周囲を、精密な電子制御装置が取り囲んでいる。結晶の共振をナノ秒単位で制御し、次元の壁に向けて振動パルスを送る。
起動実験の日、地下実験室には限られた人間だけが集まっていた。
崔智勲。朴美京。セレスティア。朴正浩。そして──金正天自身。
「成功する保証はあるのか」
金正天が尋ねた。
崔智勲は正直に答えた。
「ありません。信号が次元の壁を透過するかどうかは、理論上の予測に過ぎません。また、仮に透過しても、地球側で検出される保証はありません。重力波検出器の感度が十分かどうか──地球の技術水準に依存します」
「つまり、賭けだと」
「はい。しかし──」
崔智勲は金正天の目を見た。
「やる価値のある賭けです」
金正天は頷いた。
「──やれ」
崔智勲がスイッチに手を置いた。
「信号パターンは決定済みです。素数列──2、3、5、7、11、13──を繰り返し送信します。自然界では生じない数学的パターンであり、知性の存在を示す最も普遍的な信号です」
セレスティアが結晶球に手を触れた。魔法の力が、結晶の共振を安定させる。科学だけでは到達できない精度を、魔法が補完する。
「起動します」
崔智勲がスイッチを入れた。
結晶球が青く輝いた。その光が脈動する。規則的に。2回。3回。5回。7回。11回。13回──
振動が次元の壁に向けて放たれた。
目には見えない。耳にも聞こえない。計器だけがその存在を示している。微弱な、しかし確かな振動が、この世界と地球を隔てる壁に向かって進んでいく。
届くかどうかはわからない。
届いたとしても、地球側が気づくかはわからない。
気づいたとしても、それが北朝鮮からの信号だと理解されるかはわからない。
それでも。
「──送信完了」
崔智勲の声が震えていた。
地下実験室に静寂が降りた。
金正天が、静かに口を開いた。
「これを──毎日続けろ。一日も欠かさず。たとえ応答がなくても。たとえ百年かかっても」
崔智勲は深く頷いた。
「はい。たとえ私の代で届かなくても──次の世代が引き継ぎます」
セレスティアは結晶球を見つめていた。
二年半前、この世界と地球を繋いだのは、禁忌の召喚魔法だった。暴力的に壁を破り、国一つを引きずり込んだ。
今、壁を叩いているのは──祈りにも似た、静かな信号だ。
破るのではなく、伝える。奪うのではなく、届ける。
それが、この二年半で彼らが学んだことの全てだった。
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## 第十九章 恩珠の空
### 一、転移後千日目──平壌・万景台区域 尹家
尹恩珠は八歳になっていた。
転移の日の記憶はほとんどない。空が光ったこと。母が自分を抱きしめたこと。窓の外に二つの月が浮かんでいたこと。それだけだ。
彼女にとって、二つの月は生まれた時からあるものと変わらない。学校でヴェルダン語を学ぶのも、クラスメートにロムニア人のフリッツがいるのも、市場でエルデシアの干し魚を買うのも、全部当たり前だった。
「お母さん、私、大きくなったら何になろうかな」
夕食の席で、恩珠が箸を止めて言った。
春姫は微笑んだ。
「何になりたいの?」
「魔法と科学の両方を使える人。崔智勲先生みたいな」
「大きな夢ね」
「フリッツはね、船乗りになるんだって。エルデシアの海を全部見て回るって。私もフリッツと一緒に冒険したい」
春姫は娘を見つめた。
この子は、地球を知らない世代の最初の一人だ。故郷を失った痛みを持たない代わりに、この世界を丸ごと自分のものとして生きている。
それは──喪失だろうか。それとも、自由だろうか。
「恩珠。あなたは、何にだってなれるわ」
春姫はそう言った。
二年半前には、言えなかった言葉だ。地球にいた頃、娘の未来は見えない天井に阻まれていた。制裁。孤立。閉ざされた世界。
ここには、天井がない。
「お母さん、泣いてるの?」
「泣いてないわよ。玉ねぎを切ったのよ」
「玉ねぎ切ってないじゃん」
