或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より   作:アツ氏

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11.フィナーレ

 一寸先も見通せぬ、闇。

 自分がどんな状態でいるかもわからなかった。意識だけはあるのに、まるで肉体を失ってしまったかのように、何も感じられない。女科学者の注射した毒が回って死んだのか? そして魂だけになって、闇の中をさまよっているのか。立っているのか、座っているのか、目を閉じているのか、開けているのか、上を向いているのか、下を向いているのか。そもそもここが空間であるのかすら、はっきりしない。ただ、分かるのは、一切の光から隔てられたこの場所が、少なくとも天国ではないということ。俺は地獄から地獄に落ちたというわけだ。しかし、どんな劫罰が待ち受けているかと思えば、無。怒りも、苦しみも、哀しみも、嘆きも、飢えも、渇きも、痛みも、恐怖も、不安も、何ひとつない。俺は全ての感覚と、感情から開放されていた。この状態が永遠に続くとしたら、きっとそれが地獄となるのだろう。

 俺は自分が何者であるかを思い出そうとした。しかし、唯一つ残された意識すら、泥水のように混濁していて、記憶を掘り起こす糸口を掴むことができない。

 名前は? ハインリヒ? ヘンリー? ハンク? 仕事は? 軍人? 床屋? 犯罪者? どんな顔? 髭を生やしてる? それとも生やしていない? 表情は? 怖そう? それともやさしい? 髪の毛は? 長い? 短い? どこに暮らしていた? エレクトリス? ケクロピア?  小さな部屋? 大きな部屋? 家族や、友達や、恋人はいたか? それともいなかったか? 誰かを愛していたか? それとも愛していなかったか?

 全てが正しく、また間違っているように思われた。問いかけは答えのないまま、風のように通り過ぎていく。そして忘れてしまう。同じ言葉を何度繰り返しているのか、数えることもできない。時間の流れも分からない。ひとつ前の疑問がいつ生まれたのか、数秒前なのか、数年前なのか。果たして俺は、いつからこうしているのか。それを推し量る時間の概念が完全に失われている。

 全てから見放された空虚な存在として、俺は闇の中を漂っていた。ただ意識の底に沈んだ記憶の残滓は、かすかに光を求めていた。渇いた肉体が水を欲するように。

 そんな俺の渇望が聞き届けられたのか、どこからともなくひと筋の、頼りない光が差し込み、闇の中の一点を照らした。女が一人、うずくまっている。長く豊かな金髪、華奢な身体、紫のドレス、尖った耳。見覚えのあるうしろ姿だ。俺は引き寄せられるように、近づいていく。女は肩を震わせ、かすかに嗚咽を漏らしている。泣いているのだ。思わずその背中に問いかける。

「どうして、泣いている」

 振り返った女の、グリーンの瞳が俺を見とめた。口元を固く結び、涙を浮かべ、押し寄せる悲痛な感情に耐えているのが分かる。俺は彼女を知っている。ずっと拠り所を失っていた意識に、ほのかに温かい想いが生まれる。だが、名前も、どこで出会ったのかも、はっきりと思い出せない。女は言った。

「……ビアンカが死んでしまった。野生に戻してやってくれって、あいつに頼んだのに」

 その細い腕の中には、血まみれの雪狼の首が抱えられていた。次に取り戻したのは後悔。その雪狼は俺のせいで死んだ。だが、俺は誰だ。

「あいつって、誰のことだ」

 俺の問いに女が答える。

「ハンクだよ。私の友達だった」

 頭に石をぶつけられたかのような衝撃。痛みと共に思い出す。その名前もよく知っている。

「……ハンクは俺だよ」

「おまえが?」

 つぶやくように口から漏れた俺の言葉に、女が眉をひそめる。そしてじっくりとこちらを見つめてからかぶりを振った。

「違う。ハンクはただのやさしい床屋だった。そんな風に、手を血に染めたりしない」

 その言葉を受けて自分の両手を見ると、十本の指の先から手首までが、赤黒い液体で染まっている。これは、俺が軍人として命を奪った者たちの血なのか。いったい何人殺したのか、思い出せない。そいつらの顔すら覚えていない。女はさらに言う。

