或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より   作:アツ氏

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10.地獄にて

 ベッドの上は、いわば厳粛な命がけの戦場だったが、幸いにして誰も死なずにすんだ。

 ただ、引き裂かれるような思いで肉欲と理性とのあいだを行き来しながら、人間は一体何でできているのかという、愚劣な思索にふける羽目に陥っただけだ。俺は神を信じてはいないが、目に見えるものが全てではないとも思っている。確かなことを追い求めているだけで済むほど、世の中は都合よくできていない。時には確信がなくとも飛び込む勇気が必要だ。俺は大きな選択を迫られている。自称コルラードの情婦の言葉を信じるか否か。アダの情報はこうだった。

「研究所はドンの屋敷の離れにあるわ。広大な敷地の一角に入り口があるけど、残念ながら厳重に鍵がかけられていて、所長のディーナと、上層部でもごく一部の者しか開けることはできない。見張りが多いから、扉に近づくのも難しいの。正面を切って入ることはまず不可能ね」

 場所が特定できても潜入できなければ無意味だ。俺はかぶりを振った。

「ウラが取れなきゃ、情報としての価値はない。場所だけでなく、ヤクの実態を突き止める必要がある」

「ええ。あなたの言うとおりよ」

 俺の反応が予想通りだというように、アダは余裕たっぷりに笑った。

「……てことは、まだ続きがあるんだな」

「聞きたい?」

「言わないなら俺は帰るぜ」

「駄目よ。逃げたら殺すっていったでしょ」

「なら勿体つけるなよ」

「じらされるのは嫌い?」

「嫌いだね。やることは結局おんなじだ」

「ムードのない人ね」

 アダののらくらした態度に苛立ちが募る。が、これも試練だ。焦って化けの皮が剥がれてしまっては元も子もない。相手の手の内にあるものを欲している以上、立場はこっちが弱かった。しばらく沈黙していると、アダはおもむろに俺の首に両腕をまわし、上目遣いをしながら言った。

「絶対に裏切らないでね。あなたはあたしと一緒に、ケクロピアで幸せに暮らすの。約束してよ」

 いかにもか弱い女らしく、すがりつくような文句だった。芝居だとしたら上出来だ。

「何故そこまで言う。俺がケクロピア出身で、ドンの床屋だからか」

「違うわ。あなたがやさしい人だからよ」

 単なる方便だと分かっていたが、思わず捜査官としてではなく、素の男としての疑問が口をついた。

「……おまえが俺の何を知ってる」

 アダは密やかな矜持を含んだ口調で言う。

「男の性格なんて、いちど寝れば分かるわよ。あとのことは知らなくたってなんとかなるの」

 もしそれが本当なら、不公平な話だ。こちとら相手の本性がまったくつかめずにいる。いざとなると、俺はアダを殺すのをためらうかもしれなかったが、アダは俺をためらいなく殺すかもしれなかった。その分だけやり取りも後手に回っており、付け入られる隙を見せないようにするので精一杯なのだ。だが、話の先を聞くためには、こう答えるほかはなかった。

「アダ。約束する。裏切らないよ」

 俺の言葉を聞いて、アダの三日月形の口元が、静かに綺麗なカーブを描いた。思わず畏怖を覚えるほどの微笑みだった。人間らしい感情を超越した完璧な表情であり、その奥に秘められているのが、悪意であるのか、希望であるのか、推し量ることすらできなかった。悪魔が実在するとすれば、きっとこんな風に笑うのだろう、と俺は思った。

 アダと別れた後、俺はひそかに『死の家』潜入の準備を進めた。

 まず床屋の仕事を請け負うたびに、切りおとした客の髪を持ち帰り、黒くて強い質の毛だけを選り分け、丁寧につなぎ合わせていった。出来上がったのはごわごわした長髪のかつらと、顔全体を覆う付け髭。次に腐った魚介類のエキスと海水、汗を調合して、恐ろしく生臭いにおいの香水を精製する。それからイスメヌス湖畔の地面を掘りおこし、人間の肌に近い質感の粘土を採取。最後にカヴァティーナの店に行き、褐色のファンデーション、紫の布地、海賊風のコート、太めの革ベルト二本、スウェードのブーツを仕入れさせた。潜入の日取りは、アルカトラズ密輸部門の中間報告会に狙いを定めた。