「うるさいわね。早く食べなさい」
恩珠は笑って箸を動かした。
窓の外で、二つの月が昇っていく。
* * *
### 二、同日──アルタリア復興大学・屋上
朴正浩は屋上のベンチに座り、星を見ていた。
千日。地球を離れて千日が経った。
この世界の星座の名前も覚えた。北の空に輝く「騎士の剣」。南に横たわる「大海蛇」。地球の星座よりも、どこか神話的で大仰な名前が多い。
隣にマルクスが座った。二人はこの頃、月に一度は酒を飲む仲になっていた。
「千日だな」
「ああ」
「長かったか」
朴正浩は考えた。
「──短かった。信じられないほど」
マルクスは頷いた。
「俺もだ。二年半前、お前にチョコレートをもらった日が昨日のようだ」
二人はしばらく黙って星を見た。
「マルクス」
「何だ」
「お前は──この状況を、どう思っている。異世界から国が一つ飛んできて、帝国を滅ぼし、大陸の秩序を作り替えた。お前たちの世界を、俺たちが壊して作り直した。──恨んでいるか」
マルクスは酒を一口飲み、ゆっくり答えた。
「恨んでいたら、ここで酒は飲まん」
「それはそうだが」
「いいか、朴正浩。お前たちが来る前、この大陸は腐りかけていた。ロムニア帝国の恐怖政治。ガイア神聖国の狂信。ヴェルダンは中立という名の無力に甘んじていた。──お前たちが来て壊したものは、どのみち壊れるものだった。ただ、壊れ方が劇的だっただけだ」
彼は空を見上げた。
「それに──お前たちは壊すだけじゃなかった。学校を建てた。道を作った。奴隷を解放した。チョコレートを半分にしてくれた」
朴正浩は黙って聞いていた。
「完璧じゃない。問題は山ほどある。だが──お前たちが来る前のこの世界より、今のこの世界の方がいい。少なくとも俺は、そう思っている」
朴正浩は酒を飲んだ。
「──ありがとう」
「礼を言うな。気持ち悪い」
「お前も気持ち悪いこと言ったくせに」
二人は顔を見合わせ、笑った。
星が瞬いている。地球の星とは違う、この世界だけの星。
「なあ、朴正浩」
「何だ」
「お前──地球に帰りたいか」
朴正浩は長い沈黙の後、答えた。
「──帰りたいさ。嘘は言わない。地球のことは忘れていない。たぶん死ぬまで忘れない」
マルクスは黙って聞いた。
「だがな。帰りたいということと、ここにいたくないということは、違うんだ」
朴正浩は立ち上がり、夜空を見上げた。
「地球は俺の故郷だ。だが──ここも、俺の場所だ。矛盾しているようだが、矛盾していない。人間は、二つの場所を同時に故郷だと思える。そういう生き物なんだ」
マルクスは頷いた。
「──いいことを言うな。記録しておくべきだ」
「するな。酔っぱらいの戯言だ」
「酔っぱらいの戯言が、時に真実だ」
二人はまた笑い、酒を飲んだ。
千日目の夜が、静かに更けていく。
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## 第二十章 もう一つの月
### 一、転移後千九十五日目──三年目の朝
平壌に、三度目のこの世界の春が来た。
エーテル結晶と科学技術の融合が進み、街は三年前の面影を残しながらも、確実に変わっていた。建物の壁面に這うエーテル配管が青い光脈を走らせ、通りには電動車とヴェルダン式の馬車が並走している。市場では四つの言語が飛び交い、子供たちは学校で科学と魔法を同時に学んでいる。
朝の通りを、様々な人間が歩いている。
尹春姫は工場へ向かう。繊維工場は今やエーテル結晶織維の生産拠点となり、大陸全土に製品を輸出している。彼女は班長から主任に昇進した。
恩珠は学校へ走る。今日はフリッツと一緒に、基礎魔法学の実技試験だ。エーテル結晶を光らせるだけなら簡単だが、光の色を制御するのは難しい。昨夜ずっと練習した。
ハインリヒ・ヴェーバーは、南部三州自治議会の議長として、朝の会議に出席する。元敵国の軍人が、占領された土地の自治を率いている。世界の奇妙さに、彼はもう驚かない。