「ビアンカを殺したのも、おまえなのか」

 語調に怒りがこもっている。かすかに胸に痛みを覚えた。そう言われても仕方が無いという気がした。俺の口が無意識に動き、弁解しはじめる。

「殺したのは俺じゃない。だが、助けられなかったのは事実だ。もう少し早く、ビアンカを雪原に帰していれば、こんなことにはならなかった。すまない。赦してくれ。ぺトラ」

 胸のうちから沸き起こるように口をついたその名を呼ぶと、光が消え、女の姿も消えた。代わりに背後から若い男の声が聞こえてくる。

「赦しが欲しいのか。ならば、神に祈り、悔い改めるのだ」

 振り返ると、鷹のような目つきと、浅黒い肌に、砂漠の民特有の民族衣装に身を包んだ若い男が歩み寄ってくる。会ったこともない奴なのに、なぜか記憶に残っている。誰かの話で聞いたのだろうか? 名前も知らないその人物に対し、俺は静かに言い放つ。

「祈って何になる。犯した罪が消えることはないんだ。全てを赦す神など、存在しない」

 すると男は薄笑いを浮かべて、答えた。

「それはおまえ次第だ。信仰心を持ちさえすれば、人は身勝手に、都合よく救われるものだ。私はそのきっかけを与えているに過ぎない。まあ、どう考えるかは自由だ。求めたければ、求めるがいい。おまえが神を拒んでも、神がおまえを拒むことはない」

 男はそのまま俺の肩を掠めて、通り過ぎ、闇の中へ消えていった。それと入れ替わるように、口元にゆがんだ笑みを浮かべた長身の男が姿を現す。奴は灰色の目で、俺を見つめ、言う。

「おまえの言うとおりさ、ハンク。黒い犬をいくら洗っても、白くなることはねえ。白か黒か、おまえはどっちだ? 教えなくたってわかるだろ?」

 その後ろからもう一人、今度は白髪の初老の男が現れる。細かくしわの刻まれた、渇いた唇から発せられる声には、地の底から沸き起こるような、不気味な響きがある。

「床屋よ。何を悩むことがある。築き上げてきた地位も、財産も、犯してきた罪も、死ねば失われるのだ。全ては空しい」

 俺は二人の男の名を思い出す。コルラードとイラーリオ。暴虐の限りを尽くす犯罪組織の首領と、その片腕。憎むべき敵に対し、俺は怒りをぶちまける。

「確かに俺は多くの者を殺めたが、それは貴様らも同じだろう。開き直って、偉そうな口をきくんじゃねえ。今にクーニッツ騎士団が兵を挙げて、エレクトリスを制圧する。そのとき、貴様らも正義の名の下に裁かれるんだ」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。ジギスヴァルトの掲げる正義なんて、ずっと馬鹿にしてきたはずなのに、結局はそれのために命がけで働かされてきた。殺しは殺しだ。どれだけ国家のために尽くしたとしても、特殊工作員ハインリヒ・バルビールという存在自体は、真の正義とは遠くかけ離れている。二人の言うことは、もっともなのだ。俺もまた、所詮は罪人でしかない。そんなやるせない想いに同調するかのように、突然、かすかな囁きが耳元にとどく。

「……正義ですって? 聞いて呆れるわ」

 目の前に白く細い腕が現れ、俺の首に蛇のように絡みついた。声の主に目を向ける。冷たい眼差しに、感情を超越した完璧な微笑、畏怖を覚えるほどの美貌を備えた若い女。

「アダ……」

 俺は呆然としてその名を呼ぶ。アダは俺に抱きつきながら、言った。

「約束を破ったら殺すって言ったでしょ。それなのに、一人だけ船で逃げるつもりなの。あたしは絶対に赦さないわよ」

 絡みつく腕に徐々に力がこもり、俺の首を締め上げていく。女のものとは思えない、ものすごい力だった。首の骨を折られる。そう思った瞬間、アダの三日月形の唇が動いた。

「嘘つき」

 アダの顔の造形がゆがむ。眼球も、鼻も、口も一瞬にして溶けて形を失い、グニャグニャとうごめきながら何か別のものに変貌しようとしている。そのおぞましい光景から目を離すことができずにいると、アダの顔だった物体は、やがて別の人物の相貌をかたどった。俺は息を呑んだ。懐かしい、最愛にして唯一の肉親。妹のフェリシティだった。彼女はしばらく哀しげな目つきで俺を見つめたあと、その口元を恨みがましくゆがませた。

「嘘つき。必ず帰ってきてくれるって約束したのに。この先、あたしに一人で生きて行けっていうの」

 罪の呵責と恐怖とに耐えかね、俺は叫んだ。その瞬間、視界が波紋のようにひらけ、世界に光が戻った。意識を取り戻し、激しく咳き込む。痛いほどに動悸が高鳴り、額に脂汗が浮かんでいるのが分かる。どうやら、ディーナの書斎でカルテをあさっていたとき、不意打ちで注射された薬の効果で意識を失っていたらしい。薬で眠らされると夢見が悪いというのは聞いたことがあるが、それにしたって限度がある。目を覚まして、思わずほっと胸をなでおろす。俺は肉体を失ったわけではなかった。どうにか、まだ死なずにいるようだった。……が、状況は決して良くない。なにしろ身動きが取れない。俺は椅子に座らされ、身体をきつく縛り付けられていた。