 準備を進めている間に、エレクトリスには新たなニュースが駆け巡った。バスティアニーニファミリーが、とうとう組織アルカトラズに降伏し、傘下に入ったという内容だった。バスティアニーニのボス、エットーレは、先祖代々受け継いできた王侯貴族とのコネクションを譲渡することを条件に、ファミリー全員の助命を嘆願し、アルカトラズはいったんそれを受け入れたらしい。が、情報を全て聞き出すや否や、イラーリオは手のひらを返し、バスティアニーニのボスから幹部、一族郎党までを一気に粛清し、亡き者とした。たとえ組織の傘下に入ったとしても、エットーレが秘密裏に外部と通じて力を蓄え、反乱を起こす可能性はゼロではなかった。とはいえイラーリオが粛清した中には、刃向かいようのない女子供も数多くいたという。この虐殺行為には、他のファミリーの残党に対する見せしめという側面もあった。こうして組織アルカトラズは、群雄割拠のエレクトリスを勝ち抜いた唯一無二のファミリーとして、名実共に罪人たちの頂点に君臨した。

 時を同じくして、我がクーニッツ領では、悪政に虐げられる人民の救済を旗印に、ライナルト帝国への宣戦布告の機運が高まっていた。騎士団では志願兵の募集を行い、軍備を強めているようだ。また、エリシウム砂漠では、君主の堕落によって衰退したラザフォード公国に代わって、膨大な信者を擁するカストゥス教団という新興宗教が一大勢力として名乗りを上げ、布教と称した侵略戦争を企てていると聞く。真偽のほどはさておき、こんな噂があちこちでまことしやかに囁かれるのは、世界情勢が大きく動く前触れとみて間違いなかろう。

 某日、クーニッツ騎士団の連絡員が、報告書を受け取りに来ることになっていた。俺は書面に潜入の決行日を記したうえで、チュレニー海に面する監獄島キンメリアに、脱出用の船を要請する旨の文を、水軍宛に添えた。首尾よく麻薬密造の証拠を手に入れたら、エレクトリスとはおさらばだ。潜入先で何者かと接触し、戦闘行為などに発展すれば、その場は逃げおおせてもいずれ足がつく。即座に組織から刺客が送り込まれて、どのみち俺の潜伏生活は終わるというわけだ。それなら生きて帰るほうを選ぶのは当然である。報告する前に俺が死んでしまったら意味がない。情報も、自分の命も、両方拾うか、両方失うか、二つに一つだ。

 俺は、おそらく最後になるであろう報告書を連絡員に受け渡してから、

「ケクロピアに戻ったら、これを妹に届けてくれ」

 と言って、二枚組みの認識票の片割れを託した。俺が潜入に失敗した場合は、遺品となる。もっと気のきいたものが残せなくて残念だ。……もちろん、死ぬつもりなど毛頭なかったが。

 脱出用の船の着く場所と日時は、アダには教えなかった。ケクロピアでカタギになりたいという話が、仮に全て真実だったとしても、手を貸す余裕はなかった。組織に知られずにオーリックに渡りをつけるのは難しかったし、追っ手から女一人守りながら逃げ切る自信もない。少々胸は痛んだが、やむをえなかった。もし平穏な生活を本気で願っているのなら、俺の手など借りずとも、いずれ何とかするだろう。さもなくば現状に甘んじ続けるか。しかし嘆くほどのことはあるまい。ドンのお気に入りなら、下層の娼婦よりずっとましなのだ。とにかく任務遂行が最優先事項である以上、女に情を移すのは厳禁だった。

 当日の早朝、俺は新居のバスタブでしっかり全身を洗ったあと、変装に取り掛かった。まず湿らせた粘土をこねて鼻にくっつけ、やや潰れ気味の鼻梁をかたどる。それが固まったら、上から顔全体にファンデーションを塗り、日に焼けた肌を演出する。次に縮れた黒い長髪のかつらをかぶり、のりを輪郭に沿って丹念に塗り付けてから、あらかじめ作っておいたモサモサの熊髭を顔にくっつけた。世にもむさくるしいご面相の出来上がりだ。この時点でほとんど人相は変わっているが、さらに全身の数箇所にわたって、魚と海水と汗から精製した生臭い香水を振り、カヴァティーナの店から買った布地で仕立てた服を身に付ける。仕上げに、肩から胸にかけて二箇所に革のベルトを締め、その上からコートを着こみ、紫のターバンを巻き、スウェードのブーツを履く。俺は鏡の前に立ち、変装の出来上がりを入念に確認した。完璧だ。これで床屋のハンクはこの世から姿を消した。代わりに現在エレクトリスには、同じ男が二人いる状態だ。俺は他の住人の誰にも気付かれぬよう、部屋を出た。『死の家』からの送り迎えの馬車で得た記憶を頼りに、徒歩で一直線に十番街方面へ向かう。