李民秀は、ハインリヒと並んで議会へ向かう。赴任当初は「思想教育」の冊子を配っていた若い官僚が、今では自治議会の北朝鮮側連絡官として、現地住民と毎日膝を突き合わせている。
カタリナ・ヴァン・デル・メールは、ポルトゥス港で新型の蒸気帆船の進水式に出席する。エーテル結晶駆動の蒸気機関を搭載した、海洋経済圏と大陸を結ぶ交易船の第一号だ。
マルクス・ヴァイスは、ヴェルダンハイム城で朝の巡回を行う。大佐の階級章が肩に光る。三年前の辺境警備隊長は、今や公国軍の中枢にいる。
セレスティアは大学の研究室で、朝一番にエーテル結晶の次元観測データを確認する。裂け目の痕跡はない。世界は安定している。
崔智勲は地下実験室で、今日も次元共振装置を起動する。素数列の信号を、壁の向こうに送り続ける。千日以上、一日も欠かしていない。応答はまだない。それでも、続ける。
朴正浩は──
* * *
### 二、同日朝──旧大神殿跡・記念公園
朴正浩は、記念公園のベンチに座っていた。
かつて大神殿があった場所は、今は緑の公園になっている。中央に一本の木が植えられている。地球から持ち込まれた種から育った松の木だ。この世界の土壌と空気の中で、地球の松は不思議な変容を遂げた。幹は通常通りだが、針葉の先端が淡い青を帯びている。エーテルを吸って育った、二つの世界の混血の木。
朴正浩はその木を見上げた。
三年前の自分を思い出す。雪の平原で、言葉も通じない異世界の男にチョコレートを差し出した軍人。あの時の自分に、三年後の世界を教えたら──信じるだろうか。
ポケットに手を入れると、板チョコが一枚あった。もう習慣になっている。いつでも誰かに半分を渡せるように。
公園に、一人の少女が走ってきた。
「朴正浩おじさん!」
恩珠だった。通学路の途中で公園を突っ切るのが、彼女の日課らしい。
「おう。学校か」
「うん! 今日、魔法の試験なの!」
「そうか。頑張れ」
恩珠は立ち止まり、朴正浩の手元を見た。
「チョコレート?」
朴正浩は笑い、包装を剥がした。半分に割って差し出す。
「食うか」
恩珠は受け取り、一口齧った。
「甘い!」
「だろう」
恩珠はチョコレートを頬張りながら、ふと空を見上げた。朝の空に、青い月がまだ薄く残っている。
「おじさん」
「何だ」
「地球のチョコレートと、こっちのチョコレート、どっちが甘い?」
朴正浩は少し考えた。
「──同じだよ。カカオは地球から持ってきた種で育ててるからな。味は変わらない」
「ふうん。じゃあ、チョコレートは地球の味なんだね」
「そうだな」
「でも、私がこっちで食べたら、こっちの味でもあるよね」
朴正浩は恩珠を見た。
八歳の子供が、無意識に真理を突くことがある。
「──そうだな。その通りだ」
恩珠は満足そうに笑い、「行ってきます!」と叫んで走り去った。
朴正浩は残りのチョコレートを口に入れた。
甘い。
地球の味であり、この世界の味でもある。どちらか一方ではなく、両方。
彼は松の木を見上げた。幹は地球。葉先は異世界の青。根は一つだが、枝は二つの世界に伸びている。
──俺たちも、あの木と同じだ。
そう思った。
* * *
### 三、同日──次元共振装置・地下実験室
崔智勲が、いつものように装置を起動した。
素数列のパルス信号。2、3、5、7、11、13──
千九十五日目の送信。応答はない。今日もない。明日もないかもしれない。十年後もないかもしれない。
それでも、送る。
崔智勲は計器を確認し、ログを記録し、装置の安定を見届けた。いつもと同じ朝の作業。
──その時。
計器の一つが、微かに振れた。
崔智勲は目を疑った。ノイズだ。装置の誤差だ。そう思った。
だが、計器はもう一度振れた。
規則的に。
崔智勲の手が止まった。心臓が跳ね上がった。
計器が示す振動パターンは──
2。3。5。7。11。13。
素数列。
こちらが送ったのと同じ。パターンの信号が──壁の向こうから、返ってきている。
崔智勲は椅子から転げ落ちそうになった。