 目だけで辺りを見回すと、薄暗い部屋に、鞭や千枚通し、あるいは肉をえぐったり、切り裂いたりするための様々な形状の刃物、頭蓋骨を締め上げるための万力などの器具が、雑然とあちこちに転がっている。床や壁に染み付いているのか、むせかえるような血と腐肉の臭いが漂う。この部屋で何人もの人間が死んでいることは明白だった。拷問室と見て間違いなかろう。なるほど、俺はこれから、苦痛でもって正体を吐かされるわけか。

「お目覚めかしら」

 部屋の一角から女の声。そして近づいてくる足音。薄暗がりの中でほのかに浮かび上がった、白衣の裾が揺れる。現れたのはディーナだった。その傍にもう一人、妖艶な雰囲気を身に纏った若い女が立っている。俺の目はその姿に釘付けになった。なんとなく予測はしていたものの、やはりショックを受けてしまう。今日は赤いドレスではなく、動きやすそうな黒のボディースーツに身を包んでいるが、氷のような冷たい眼差しや、美しいカーブを描く三日月形の唇を、見間違えるはずもない。

「あなたが何者か、大体予想はつくけど、やはり本人から直接聞かないとね」

 そう言って薄笑いを浮かべる女は、紛れもなくアダだった。いや、もっと別の名前があるだろう。今日の服装はどう見ても娼婦ではない。おそらく正体は組織アルカトラズに所属する殺し屋だろうが、男を騙す時と同じ名前を使うはずもない。夢の中で散々この女に嘘つき呼ばわりされたが、その台詞をそっくりそのまま返せば良かったと、どうでもいいことを悔やんだ。確かに研究所について彼女が教えた情報は全て真実だったが、それは獲物の食いつきをよくするために餌の質を上げるのと同じことで、捕まえてしまえば奴らの思う壺だった。俺は逆に情報を吐かされるだけ吐かされ、最後には豚のえさになる。少なくとも相手はそのつもりだろう。

 俺は沈黙を守った。命乞いをしたってしょうがない。後ろ手に縛られてはいたが、比較的自由の利く手先で密かに腰のベルトを探った。着替えの時に小型のナイフを忍ばせておいたはずだ。もし取られていなければ、ばれないように縄を切って二人を殺し、逃げ出すこともできるだろう。……あった。女たちはベルトの裏までは調べなかったらしく、ナイフはそこにきちんと収まっていた。俺がそれを取り出そうとする瞬間、殺し屋の女が言う。

「この男が頑固なのはよく知ってるわ。あたしの色仕掛けにも隙を見せないから、こうして本当のことを教えて、わざわざおびき出さなきゃならなかったんだもの」

 ディーナが興味深げに言葉を返す。

「あら、エーヴリルが色仕掛けで落とせないなんて、珍しいじゃない」

「そうなのよ。今まで落とせなかったのはゲイと不能の奴だけ。でも、こいつはどっちでもなかった。生意気だわ」

「媚薬でも注射したらメロメロになるかしらね」

「あなたの薬の効果が抜群なのは知ってるけど、あたしのプライドが許さないわね」

 アダではなく、エーヴリルと呼ばれた女が、そう言いながら背後に回ってくる。俺はナイフから手を離した。縄を切るまで、これを見つけられるわけにはいかない。エーヴリルが、夢の中で俺にしたのと同じように耳元に唇を寄せ、何か囁く。

「本当は、あなたみたいなむさくるしい男に触られるのは、死ぬほど嫌なのよ。思い出すだけでも寒気がする。ベッドの上であれだけ我慢したのに、全然しっぽを出さないんだから、あたし、腹が立ったわ。その汚い指をきれいに掃除してあげるわね」

 次の瞬間、指と爪との間に、激痛が走った。どうやら千枚通しを使ったらしい。貫かれた指が引きつり、傷口から血が溢れるのがわかる。神経の集中している場所を傷つけるので、手軽だが効果的な拷問だ。十本の指全部同じ目にあうと考えると気が滅入るが、想定の範囲内だ。頭でイメージできることは、訓練すれば耐えることができる。俺は悲鳴ひとつ上げなかった。が、相手にとってもそれは予想通りだったようだ。エーヴリルが、手の内の道具でひとしきり俺をいたぶるのを見届けてから、今度はディーナが動いた。その手には、また注射器が握られている。