 コルラードの屋敷は、郊外の杉林の奥に構えられていた。激しい吹雪に目を細め、ひざまで積もった雪を掻き分けながら、森のかなり深いところまで進んでいかなければならなかったが、馬車が通れるだけの道がある以上、それを見失いさえしなければ、特殊部隊員である俺が迷うはずもなかった。やがて黒レンガ造りの高い壁が、木々の間から姿を見せ始める。館の敷地を囲っているのだが、最上部には有刺鉄線まで張り巡らされ、まるで刑務所の塀だった。目隠し無しで見るのは初めてで、そのあまりの巨大さに驚く。身を守るためとはいえ、逮捕されてもいないのに塀の中に入りたがるとは、罪人だけに皮肉なものだ。

 雪があらゆる音を吸収してしまうのか、あたりは異様なまでに静かだった。『死の家』で行なわれている残虐な拷問や、人体実験の被害者がいくら叫ぼうと、ここからでは誰の耳にも届くまい。どじを踏んで、俺自身が叫ぶ羽目にならなければいいが。俺は馬車道にでて、まっすぐに屋敷の正門へ足を進めた。壁を越えるのは難しいし、その必要もない。何のためにこの日を選び、念入りに準備してきたか、その成果を見せる時だ。

 正門の脇には小屋があり、そこに数人の見張りの構成員が詰めている。ちょっとした軍隊並みの設備だ。寒さをしのぐためか、見張りは外に出てきていない。が、小屋に近づくと、こちらに気付いた若い男が窓をあけて誰何した。もっとも、俺の姿を一目見て、誰だかわかったようだが。

「オルヴァーさん。今日はお一人っすか。しかも歩きで」

 見張りは少しいぶかしげな口調で聞くが、正体を疑ってはいないようだった。そう、俺は密輸部門を取り仕切る幹部、オルヴァーに変装していたのだった。『死の家』に出入りできる幹部の中で、俺と最も人相と背格好が近いのは、奴だった。肌の色と鼻の形さえいじれば、三白眼と、骨太の体格が似通っていたし、あとは髭をはやして海賊風の服を身に付け、海の男らしいむせ返るような体臭を放っていれば、それ以外のところは誤魔化すことができた。オルヴァーと間近で会ったのはアレーナで顔を合わせた一度きりだったが、あの独特の臭いは、忘れようたって、そうそう忘れられるものではない。床屋の仕事を経て、すっかり化粧品の知識にも長けた俺が、それを再現するのは造作もなかった。

「おう、クレトの奴は留守番だ。あいつを報告会に連れてきたって何の役にもたたねえよ」

「馬車使えばいいじゃないっすか。寒いじゃんすか」

 オルヴァーの口調を真似た俺の言葉に対して、軽薄に笑いながら、構成員が軽口を叩く。少し馬鹿にしたような態度だった。もともと外様だったオルヴァーが組織でどんな扱いを受けているか、これでよく分かる。

「……ここだけの話、俺は馬が大嫌いなんだよ。クーニッツの奴らにシノギ邪魔されるようになってから、なおさらな」

「まじっすか。ははっ、お馬さん、何の罪もないっしょ」

 俺はそれを聞くや否や、窓越しに若い構成員の胸倉を掴んで引き寄せ、目の前でにらみをきかせた。

「なめた口きくんじゃねえ。てめえは俺の友達か? 前歯を折られたくなかったら、さっさと門を開けろ」

 オルヴァーらしく凄んでみせると、構成員の顔から笑みが消え、怯えからか口元が軽く引きつった。下っ端のチンピラなど、この程度のものだ。一瞬でも恐怖を感じると、簡単に相手の言いなりになってしまう。こんな奴を見張りに立てているコルラードも迂闊なものだが、屋敷の中で守衛についている戦闘員たちは格が違うので、油断はできない。

「お、おつとめご苦労さんです」

 チンピラは震える声で言ったあと、素直に門の錠をあげてくれた。俺は無言で奴の頭をゴリゴリと撫で、何食わぬ顔で門を抜けた。

 俺はそのまま屋敷の玄関へ向かう振りをして、辺りに誰もいないのを確認すると、建物を迂回して裏庭へ向かった。敷地は異様なまでに広く、小さな街なら丸ごとひとつ収まりそうだった。真っ白な銀世界の中、外界とを隔てる黒い囲いの壁が、遥か遠くにインクでひいた傍線のごとく頼りなく横たわっている。雪がなければ王宮並みの豪奢な庭園を作ることも可能だろうが、現実には壁の外と同じように杉やヒイラギがまばらに生い茂り、警護の構成員達の詰所と思しき無骨な建物が立ち並ぶだけで、庭と呼ぶにはあまりに殺風景だった。俺はアダの情報どおりに、北西に向かって歩を進めた。研究所は裏庭の最奥の林の中に、人目を避けるように建っているとのことだった。ただ、敷地内にあるといっても、実はコルラードの屋敷のほうがあとに建てられたもので、研究所のほうが歴史が長いらしかった。