「──朴美京博士! 来てくれ! 今すぐだ!」
朴美京が駆け込んできた。
「先生、どうしました──」
崔智勲は震える指で計器を指した。
朴美京はデータを見た。二度見した。三度見した。
そして──膝から崩れ落ちた。
「嘘……」
「嘘じゃない。応答だ。向こう側からの──応答だ」
二人は計器を見つめた。信号は続いている。素数列の繰り返し。機械的でもなく、自然現象でもない。明らかに知性が発した、意図的な返答。
地球の誰かが──壁の向こうで、同じ信号を送り返している。
崔智勲の目から涙が溢れた。眼鏡を外すことも忘れて、ただ計器を見つめ続けた。
「──届いたんだ」
声が震えて、言葉にならなかった。
「我々の声が──届いたんだ」
朴美京も泣いていた。
「先生──地球の人たちが、応えてくれています」
二人は計器の前に座り、ただ泣いた。千日以上、一日も欠かさず送り続けた信号。応答なんて来ないかもしれないと思いながら、それでも送り続けた信号。
それが、届いた。
壁は破れなかった。帰ることはできない。顔を見ることも、声を聞くこともできない。
だが──存在を伝えることはできた。
「我々はここにいる」
「知っている」
その二つの言葉が、素数列の中に込められていた。
* * *
### 四、同日夕方──平壌全域
ニュースは、その日のうちに全国に広まった。
「地球からの応答を確認」。
人々は足を止め、街頭のスピーカーに耳を傾けた。
泣く者がいた。
笑う者がいた。
抱き合う者がいた。
黙って空を見上げる者がいた。
尹春姫は工場の休憩室でニュースを聞き、写真立ての中の家族写真を胸に抱いた。地球の家族は──春姫の両親は──まだ生きているだろうか。自分たちが消えた後、どれほど悲しんだだろうか。
今はまだ、文字を送ることも、写真を送ることもできない。ただ「ここにいる」と伝えることしかできない。
だが、それだけで──
「──十分よ」
春姫は涙を拭い、仕事に戻った。
* * *
### 五、同日深夜──記念公園
朴正浩は、再び松の木の下にいた。
昼間と同じベンチ。だが今は夜で、空には二つの月が浮かんでいる。
白い月と、青い月。
そして今日からは──壁の向こうに、もう一つの月がある。見えない月。だが確かにそこにある、地球の月。
三つの月だ。
「──聞こえているか」
朴正浩は空に向かって呟いた。
「地球の誰かさん。聞こえているかは知らないが──ありがとう。応えてくれて」
風が吹いた。松の木が揺れ、青みを帯びた針葉がさざめいた。
「俺たちは元気だ。大変なこともあったが、何とかやっている。飯も食えている。友達もできた。チョコレートもある」
彼は笑った。
「帰れないのは──まあ、仕方ない。でも、繋がっていることがわかった。壁一枚の向こうに、お前たちがいる。それだけで──」
言葉が途切れた。
朴正浩は目を閉じた。涙が頬を伝った。軍人が泣くのは好きではなかったが、今夜は許してもらうことにした。
目を開けると、二つの月が滲んで見えた。
──もう一つの月が、壁の向こうで輝いている。
見えなくても、ある。
それで十分だった。
彼は立ち上がり、ポケットから最後の板チョコを取り出した。包装を剥がし、半分に割った。
半分を口に入れ、もう半分をベンチの上に置いた。
誰のためでもない。いや──誰のためでもある。明日の朝、このベンチに座った誰かが見つけてくれればいい。北朝鮮の市民でも、ヴェルダンの留学生でも、ロムニアの元兵士でも、エルデシアの商人でも。
甘いものは、人を少しだけ楽にする。
どの世界でも。
朴正浩は歩き出した。帰る場所がある。明日も仕事がある。研究所で、エーテル結晶と睨めっこする日々が待っている。
背中の向こうで、二つの月が空を照らしている。
そしてその遥か彼方──次元の壁を隔てたどこかで、三つ目の月が輝いている。
北朝鮮の月。
異世界の月。
そして──地球の月。
三つの月が照らす世界で、人々は眠りにつく。
明日も朝が来る。チョコレートを半分に割る朝が。