「次は私の番ね」

 どことなく愉悦を含んだ声で言いながら、白く細い指先は気配もなく動き、俺の首筋めがけて針を刺した。痛みのあと、血管に異物が流れ込む感覚。最悪の展開だ。肉体的外傷を受ける分にはいくらでも耐える自信はあるが、薬でもって体内から破壊されるならば、その痛みや苦しみは想像がつかない。分からないということは、それだけで恐怖を誘う。ディーナの書斎で、いくつかのカルテを読み、どんな毒物が開発され、使用されているか、その一部は知っていたわけだが、もっと別の得体の知れない薬を注射されたかもしれない。俺の表情に浮かんだかすかな焦りを見て取ったか、ディーナが冷ややかに微笑みながら言う。

「どう、しゃべる気になった? 早くしないと解毒できなくなっちゃうわよ」

 表情の動きは少ないものの、相手がこの状況を楽しんでいるのは明らかだった。サディストどもが。俺は胸のうちで吐き捨てた。再び後ろ手でナイフを掴み、縄に切れ目を入れ始める。いいさ。体が自由になったら脅して解毒させてやる。エーヴリルはプロの殺し屋と見て取れる以上、手ごわいかもしれなかったが、ディーナは戦闘に関しては素人だ。一人だけ倒せば何とかなる。俺は急いで手先を動かした。

 そのときだった。突然、拷問室の扉が開き、薄暗かった部屋の中に光が差し込む。思わず目を細めながら見ると、やや小柄な若い男が入り口に立っている。見覚えのある奴だ。プロッティとの抗争で一騎打ちをしたオルヴァーの側近、クレトだった。奴は部屋の有様を見回しながら言った。

「何をしている?」

 クレトの言葉にディーナが不機嫌そうに答える。

「あなたこそ何しに来たの。これから、いいところなのに」

 華奢な女のくせに、語調に妙な威圧感がある。クレトは一瞬気圧されたように口ごもったが、すぐに自分に課せられた務めを果たすべくして言った。

「イラーリオの伝言だ。ウィッシュボーンを檻から出すから、屋敷まで来るようにと」

 なるほど。正式な構成員ですらないクレトの立場では、平時に研究所に自由に出入りするのは不可能だが、イラーリオの特命がものを言ったのだろう。先の抗争で見事プロッティ家の次男を倒したことで、組織内での格があがったのかもしれない。それはそれとして、ウィッシュボーンというのはいったい誰のことだろう。檻に軟禁しておくというぐらいだから、組織にとっても、かなり危険な人物であるのは間違いない。まだ俺の知らない秘密が、アルカトラズには隠されているということなのか。クレトの発したイラーリオの伝言を受けて、ディーナの表情が変わった。

「そう、ついに……。なら仕度しなくちゃ」

 そしてエーヴリルに向き直り、俺を指差しながら言う。

「……悪いけど、あなたの勝ちでいいから、その男の始末をおねがい」

 俺はといえばもう少しで縄が切れるというところまで来ていた。クレトが現れたのは誤算だったが、全身に薬が回るのを大人しく待つよりは、思い切って戦いを挑んだほうがよっぽど生存確率が上がる。俺は生きて、ケクロピアに情報を持ち帰らなければならないのだ。組織アルカトラズの企てる、恐るべき犯罪を阻止するために。麻薬の毒牙から、守ることができるかもしれない数多くの人のために。そして俺の帰りを待つフェリシティのために。正義か悪か、なんて関係ない。俺は自分の守るべきもののために生き、そして戦う。たとえそれが罪だといわれようとも。

 ディーナの言葉に、エーヴリルがどことなく口惜しげな調子で言う。

「あたしも行っては、ダメかしら?」

 あと少しだ。最後の縄が切れる。しきりにナイフの刃を動かす。

「別にいいけど、その男は?」

 ディーナが問いかけるや否や、エーヴリルの片手が目にも留まらぬ速さで動いた。

 あまりにも鮮やかな手際で、その一瞬は痛みすら感じなかった。が、自分の胸元が生ぬるい液体で濡れるのがわかった。口腔内に血の味が広がり、呼吸と共にごぼごぼと音を立てる。俺のささやかな反乱は、結局間に合わなかった。エーヴリルの手の中で、鋭利な刃物が血を滴らせながら、光を放っている。頸動脈を切り裂かれたのだ。傷口から、おびただしい量の血があふれ出し、急激に体温が奪われていくのを感じる。遅れてやってくる焼けつくような激しい痛み。そして、覚る。致命傷を受けたのだと。すなわち、任務失敗。生きて本国の土を踏む夢は、露と消えた。俺はナイフから手を離した。もうあがいても無駄だ。