 研究所の責任者であるディーナは、かつて他国で非人道的な人体実験を数多く行い、追放された科学者の末裔だった。エレクトリスに流れ着いたのちも、街で誘拐したチンピラや宿無しを連れ込んでは、生体解剖や、薬物の検体に利用していたらしく、そのおぞましい所業から、かつては全てのファミリーから忌諱され、庇護を受けることはなかった。科学者たちは人里から少し離れた土地に廃墟を見つけ、そこを住処として実験と研究に明け暮れたという。現在の研究所は、罪人たちの収容所だった建物を改装したという話で、元が何であれ誘拐した被検体を閉じ込めておくにはうってつけだったようだ。

 こうした猟奇的ともいえる科学者たちの研究への熱意は、一族に受け継がれた医学、及び薬学のロストテクノロジーを解き明かし、実用化するためという、ある意味で純粋な探究心から生じたものだった。おそらくアルカトラズの上層部の誰かがそれに目をつけたのだろう。研究を援助する代わり、獲得した技術を提供することを条件に、ディーナの一族を組織に引き入れた。そのおかげで、アルカトラズは多種多様の毒物や化学兵器を使って他のファミリーより優位に立ち、組織の中枢にある者に限っては、その優れた医療技術を享受することができるのだった。もしぺトラがこの事実を知っていたら、わざわざケクロピアに渡らずとも研究所に押しかけ、持ち前の強引さで性病を治す薬を作らせようとしたに違いない。ただし、ディーナの知識と技術の全てはイラーリオの管理下におかれていたため、お得意のごり押しが成功したとは思えないが。

 歩を進めるあいだ、なるたけ人目につかぬよう気をつけてはいたが、途中、詰所周りで守衛に立っていた構成員に見つかり、声をかけられてしまった。奴もまた、一目見て俺をオルヴァーだと思ったらしいが、見張りのチンピラとは違い、礼儀はわきまえているようだった。男は毅然とした声で言った。

「オルヴァー様。ここから先は、許可された者以外は、幹部であっても通すなと、イラーリオ様からおおせつかっております。どうぞ、屋敷にお戻り下さい」

 俺はわざとらしく頭をかいて言い訳した。

「いやあ、報告会に呼び出されたんだが、何度来てもこの屋敷は広すぎて、部屋の場所が覚えられねえんだよ」

「それで裏庭まで出てきたってわけですか」

「迷ってるうちに具合が悪くなってきてよ。外の空気を吸いに出て、歩いているうちに右も左も分からなくなっちまった。何しろ俺は海の男だからよ。陸では方向音痴なんだ。良かったらイラーリオのところまで案内してくれねえか」

 男は俺のでまかせを聞きながら、しばらく不審げにしていたが、

「かしこまりました」

 と言ってきびすを返し、付いてくるように促しながら歩き始めた。俺はその背後に忍び寄ると、素早く腰のベルトの下から、ギャロット、すなわち絞殺用の鋼線を抜き出し、男の首に巻きつけた。

「か……は……」

 男はとっさに外そうともがいたが、鋼線は一瞬のうちに皮膚に食い込み、もはや自ら喉元に穴を開けて指を突き通すぐらいでなければ、引っ張ることすら不可能だった。じたばたしながら背後にいる俺に手を伸ばすが、無駄な足掻きでしかない。ギャロットは敵地潜入を本分とする特殊工作員の、得意武器のひとつだった。雪の中でナイフを使うと、白い景色に真っ赤な血の跡が残り、目立ってしまうので、この状況下では絞殺がベストだった。また気管支を締めれば叫び声をあげられなくてすむ。俺は鋼線の両端を引き、力いっぱい締め上げた。最初は赤かった男の首筋がだんだんとうっ血して青黒くなり、激しい抵抗も細かい痙攣へと移行していく。やがて首元をかきむしっていた両手がだらりと下がり、男が事切れるのが分かった。俺はその死体を背負って走り、近くの茂みの中に放り込んで雪をかけた。吹雪ということもあって、足跡はすぐに消えるだろうし、死体の上にも雪が積もるだろうが、隠し方としては不完全だ。ひょんなことから見つかってしまう可能性は高かった。その前に速やかに任務を終わらせ、脱出するしかない。俺は研究所へと急いだ。

 詰所の間を通り過ぎ、うっそうと杉の木の茂る林道をくぐり抜けると、灰色に塗られたそれらしき建物が見えた。入り口は分厚い鉄の扉で閉ざされ、その周りに黒いコートを着込んで完全防寒した戦闘員が六人、警備に当たっている。不意をつけば全員倒せないこともないが、無傷というわけにはいかないだろう。そもそも鍵もないのに、正面の見張りを倒しても意味がない。俺は木々の合間に隠れながら、建物の脇をすり抜け、裏手に回った。アダの情報はこうだった。研究所では麻薬以外にも、様々な化学兵器の実験が行なわれている。特に毒ガスを使う場合には専用の地下室があり、実験終了後に換気するための排気口が備え付けられていた。排気効率を上げることに加えて、雪に埋まることがないよう、穴は大きく作られているので、鉄格子さえ外すことができれば、大人が通ることも可能らしい。

 問題は、進入する際にもし実験が行なわれていたら、ガスをまともに浴びることになるわけだが、それを見分ける方法がある。裏手にいる警備員は、実験が行なわれているとき、その影響を受けないよう排気口から離れて立つが、実験が行われていないときは、排気口を守るため、その近くに立つ。簡単だ。進入するには、必ず警備員を倒す必要があるが、表にいる人数より少なければ何とかなる。アダの話によれば、裏手に立っているのはたいてい一人だけで、それも必ず警備員の中で最も下位の者が選ばれるらしい。毒ガスを恐れる構成員たちが、自分より目下の人間に見張りを押し付けていった結果、それが通例になったということだ。どこの世界でも、下っ端は辛いものだ。同情するが、残念ながら俺は、これからそいつを殺さなければならない。せめて苦しまぬよう、一瞬で息の根を止めることを心がけよう。

 俺は近場で一番太い杉の木に身を隠し、排気口周辺の様子をうかがった。アダの情報どおりだ。建物の壁にあけられた、格子のはまった大きな横穴の前に、間抜け面をした痩せたチンピラが立っている。吹雪が目に入らぬようしきりにまばたきし、鼻をすすっていた。視界が悪いせいか、周りを見回すことすら、ろくにしていない。男は穴のすぐ近くに立っているので、おそらく実験は行なわれていないのだろう。今がチャンスだ。雪にほぼ顔が隠れるほど体勢を低くしながら、見張りの傍まで忍び寄る。吹雪によって視覚も聴覚も阻害されているとはいえ、あと三歩というところまで近づいても気付かないというのは、とんでもない間抜け野郎だった。

「悪く思うなよ」

 そうつぶやいてから俺は雪の中から飛び出し、奴の背後から手を伸ばして、その貧弱な首を捻り折った。頭がありえない角度にぶら下がり、男は悲鳴も上げぬまま両ひざを突いて、雪の中に倒れていく。そしてうつぶせになって二、三度大きなひきつけを起こすと、すぐに動かなくなった。俺は二秒だけ黙祷した。神よ、もしいるのなら彼の魂をその御許に憩わせたまえ。

 ……暗殺なんて味気ないものだ。よく知りもしない奴の油断しているところを襲って、急所を突くだけ。精神衛生のため、死んだ相手のことは記憶から消す。何という女々しさ。己の体ひとつで正面から強敵に拳を振るっていたアーツのほうが、馬鹿だがよっぽど男らしい。俺は任務のためにあらゆる卑怯なことを、ためらいなく実行する。そう教えられてきたのだ。他人を欺き、隙に付け込み、必要があれば殺人も犯す。クーニッツ騎士団の命令という大義名分がなければ、エレクトリスの住人達よりよっぽど多くの犯罪を犯している。仮にもし潜入捜査官でなかったとしたら。俺はぺトラのことを思い出した。あいつとはいちど芝居抜きで話してみたかった。きっと罪にまみれた俺であっても、責めることなく受け入れてくれただろう。