「これで問題ないわ」

 とエーヴリルは冷たい眼差しのまま、俺を見つめて言った。ベッドで微笑んだ時の瞳の光と、何ひとつ変わらなかった。彼女の表情の奥にある思惑を量りかねた瞬間から、俺は死に向かって歩き始めていたのかもしれない。ただ、あのとき期せずして胸に生じた、悪魔の笑顔だ、という表現は、結果として間違ってはいなかった。しかし、だからなんだというのだ。俺は死ぬ。

 エーヴリルは俺の想いを知ってか知らずか、その魔性の微笑みをクレトに向けながら言った。

「あなた、この男の死体の処理と、ここの掃除おねがいね」

 クレトはエーヴリルの一級の殺しの技術を目の当たりにし、かすかな怯えを表情に浮かべながらも、

「は、はい」

 と返事をした。

「……戻ってきてディーナが汚いと思ったら、あなたも同じ運命になるから、死ぬ気でやるのよ。わかった?」

 エーヴリルは脅しを含んだ低い声で言った。彼女なら本気でやりかねない、と俺は思った。すでに部屋の入り口に立っていたディーナがエーヴリルを呼ぶ。二人はそのまま俺たちに背を向け、まるで買い物にでも出かけるかのような足取りで、去っていった。

 残されたクレトは、やり場のない怒りを発散させるかのように、一度だけ地団太を踏んだ。

「女どもが! 調子に乗るなよ。いつか弱みを握ってやるからな」

 そして舌打ちしながら、こちらに近寄ってくる。もう俺が死んでいると思っているのか、無防備な足取りだ。いくつもの心残りがあったが、瀕死の身でも、そのうちのひとつだけなら果たせそうな気がした。クレトが接近するまで待って、俺は切れ掛かっていた縄を引きちぎり、椅子から立ち上がった。驚愕の表情を浮かべつつ、一歩後ずさろうとするクレト。しかし俺は逃がさないようその手首をしっかり掴む。奴が震える声で言う。

「な、何だよ。まだ生きてるじゃねえか」

 俺はそれに答えるようにして、言った。気管支に血が溢れて喉がごろごろ鳴り、上手く発声できないが、なんとか伝わるはずだ。

「……そうだ。まだ、生きてる。……が、どのみち、俺は、長くない」

 傷を押しているせいか、一語一語発するたびに耐え難い苦痛を味わう。まだだ。もう少しもってくれ。クレトは気味悪そうにしながらも、しっかり俺の声に耳を傾けている。思ったよりも人情がある。俺は続けた。

「……ひとつだけ、頼みがある。……ぺトラっていう、エルフの娼婦が、ケクロピアから、戻ったら、伝えてほしい」

 倒れそうになる俺の体を支えながら、クレトが訊いた。どうやら情けをかけてくれるらしい。

「……なんて言えばいいんだ?」

 残された力を振り絞りつつ、きれぎれに言葉をつむぐ。

「ビアンカは、雪原に、帰り……、床屋の、ハンクは、妹の元へ、帰ったと……。た、のむ」

「……わかった。必ず伝える」

 クレトが神妙に頷くのを見て、安堵する。結局俺は、最後の最後まで嘘つきでしかなかった。だが、真実よりもずっと価値のある嘘だってある。少なくとも今だけはそう信じていたい。とたんに全身から力が抜け、俺は体勢を崩して床にくずおれた。

「あり、が、と」

 そう感謝を述べる俺の顔は、果たして微笑んでいたのだろうか。全てを失ったというのに、心は不思議と満たされていた。ヘンリー・バーバーとしてでも、ハインリヒ・バルビールとしてでもなく、死に行く名もなき男として口にした言葉。これが俺の最後の台詞だ。

 薄れ行く意識の中で考えた。俺が死んだからといって、俺が殺した連中が生き返るわけじゃない。犯された罪は、やはり消えないのだ。だが、この安らぎはなんなのか。今際の時に、自分のことではなく、ずっと気にかけていた人々のことを想った。誰かのことを愛した分だけ、俺は孤独ではなかった。この感情を人はなんと呼ぶのだろう。殺伐とした日々を生きながら、心のどこかでずっと求めていたものを、俺は最後に味わうことができたのかもしれない。あとは地獄に連れて行くなり、どうにでもしてくれ。

 フェリシティ。最愛の妹。生きて帰れなくてすまない。誰でもいい。どうか一人取り残された彼女のことを守りたまえ。

 

 さあ、芝居は終わりだ。

 

 幕を引くように、俺はゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

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