 感傷的になっている場合ではない。俺はコートの内ポケットから糸鋸を取り出し、鉄格子に刃を当てて引きはじめた。特殊部隊員だけに特別に支給されるオリハルコン製の鋸だ。鉄はおろか、鋼であってもやすやすと切ることができる。犯罪などで悪用されないよう、任務以外では門外不出の代物で、普通に買えば馬十頭分ぐらいの価値がある。脆弱な鉄格子は、ものの数秒でぽっきり折れた。一本折れば、人ひとり通るには充分な空間が空いた。俺は大柄な体をできる限り縮めて穴の中に入った。殺したばかりの男を一緒に引き入れるのも忘れなかった。死体を隠すのと同時に、構成員の装束を頂いて、帰り道の変装に使うつもりだった。今日が密輸部門の中間報告会であるのは間違いないから、いずれオルヴァーは屋敷に現れる。入念に変装しているとはいえ、鉢合わせればさすがに言い訳のしようがない。俺は排気口の中で死体を裸にひん剥いて、奴の着ていた服に着替えた。かつらと付け鼻は外したが、髭はハンクの人相を知っている奴もいるから、そのままにしておいた。服は少しサイズが小さかったが、身動きが取れないほどではない。これで偽オルヴァーは姿を消したというわけだ。あとは研究所内で情報を入手し、構成員の振りをして適当に脱出すればいい。きっと何とかなるはずだ。

 排気口の中は、ものすごい悪臭に満ちていた。劇薬そのものの臭気はさることながら、おそらくそれによって殺害された人間の死臭が、一面にこびりついていると思われた。俺たち特殊工作員は、任務に必要とあらば肥溜めに足を突っ込むことも辞さないが、この臭いは想像を絶していた。生肉や臓物を腐らせて、すりつぶし、ゴミや、排泄物と混ぜ合わせ、その上に牛の血をぶっかけたような。うまく表現できない。今まで嗅いだどんなにおいとも違うし、これから先嗅ぐこともないだろう。オルヴァーの体臭のほうが、ずっと爽やかだ。それに、壁のどす黒いしみが、誰かの命と引き換えに刻まれたのだと考えると、その一つ一つが今にも口を広げて叫びだすのではないか、という錯覚にも捉われた。肉体的にも、精神的にも、かなりきつい場所だ。地獄を見たければわざわざ死ぬ必要はない。この街に来れば、いくつだってある。俺は胸を突き上げるような不快感と戦いながら、粛々と足を進めた。

 やがて、暗い中にほのかな明かりを放つ窓が、床に空いているのが見えた。おそらく地下室の天井とつながっている穴だ。近寄ってみると、外の排気口ほど大きくないが、肩を外せば、何とかくぐれるだろうと思われた。これも潜入訓練で身に付けた特技で、頭さえ入れば、たいていの場所は通り抜けることができる。俺は大柄だったが、関節がやわらかいので、少々無理な体勢でも融通が利いた。俺はまた鋸を取り出すと、穴を覆っている格子を切り、音を立てぬよう、下に落とさず足元に置いた。そして頭が入るだけのスペースが空いたら、そこに体を押し込んだ。

 降り立った部屋は狭く、殺風景だった。調度品は無いといってよく、壁際に、被験者を括りつけておくためであろう、手枷、足枷が、いくつも備え付けられている。そして、おそらくガスを噴出させるための細かい穴が、床に無数に空いていた。それだけだった。この部屋で得られる情報は何もなさそうだった。内側から開けられることを想定していないのか、扉のつくりは重く機密性に優れていたが、鍵は簡素ですぐに開けることができた。俺にとって、あまりに都合がいいといえば都合がいい。このまま先に進むのが怖いほどだ。しかし、ためらっている時間が惜しい。俺はあたりを警戒しながら、研究所の長い廊下を歩き始めた。アダの話ではディーナの書斎は二階にある。イラーリオやレックスがそこを訪ね、抗争に必要な化学薬品や、例のクスリの発注をするらしい。俺は音を立てぬよう階段を登った。外にはあれだけ見張りを立てていたにもかかわらず、建物の内部に警備員の姿が見当たらなかった。情報流出を避けるためとはいえ、かなりの徹底振りだが、それなのに俺はあっけなく潜入できてしまった。嫌な予感が払拭できない。しかし、進む以外の選択肢はないのだった。俺は二階を調べて回った。病室や、診察室のような部屋もあったが、なぜか人っ子一人いないのだった。まさかアダの教えた情報は不完全で、ここは研究所などではなく、もぬけの殻の廃墟だなんてことはないだろうな、と一瞬疑ったが、それにしては見張りを立たせておくのは不自然だし、やはり何かがあると信じるしかない。

 やがて俺は、お目当てのディーナの書斎らしき部屋を発見した。無用心にも鍵はかけられず、扉は少し手を触れるだけで開いた。人の気配はない。が、直前まで誰かがいた形跡はある。壁を背にしながら中を覗き込む。部屋はあまり整理整頓がなされておらず、床の上には染みのついた白衣が何着も脱ぎ捨てられ、デスクの上には無造作に書類が散乱していた。科学者ディーナは若い女だと聞いていたが、性格はかなりがさつなようだ。

 デスクに近づいて書類の内容を確認すると、どうやら書きかけのカルテらしかった。直近の日付のものでは毒薬の投与の記録。カルテに記された名前を見て俺は衝撃を受ける。先日、組織アルカトラズに降ったバスティアニーニファミリーの構成員と、その血縁者が、新型の毒薬の被験者として、名を連ねていたのだった。ボスのエットーレをはじめとして、幼年、青年、壮年、老年のあらゆる年代、あるいは男女の違いによって、それぞれの検体にどのように効果の差が表れるか、こと細かにレポートされていた。乳幼児の場合はどれくらいの分量で死にいたるか、成人女性ならば肉体のどの部分に変化が現れるか、老人なら毒の周りは遅いのか、などといった趣旨のことが、実験の進行記録と共に、詳細に書き連ねてあったのである。実におぞましい内容だったが、これも組織アルカトラズの実態を報告する上での証拠物件になる。

 さらにカルテの山を掻き分け、その中から数枚つづりの書面を目に留め、俺は胸のうちで歓喜した。ついに、この一年間捜し求めていた、麻薬に関する物証を発見したのだ。

 俺は速やかにその文面に目を通した。被験者の名前はかすれていて読めなかったが、どうやら組織の元構成員で、国外での密造酒の取引をしくじったため、その処分として検体に選ばれたということだった。外見についても細かく記されていた。金髪で、長身痩躯、色白の成人男性。ケクロピアの猟奇事件の犯人と特徴が一致する。被験者のプロフィールの後に、実験のレポートが長々と続いている。

 実験の第一段階としては、数日に渡って、件の麻薬の静脈注射を被験者に施し、依存症状が生じるのを待つ。効果はいわゆるアップ系に分類され、使用すると多幸感及び全能感を得、性格は攻撃的になり、アドレナリン分泌による筋力増強と痛覚麻痺の傾向も見られるが、効果を失うと、打って変わって虚脱感、嘔吐感、または喉の渇きを訴え、時に幻覚、幻聴などのバッドトリップ、被害妄想や希死念慮を引き起こしたうえ、関節などに激しい痛みを生じる。もっと恐ろしいのは、幻覚症状を繰り返すうちに記憶が破壊されるという側面で、三日目には被験者は名前すら思い出せない状態にまでなったという。それなのに、依存症状は強まる一方で、最後には自分が何者かも分からないままクスリだけを求め続ける、立派なジャンキーへと成り果てるのだった。しかし、ディーナの研究は、ここからが本番だった。

 実験の第二段階においては、人格が破壊された被験者に、新たな記憶を刷り込むことを目的としている。自我を失い、絶え間ない譫妄状態に陥った被験者は、その不安から、さまざまな暗示にかかりやすくなる。例えば、架空の人物像を、他人からこと細かに刷り込まれると、本当に自分がその人物であると錯覚するようになるのである。被験者には、多くの自殺者を誘引したとされる古代の文学にちなんで、ヴェルターという暗号名を与えられ、名家の出自で、財産と才能に恵まれて育ったという、いわゆる犯罪者とはまったく正反対の記憶を刷り込まれた。彼は程なくして、その人物になりきるようになった。カルテによると、ディーナは被験者の暗示状態を維持し、禁断症状を抑えるためのクスリを新たに開発している。一時期エレクトリスで流通したことのある安価な麻薬と表面上の効果はさほど変わらず、単独で使用しても記憶を破壊するほどの危険はないらしい。クーニッツ騎士団による家宅捜索でヴェルターの部屋から発見された白い粉は、おそらくこれである。道理で、成分分析をしても、暗示効果を割り出せなかったわけだ。最初に投与したクスリと対で使用することで、はじめて真価を発揮するのだから。新しいクスリの効果が確認されたあと、実験は第三段階へと移行した。

 被験者はエレクトリスを離れ、薬物中毒者でありながら、暗示効果によって他国の街に紛れ込むことができるかを試された。その実験に選ばれたのが他ならぬケクロピア、大陸いち平和といわれる、我がクーニッツ領の首都だった。ヴェルターは大学生と自称し、一般市民に成りすましたが、彼には同行者がいた。被験者同様にケクロピアに住み、定期的にヴェルターと面会して暗示をかけ続け、その動向を本国に報告する人物。おそらく、オーリックも知らなかったという、組織のパイプ役だろう。ここでようやくしっぽを掴んだというわけだ。

 書面に記された情報によると、まだ若い男で、こいつも大学生に身分を偽っている。そして俺はまたしても戦慄した。この構成員は、妹の通っている大学と同じ文学部に所属し、世界最大といわれるケクロピアの図書館の臨時職員として働いている。世界中のありとあらゆる古文書を蔵する図書館の地下には、禁書保管室という秘密の部屋がある。日々発掘されるロストテクノロジーの中でも、特に危険とされる内容の書物を収めている場所である。奴は密かにそこに出入りし、組織にとって有用な内容の古文書を複写しては、本国へ送付していた。その中には、おそらくディーナが必要とするであろう、化学や、医療、錬金術に関する書物が、多数含まれていた。もしこれが事実ならば、クーニッツ騎士団は、組織アルカトラズが行なう非人道的な化学実験に、手をかしていたことになる。

 パイプ役の男は、ヴェルターに対し更なる暗示をかけた。ケクロピアの大学に通う一人の女子学生をターゲットに恋愛感情を焚きつけ、いかなる行動をとるか、観察したのである。それは実に興味深い反応だった、とパイプ役の男の意見が記されている。

『何の変哲もない平凡な女学生を、君の失われた半身だ、と暗示をかけると、ヴェルターは日夜その姿を追い求め、熱情を募らせた。やがて彼にとってその女学生は、神にも等しい、崇拝の対象へと昇華された。これは、被験者にかけられた強力な暗示によって、いかなる人物にも忠誠を誓わせたり、逆に憎悪を抱かせたりできるという可能性の、証左である』

 それは恐るべき事実であった。この麻薬が世界に流通すれば、一般人に成りすましたジャンキーが蔓延することになり、暗示のかけ方次第では、容易にクーデターの扇動や、破壊工作を指示することができる。しかも重度の中毒者は本来の自我を喪失しているので、正確な身分証明や犯罪組織との関連性を自白させるのはほぼ不可能になり、用済みになれば刺客の手を煩わせずとも自殺させれば良いということだ。実用化されれば、他国を内部から転覆させることをも可能とする、まさしく死病の如き麻薬である。実際、ヴェルターは猟奇事件を発生させたのち、あっけなく自殺してしまい、そのせいで事件後の捜査は難航していた。由々しき事態だった。あの事件から一年近く経つが、いまやヴェルターのように一般市民の顔をして潜伏しているジャンキーが、増加しているかもしれないのだ。大陸進出の布石として、アルカトラズがこの薬物を活用する可能性は高く、麻薬の取引を禁じているコルラードがボスの座を退けば、おそらくその規模は拡大するだろう。クーニッツ騎士団にとってのみならず、大陸全体を脅かす事実だ。俺はアダに感謝した。情報を持ち帰ることで、クーニッツ騎士団が組織アルカトラズに対して兵を挙げれば、この世紀の大犯罪は未然に防がれることになる。さしずめ彼女は、知られざる世界の救世主となるわけだ。俺はカルテを持ち去るべく、最も重要な証拠となりうる数部を選別して手に取った。あとは脱出するだけだ。

 その瞬間、ふと書面に記されたパイプ役の男のプロフィールに目が留まった。肩書きはケクロピア大学文学部所属、及び国立図書館臨時職員、ハンス・ホッター。この男の名前には聞き覚えがある。確か妹の同級生にそんな奴がいたような……。

 と、背後にかすかな気配を感じた。俺はとっさに振り向こうとしたが、それより先に首筋に注射器の針が刺さっていた。書類の内容に集中していて、警戒が緩んでいたのか、とにかく迂闊だった。抵抗する間もなく薬物が静脈に注入され、俺は全身が弛緩していくのを感じた。筋肉に力が入らず、立っていることができない。そして耐え難い眠気。うすれゆく意識の中で、俺はアダと同じくらい冷たい眼をした、若い女の姿を見た。こいつが、ディーナ。科学者にしておくには惜しいほどの、つややかな亜麻色の髪と、小柄だが細く整った体、そして人形のように端正な顔。俺は思った。さすがは地獄だ。こんなところにも悪魔がいたか、と。

「いけないわね。カルテを勝手に見るのは、人権侵害よ」

 そう冷淡に言い放つディーナの言葉を聞きながら、俺は倒れて意識を失った。

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